蘭学と幕末

蘭学と幕末|高校倫理3章3節近世日本の思想⑧

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
蘭学と幕末
を扱っていきます
江戸幕府は鎖国をしていました。
一般的には1639年の南蛮船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの期間を鎖国と呼びます。
鎖国のきっかけは島原の乱と言われているよ。
幕府はキリスト教とかの思想を脅威に感じたんだね
ただし、長崎の出島でオランダ商館と中国船との貿易だけはしていました。
鎖国時代でも徳川吉宗(1684-1751)は、漢訳洋書の輸入禁止制を緩和(1720年)。
緩和されるまでヨーロッパ書物の輸入は全部だめだった
そのおかげで、江戸時代後半には洋学蘭学《らんがく》)が盛んになりました。
今回はざっくりと、どのように蘭学が日本に受け入れられたのかをみていきます。
ブログ構成
  • 蘭学の普及
  • 蘭学の発展

蘭学の普及

1774年、オランダ語の解剖学書『ターヘル=アナトミア』を翻訳した『解体新書』(かいたいしんしょ)が出版。

前野良沢(まえのりょうたく、1723-1803)、杉田玄白(すぎたげんぱく、1733-1817)らが翻訳しました。

東洋医学と西洋医学が融合したことで、日本の医学界は大きく進展したと言われています。

杉田玄白は罪人の解剖を見学したときに、『ターヘル=アナトミア』の正確さにおどろいて、オランダ語が苦手だったけど翻訳することにしたみたい
杉田玄白に翻訳の話を持ち掛けられた前野良沢らも翻訳に参加。
オランダ語を少し知っていた前野良沢が翻訳の中心だと言われています。
一行訳すのに一日かかったこともあるらしい。
確かに「フルへヘンド」(形容詞で盛り上がっているという意味)ってあっても、なんのことかわからない…
当時の学問は後継者にだけ伝えるというような風習もあり、オランダ語を知っている人でも教えてくれなかったようです。
なので、翻訳は困難を極めました。
杉田玄白の努力は『蘭学事始』(らんがくことはじめ)に生き生きと描かれているみたい
苦労して完成した『解体新書』。
しかし、『解体新書』の翻訳者には、前野良沢の名前がありません。
翻訳の出来に満足できなかった前野良沢は、名前を載せなかったのではないかと一説に言われています。

平賀源内(ひらがげんない)

他にも、蘭学の知識を生かし多方面に活躍した平賀源内(1728-1779)。

日本のダ・ウィンチとも言われたマルチな天才
エレキテルの復元や、うなぎの日の考案者などで知られている人物です。

緒方洪庵(おがたこうあん)

緒方洪庵(1810-1863)は適塾などを通じて、蘭学や医学を教えました。
江戸から長崎まで医学を学ぶために移動をしたり、予防接種を広めるために無料で提供をしたり、免許制度を取り入れたりしました。
門下生には福沢諭吉がいます。
こうした蘭学の普及は、国際情勢への興味へと向かっていきました。

蘭学の発展

蘭学が普及してきたころ、高野長英(たかのちょうえい、1804-1850)はオランダ商館医であるシーボルトに医学と洋学を学びました。

ここで洋学となっているのは、シーボルトはドイツ人であり、特に蘭(ポルトガル)学というくくりではないからです。

開国後は蘭学というよりも洋学が一般的な名称になっています。

シーボルトは当初オランダ人と名乗っていたみたい。
オランダ語の発音が不正確で怪しまれたんだけど、方言と言ってごまかしたらしい
高野長英は渡辺崋山(わたなべかざん、1793-1841)とともに尚歯会(しょうしかい、蛮社〈ばんしゃ)をつくり、蘭学から科学や技術の知識だけではなく、国際情勢についての知識も得ました。
今までは科学技術面ばかりが注目されていたけど、ここにきて国際情勢を調べたんだね
そこで知った事件の一つがモリソン号事件。
1837年、アメリカのモリソン号は日本の漂流民を江戸に送り届けようとしました。
しかし、日本は異国船打ち払い令(1825年発令)によりモリソン号に砲撃します。
モリソン号は江戸ではなく出島がある鹿児島へ向かうのですが、ここでも打ち払われてしまいました。
えっ、ひどい
と、こんな非難をしたのが高野長英『戊辰夢物語(ぼしんゆめものがたり)』と渡辺崋山『慎機論(しんきろん)』。
彼らは幕府の政策を批判した罪で、処罰されました。(蛮社の獄)

佐久間象山(さくましょうざん)と開国論

さらに洋学の技術を受け入れていったのが佐久間象山(さくましょうざん、1811-1864)。

佐久間象山は歴史的にあまり有名ではないのですが、それは性格のせいだったのではないかと言われています。

時代の先を行き過ぎていると、まわりから理解されなくて変人扱いされるというのもあるよね
>>天才と変人は紙一重の理由「残酷すぎる成功法則」から
ほら吹きだと言われていたり、西洋かぶれといわれていたり、間違いを認めなかったり、日本初サングラスをしてた人であったりしたみたい。
注目を浴びる人物だったんだけど、護衛をつけてなくて暗殺されてしまった…
象山はオランダ語を学び、科学技術を取り入れていきました。
有名なのが大砲です。
幕府の指示で大砲を作るのですが、途中で失敗。
しかし、象山は成功に失敗はつきものだし、大砲を作れるのは私だけなのでもっと費用を出すべきだ、と幕府に訴えます。
象山は学んだことを惜しげもなくみんなに教えたと言われている。
だから、象山に学んだ人は多くて、特に有名なのは勝海舟と吉田松陰
蘭学の普及のように、象山はまずは科学・技術を取り入れます。
次は、国際情勢についても調べました。
1840年に起こった「アヘン戦争」。
アヘン戦争⇒清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。
イギリスからのアヘン(麻薬の一種)の輸入を清が取り締まったため、イギリスが戦争を仕掛けた。
清はイギリスに敗れ、多額の賠償金と不平等条約をおしつけられた。
アヘン戦争は日本人に衝撃を与えたと言われています。
今まで参考にしてきた清国。
その清がアヘン(麻薬)の輸入を制限したことにより戦争を仕掛けられ、負けて、イギリスにいいようにされてしまったからです。
象山は、日本の科学・技術が遅れていることを痛感しました。
このままだと日本も清と同じく、戦争を仕掛けられて負けると思ったんだね
麻薬の輸入を取り締まったら戦争を仕掛けられたっていうのも危機感をあおるポイント

和魂洋才(わこんようさい)

佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」という言葉を残しています。

この場合の芸術は、科学・技術のこと。

当時の日本の西洋理解の一面を強調していて、和魂洋才の立場です。

和魂洋才⇒西洋と東洋の特質を科学技術(西洋)と道徳(東洋)とにわけてとらえようとする思考方法
象山は15代徳川慶喜(最後の将軍)に公武合体論と開国論を説いたといわれています。
1863年には鹿児島でイギリスと薩摩藩との間で行われた戦争(薩英戦争)もあって、西洋の強さを実感した藩は開国よりになっていくよ
和魂洋才の考え方は、日本にいち早い近代文明の受容をもたらすのですが、近代化の問題もありました。
例えば、夏目漱石は「皮相上滑り(ひそううわすべり)」といって、うわべだけ真似ることの問題点を指摘しています。
>>漱石の文芸と道徳論
>>「近代日本の開化」からみる幸せ論
漱石の批判の一つは、芸術と道徳は切り離せるものではない、ということ。
新しい芸術がもたらされると、今までの道徳は古くみられて価値を失いやすい、ということでもある
今回は歴史の転換期を取り扱いました。
蘭学が普及し、国際情勢に目を向け、日本の思想が変わっていく。
哲学用語でパラダイムシフトという言葉があります。
>>クーンのパラダイムシフトからみる「変人と天才」
  • パラダイムとは、一時代の支配的な物の見方や時代に共通の思考の枠組みのこと
  • このパラダイムが変換されることをパラダイムシフトと言う

パラダイムはのちのち取り扱う科学革命で詳しくやりますが、日本でも明治維新は思想の転換期と呼べるかもしれません。

次回も幕末の思想を取り扱います。

近世日本の思想全9回
>>①林羅山と江戸幕府
>>②中江藤樹と日本陽明学
>>③古学が流行した理由
>>④荻生徂徠(おぎゅうそらい)と経世済民
>>⑤本居宣長と国学
>>⑥石田梅岩の石門心学とは
>>⑦二宮尊徳と学問的精神の展開
>>⑧蘭学と幕末(今回)
>>⑨明治維新の思想

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