「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
①林羅山と徳川幕府
>>孔子の教え
- なぜ林羅山が注目されたのか
- 林羅山の思想
- 林羅山に批判した山崎闇斎
林羅山が重視された理由
徳川家康(1542-1616)は儒学を政道にもちいようと、藤原惺窩(1561-1619、ふじわらせいか)を仕官させようとしました。
藤原惺窩は近世日本儒学の祖。
禅と朱子学を特に学んでいましたが、陽明学も取り入れたり仏教に寛容であったりしたと言われています。
藤原惺窩は家康の要求を辞退し、代わりに林羅山(1583-1657)を推挙しました。
家康は辞書(ものよみ坊主)として林羅山を活用してたと言われている
出家は父母と親子の縁を絶つことだったから、孝(両親や祖先への敬愛)を説く儒家にとって許せないことだった
林羅山の本心
仏教を批判しつつも、仏教やそれに関連した老荘思想などもよく読んだと言われているよ
今に至るまで人倫が滅びることがないのは、ひとえに孔子によるが、その孔子をお祭りする先聖殿をこうして創建することができたのは、天下泰平の世のお蔭であると記して、羅山はその喜びを書き留めている。
「江戸幕府と儒学者」p82
それまでは僧侶の姿でいなくちゃいけなかった
林羅山の思想
幕府がなぜ朱子学に目をつけたのかというと、上下定分の理(じょうげていぶんのり)が説かれていたからだと言われています。
「天は尊く地は卑し(いやし)、天は高く地は低し、上下差別あるごとく、人には又君は尊く、臣は卑しきぞ」
『春鑑抄』(林羅山 著作)
つまり、天地自然の秩序になぞらえて当時の身分秩序をとらえました。
江戸時代の人々の身分は武士、町人、百姓、えた・ひにん、公家・僧・天皇、というように、身分ごとに基本は移動できないように定めたのです。
戦国時代は農民も武器をとって戦ったんだけど、百姓から武士になれないようにした
>>仏教とカースト制度
>>朱子学とは
林羅山とレッテル
明治以後の近代日本学問研究はあるレッテルを林羅山に張り付けたと言われています。
- 人間性を否定する封建数学の守護神
- 強権的な幕府政治に迎合する権力の走狗
- 思想的な独創性を持たない凡庸な儒者
確かに朱子学の発達により、身分制度や家父長的な家制度が強くなった面もあります。
しかし、朱子学が広められたのは、親子兄弟が争い合った戦国時代。
人倫道徳を顧みない不安定な弱肉強食の時代。
争いにシフトしすぎている時代だったので、それを緩和させる朱子学が注目されたのです。
その通りに行動すると会社は利益がえられるし、従業員もその通りに動けばいいから安心感が得られる。
でも、そのせいでトラブルもある、という感じかな
林羅山を批判した山崎闇斎
山崎闇斎(やまざきあんさい 1618-1682)は林羅山を批判しました。
山崎闇斎「林羅山は朱子学を幕府のいいように解釈して歪曲しているから、元の朱熹(朱子学の構築者)を学ぶべきだ」。
山崎闇斎は君臣関係を基本とした社会秩序の儀を重視し、君臣関係の絶対性を説きました。
敬(つつしみ)を心のなかにもって義(正しさ)を自分にも他人にも求めるように述べたのです。
林羅山を批判したけど、仏教も批判したし、剃髪することも批判した
また、山崎闇斎は垂加神道(すいかしんとう)を唱えました。
単純に表すと、儒学と神道を足したものが垂加神道です。
日本に仏教が入ってきたときの神仏融合を批判して、代わりに儒学と神道をつなぎあわせたのです。
裁判事件
林家は、幕府とくっついたり離れたりといった遍歴があります。
5代将軍綱吉のときには、林家の塾が公的なものになるなど、強い権力を持ちました。
しかし、6代将軍家宣(いえのぶ)になると、林家は遠ざけられたそうです。
1711年、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)のときに起こった事件。
ある農家の夫が妻の実家に出かけたまま帰ってこなかった。
妻は近くの川に上がった水死体が夫ではないかと疑うけれど、実家の父や兄は「そんなことはない」といって取り合わない。
そこで、妻が所の名主に訴え出たところ、その水死体は夫と判明。
妻の実の父と兄が夫を殺していたことがわかった。
殺人を犯した父と兄の罪は問われたが、問題はここから!
『論語』
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」
つまり、儒教道徳的には子どもは父親のためにはその悪事さえも隠すべきであるとされる。
この論語からいえば、妻は不孝の罪に問われた。
(孝⇒両親や祖先への敬愛)
林家三代目林鳳岡は、「父の罪が明らかになったのは女の訴えによるものであり、これは不孝の罪にあたる」と判断。
よって、父の悪事を訴えた女は死罪にあたると主張した。
しかし、6代将軍家宣は納得ができなかったので、新井白石の考えを聞いた。
白石は、女は水死体が夫ではないかと訴えただけであり、父や兄を殺人犯として訴えたわけではないので、女を無罪だとした。
「江戸幕府と儒学者」p330
『論語』はそう言っていても、この女性を死罪にすれば犯罪は増えそう
悪法とは言われたけど、子捨てや見殺しなども罪にしたことで、後の人々の倫理観に影響を与えた