二宮尊徳

二宮尊徳と学問的精神の展開|高校倫理3章3節近世日本の思想⑦

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
二宮尊徳と学問的精神の展開
を扱っていきます
江戸幕府を開いた徳川家康が世の中を安定させるために儒学を取り入れます。
身分秩序統制を図り、幕府はまず朱子学(儒学の一つ)を広めていきました。
身分制度があって、恵まれない環境。
その中でも名を残した一人が二宮尊徳(にのみやそんとく)です。
二宮尊徳の物語を中心にみていきます。
二宮尊徳
二宮金次郎(尊徳)像は有名。
戦前に全国の多くの小学校に建てられたよ。
尊徳の精神を教育の象徴にしたかったみたい
でも、銅像は戦時中の金属提出に使われたり、現在の教育方針には合わないからと撤去されたりしているよ
他にも、学問的精神を展開させた人々も紹介していきます。
ブログ構成
  • 二宮尊徳の生涯と報徳思想
  • その頃の学問的精神の展開

参考文献  代表的日本人(内村鑑三著、鈴木範久訳)歴史書図鑑(伊藤賀一 監修)

二宮尊徳の生涯と報徳思想

二宮尊徳(1787-1856)の生まれは農民です。

二宮尊徳の少年時代

二宮尊徳は幼いころに両親を亡くし、伯父さんに引き取られました。

位は農民であっても、字は読めるようでありたい、との思いから孔子の『大学』を一冊購入。

普段は家のために懸命に働き、仕事が終わると本を読みふけりました。

仕事終わりというと、もう暗いのかな
やがて、本を読んでいるのが伯父さんに見つかります。
伯父さんは激怒。
尊徳の読んでいる本は思想書で、農耕には役に立たない。
「そんな勉強のために、灯油を使うとはなにごとだ!」と、尊徳は伯父さんに叱られました。
僕だったらグレる
しかし、尊徳は伯父さんの言うことはもっとも、と納得します。
自分の油で明かりを燃やせるようになるまで、勉強を中断。
空地にアブラナの栽培を始めて、一年後になたねがとれるようにしたのです。
!?自家栽培でなんとかしちゃった
しかし、またも伯父さんに怒られます。
「おまえの時間はおれのもの、そんな無駄な勉強はするな」
これも、尊徳は受け入れます。
仕事をしながら本を読むことにしたのです。
これが銅像になったんだね!
尊徳はアブラナ栽培の成功例から、次は小さな田んぼをつくり、米を栽培してみました。
これも成功。
それから数年後、尊徳は伯父さんの家を離れ、空き家になっていた自分の家に住みます。
荒れ果てた空き家。
しかし、尊徳は荒地を立ち直させる能力を十分身につけていたのです。
グレずに、自分の力で生きていく能力を育てていた

二宮尊徳の課題

何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を持つようになりました。

その名声も各地に広まっていきます。

それに目をつけたのが小田原藩主。

小田原藩には数年にわたって放置されていた三つの村がありました。

三村は栄えていたときは年貢を4000俵とれていたのですが、今はせいぜい800俵です。

飢饉で農民が逃亡したり、盗人が多かったりしたみたい
藩主は、その村に復興支援金のようなものを配るなど、対策を練っていました。
しかし、改善されずに困って尊徳に頼んだのです。
尊徳は悩んだあげく受け入れると、まずはその金銭的援助を打ち切るように言いました。
援助の打ち切り!?
「かような援助は、食欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。
荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自分で立ち直らせなくてはなりません。」
「代表的日本人」p86 尊徳の言葉から抜粋
現代の企業コンサルみたい!
魚をあげるんじゃなくて、魚の釣り方を教える
尊徳は贅沢をせず、一日の睡眠はわずか2時間。
畑には誰よりも早く出て最後まで残り、村人と運命を共にしました。
こうして村々は再興し、全国の諸大名も尊徳にコンサルを頼みにくるようにまでなったのです。
尊徳は実学だけではなく、仁術によって村々に安定をもたらしました。
尊徳は村人から誠意をさずかろうと願って、21日間断食したらしい
今でも人文知ってどう「役に立つのか」という議論はあるけど、尊徳は思想書をこうやって活かしたんだね
尊徳の代表的な教訓
  • 「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
  • 「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない」
  • 「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かしうる」
  • 「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」
    代表的日本人p100

後には、尊徳の名と教えとにより結ばれた農民団体(報徳社)がみられるようになりました。

二宮尊徳の思想

教科書からのポイントをまとめます。

二宮尊徳は「農は万業の大本」と唱えました。

農業は万物を成長させる天道と、それに従いながら努力する人道によって成り立つと説いたのです。

太陽の光が植物を育ててくれる天道に対して、雑草を抜いたり植えたりっていうのが人道
尊徳は、天地・君・父母・祖先の徳(働き)によって与えられた恩恵を自覚しながら、みずからの徳によってそれに報いていく報徳の思想として、人道を受け止めました。
尊徳と言えば報徳思想。
だから、報徳社って名前が尊徳に由来しているんだね
さらに、収入に応じて支出に限度を設けて生活し(分度〈ぶんど〉)、倹約によってできた余剰は蓄え、さらには社会に還元すること(推譲〈すいじょう〉)に尊徳は報徳の実践を求めました。
尊徳は治者に対しても道徳を説きます。
例えば、飢饉に治者が民の救済策をたてられない場合に、治者は自分の罪を認め、みずから進んで食を断つべきだと述べました。
尊徳の思想は、個人よりも家、国、全体が良くなるようにするという思想。
尊徳自身は生涯働き続けた人だったらしい

二宮尊徳より前の学問的精神の展開

農民や町民の思想として、二宮尊徳よりも少し前の人物を紹介します。

忘れられた思想家、安藤昌益(あんどうしょうえき)

安藤昌益(1703-1763)は、農耕を天地自然の本道と考え、人間生活の基本としました。

昌益は武士の支配する世の中を法世(ほうせい、差別と搾取の世界)と非難。

自分で農耕しない人を「不耕貪食の徒(ふこうどんしょくのと)」と言ったよ

すべての人が農耕に従事し(万人直耕)、差別がない自然世(しぜんせいへの復帰を説きました。

  • 法世⇒差別と搾取のある世界
  • 自然世⇒みんな平等

さらに、昌益は儒学・仏教などの伝統的な教えは、法世をもたらしたものとして批判。

この思想は当時において受け入れられるものではないと思った昌益は、自分の本『自然真営道』を身近の人にだけ貸し出したり、配ったりしました。

本の多くは関東大震災で焼失。

その難を逃れた本だけが残っています。

1899年に昌益の本が発見され、カナダ外交官のハーバート=ノーマンが1950年著『忘れられた思想家‐安藤昌益』で紹介したことで、広く知られるようになりました。

100年以上前に共産主義的な発想が出てきていたんだね
安藤昌益は今日では世界初のエコロジストと言われることもあるそうです。

富永仲基(とみながなかもと)の加上説

富永仲基(とみながなかもと、1715-1746)は、後代の思想は前代の思想に新しいものをつけ加えることによって展開されるとする加上説を唱えました。

加上説⇒後代に生まれた説話はその発展の歴史過程で、先発の説話より古い時代にそのルーツを求めて取り入れ加えられていき、複雑さを増していくもの

仏教の経典も釈迦の言葉とはかぎらないと考えたのです。

富永仲基は32歳で病気で亡くなったんだけど、天才だったと言われている

合理主義思想、山片蟠桃(やまがたばんとう)

山片蟠桃(やまがたばんとう、1748-1821)は大阪の商人として卓越した経営手腕を発揮。

地動説を認め、神代史を否定するなど、合理主義思想を展開しました。

財政破綻した仙台藩を藩札で立て直したりして、幕府から2度表彰をうけたみたい

江戸の思想家であり、自然哲学者とも呼ばれる三浦梅園(みうらばいえん)

三浦梅園(みうらばいえん、1723-1789)は医者ですが、江戸の思想家、自然哲学者と言われています。

朱子学の用語を使いながら、西洋哲学に通じる批判精神や懐疑精神のもとに、自然の「条理」(構成原理)を探求。

独創的な自然哲学の体系(条理学)をつくりました。

  • 条理⇒自然界の生成運動の法則
  • 条⇒木の枝
  • 理⇒その筋をつくっている考え方の理脈のこと
湯川秀樹(日本初ノーベル賞取得、1907-)は三浦梅園を天才と言っていたらしい
二宮尊徳と学問的精神の展開をやりました。
次回は幕末の思想を取り扱います。
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