明治維新

明治維新の思想|高校倫理3章3節近世日本の思想⑨

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
明治維新の思想
を扱っていきます
江戸幕府は鎖国をしていました。
一般的には1639年の南蛮船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの期間を鎖国と呼びます。
1825年には異国船打ち払い令を出し、外国船は見つけ次第打ち払うことを命じていました。
しかし、清で起こったアヘン戦争の情報を得ます。
西洋の技術がすごい!ってことを痛感したよ。
>>蘭学と幕末
それから、異国船打ち払い令を撤廃。(1842年天保の薪水給与令)
薪や水を異国船に対して供与する柔軟な対応にする一方で、海防強化に力を注ぐことになります。
1854年日米和親条約。
黒船来日!
幕府は戦争にはならないように気をつけて対応をとった
日本がアメリカに2港を開くことによって、鎖国は終わり、開国することになりました。
この歴史の動乱ともいえる中で、日本国内ではどのような思想があったのでしょうか。
明治維新(1868-につながる思想として、倫理の教科書で取り上げられている人物を中心にみていきます。
明治維新⇒江戸幕府にかわって新しい政府が誕生し、近代国家に生まれ変わるための多くの改革を発表し、年号を明治に改めて新しい時代の幕を開いた近代化革命
ブログ内容
  • 幕末の思想
  • 吉田松陰(よしだしょういん)

参考文献 歴史書図鑑(伊藤賀一監修)渋沢栄一と陽明学(林田明大)

明治維新につながる幕末の思想

19世紀にはいると、皇国意識(幕府への改革意識)と海防意識(異国の脅威)を背景に水戸学(みとがく)が台頭。

水戸学といえば徳川光圀が『大日本史』をつくる過程でうまれたよ
>>本居宣長と国学の大成
水戸藩は将軍の懐刀として、格式を強いられていました。
しかし、それが元で財政難に。
水戸藩は日本史の編纂のために有能な人も集めた。
飢饉もあったし、お金がかかることが多かった
水戸藩は疲弊していたので、改革が必要でした。
学問が尊ばれていたので、副業も重んじられ、その一つが学問所でもありました。

水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい)

会沢正志斎(1782-1863)は水戸学の学者・思想家。

主君に対する対する忠誠、国家秩序に対する服従を絶対視する「大義名分」(たいぎめいぶん)論を唱えました。

特に有名なのが『新論』で、その内容は尊王攘夷(そんのうじょうい)。

会沢正志斎は当時を代表する尊王攘夷論者であり、著書『新論』で「攘夷のためには天皇と幕府のもとで国民が一つにならなければならない」と説き、天皇を中心とする国家の在り方を「国体」という言葉で表現しました。
「歴史書図鑑」p234

会沢はロシアの南下政策から、国際情勢に目を向けていたよ。
1825年の異国船打ち払い令の頃には、『新論』を執筆していたみたい
『新論』は西欧諸国による日本侵略を予言していました。
その頃、イギリス船が何度も日本に来ていた事実から、侵略される可能性を述べたのです。
イギリスは思想によって、日本侵略の正当性をすりこむだろうと予想。
  • 物質・文明と精神・思想は違う
  • けれど、すりこまれることで、日本人がいなくなってしまう

会沢正志斎はこのような危機感から尊王攘夷を唱えたといわれています。

日本思想の優位性を堂々と表明し、江戸の教育レベルは高いと述べました。

会沢の攘夷(じょうい⇒外敵を撃ち払うこと)は思想の面でも捉えられているんだね。
物資・思想両面での祖国防衛が必要だと説いた
異国の脅威を知ったうえで説いた尊王攘夷だから、開国に向けた攘夷(日本思想を重んじる)でもあったみたい
会沢正志斎が学んでいた儒学(水戸学は儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想)には、徳の高い王者は力で支配する覇者に勝つという考え方があります。
王道政治>覇道政治
尊王の思想は、王を天皇・朝廷、覇者を将軍・幕府に置き換え、天皇が治める世こそ理想だと考えたのです。
身分制度(士・農・工・商など)はそのままだけど、トップを善くすることで国を一つにまとめようとした動きなんだね
最後の15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は水戸藩出身。
会沢正志斎にも教わっていたと言われています。
徳川慶喜は大政奉還(政権返上を明治天皇へ奏上)をしました。
徳川慶喜は政権を天皇に返しても、裏で国内統治はできるかなと考えていたよ。
でも、クーデターがあったりして、新政府になった

横井小楠(よこいしょうなん)

横井小楠(1809-1869)は武士であり儒学者。

儒学の理想である仁を基準として西洋文明の功罪をとらえ、近代日本を展望し、幕府と朝廷のむすびつきをめざす公武合体論を説きました。

横井小楠はいろんな解釈ができる人物みたい。
人によっては「思想がない思想家」と言われている
横井小楠は身分階層を超えた討議を重視しました。
納得すれば意見を変える、という柔軟さを持ち合わせていたとも捉えられます。
「今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない」
自説をいうときにこのように添えていたといわれています。
ただ、酒癖が悪かったり、言動によって熊本藩に内乱が起こってしまったり、最後には暗殺されてしまいました。
お酒の席で襲われたときに逃げてしまって、武士にあるまじき行為と非難されたらしい

明治維新は横井小楠の発想から、という話もあります。

議論が大事という精神は明治維新に受け継がれました。

大塩平八郎と陽明学

大塩平八郎(1793-1837)は陽明学の知行合一(ちこうごういつ)に学び、1837年(大塩平八郎の乱)に飢饉(ききん)にさいして「救民」のために決起しました。

知行合一に関して。

  • 知と行とを分けて、二つとすることはできない
  • 知と行は別々のものではなく、もともと一つのものである
  • 知っているという以上、それは必ず行いにあらわれる
  • 真の知とは、行いとなってこそのものであり、行わなければ知というに値しない
  • 知と行を一致させよなどと、言行一致を説いたわけではない
    「渋沢栄一と陽明学」より参照
知行合一に関して、勘違いしやすい部分をまとめてみたよ
大塩平八郎の生きていた当時、わいろが当たり前でした。
役人のさまざまな不正を目にした大塩は、不正を働く小人に国家の政治を任せていればいずれ天罰があると予感。
その予感は確信にかわります。
天の意思をみようと天体観測をしていた大塩。
そのころに天災がおこります。
天保の大飢饉(1833年)では30万人もの犠牲者がでました。
大雨による洪水や冷害による大凶作があった
大塩平八郎は「この飢饉は、人々のうらみが天に通じたためだ」と思い立ち、決起したと言われています。
大塩平八郎の乱は、天保の改革(1841-1843)のきっかけになりました。
倒幕の働きの一つと言われています。
天保の改革は厳しい節制令で、経済に打撃を与えてしまったよ。
わずか2年でやめになって、幕府の衰退を早めたとも言われている

明治維新の立役者、吉田松陰(よしだしょういん)

吉田松陰(1830-1859)は、天皇を中心とする政治(一君万民〈いっくんばんみん)を唱え、多くの志士に影響を与えました。

吉田松陰は松下村塾で指導し、その教えは各個人にあわせて得意なところを伸ばす教育だったと言われています。

明治維新で活躍した高杉晋作や伊藤博文などにも影響を与えました。

吉田松陰は横井小楠と話し合ったことがあるといわれている。
二人とも陽明学者とも言われているよ
吉田松陰は藩の枠を超えた「横議」(おうぎ)による人間の交流を考えていました。
彼の行動をささえた原理は、自己の純粋な心情に徹し、天道と一体となろうとする「誠」でした。

明治維新

江戸幕府から明治政府に代わった思想の背景には、陽明学の思想が影響を与えています。

陽明学は儒学の一派であり、孟子の性善説の流れです。
>>孟子と荀子「性善説と性悪説」

その孟子は易姓革命を説いています。

孟子が説いた易姓革命⇒天の意思は民衆の声に反映される。
覇道(王の利益のため武力で民衆を治める)政治をする悪い王は民衆に打倒される。
明治維新自体は、儒学の流れの中にあったとも解釈できるんだね
つまり、身分制度はそのままで、トップを変えようとする動きだった
明治維新の思想を取り扱いました。
次回は第4節「西洋思想の受容と展開」に入っていきます。
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