末法思想

末法思想と浄土宗|高校倫理3章2節日本の仏教思想③

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第2節「日本の仏教思想」
末法思想と浄土宗
を扱っていきます。
前回は最澄と空海を扱いました。
>>①聖徳太子と和の精神
>>②最澄と空海
聖徳太子から神道と仏教が融合する日本仏教が始まったとされ、そこから最澄と空海による山岳仏教がさらに日本仏教を形作ります。
今回は末法思想と浄土宗。
最澄(767-822)から時を経て、末法とよばれる時代がきます。
末法思想とは、釈迦が説いた教えによって悟る人がいる時代がすぎると、次に悟る人がいない時代がきて、その次には人も世も最悪となり、正法が行われない時代がくるとする歴史観のことです。
  • 正法時代⇒教・行・証(教え・修行・悟り)が整った時代
  • 像法時代⇒教と行のみで証がない時代
  • 末法時代⇒すべて失われて災いが広がる時代
今も末法ってこと?
末法時代が終わるまでに一万年かかるのだとか…

1052年(永承7年)に末法に入ったと信じられました。

ブログ構成

  • 末法思想とは
  • 浄土宗とは

参考文献 「最後の親鸞」吉本隆明「梅原猛の授業 仏教」梅原猛

末法思想とは

平安時代初期(平安京遷都794年)の頃、すでに最澄(767-822)は末法が来ていると自覚していたという説があります。

863年の越後の地震、京都の疫病。

869年の東北の地震や津波、870年代の噴火、880年代の大地震。

都では死体があちこちに野ざらしになっている状態だったそうです。

平安時代中期

平安中期には、空也(903-972、阿弥陀聖〔あみだひじり〕、市聖〔いちのひじり〕)が民衆の間に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱える口称念仏(くしょうねんぶつ)を広めました。

「南無阿弥陀仏」

  • 南無⇒サンスクリット語の音写で「帰依する」を意味
  • 阿弥陀仏⇒広大な慈悲で人々を西方極楽浄土へうまれさせ、成仏させることを誓った存在

951年ごろに都では疫病が流行。

そのときの村上天皇が空也を都に呼びました。

空也がしたことは、町の人の介抱だったり、感染した井戸を埋めて新しい井戸を掘ったり、火葬を実施。

野ざらしになっている遺体が多かったから、集めて火葬してあげたみたい

感染症の元を断つことで、都の疫病はおさまっていきました。

空也は六波羅蜜寺を建立。

寺にある空也上人像では、空也の口から六つの阿弥陀仏が出ています。

「南無阿弥陀仏」という一文字つづが仏様になっているのです。

空也は日本で念仏を広めた最初の人物。

平安時代前期・中期は読み書きができたのは貴族だけだったので、庶民にもわかるように仏の教えを広めていきました。

空也は実際に疫病を鎮めたこともあって、そんなすごいことをできる人が言ったことならば本当だと、民衆に仏教が受け入れられていったよ

平安時代後期

平安時代後期には、天台宗の僧源信(942-1017)が『往生要集』(おうじょうようしゅう)をあらわしました。

この書は浄土教の元になります。

源信の書は、この世を穢れた世だと厭わしく思い(厭離穢土〔おんりえど〕)、極楽浄土へいって往生することを願い求める(欣求浄土〔ごんぐじょうど〕)思想です。

平安後期には仏教が庶民の間に広がり、末法思想も広く信じられるようになっていました。

末法は現世ではすべてが失われて災いが起こる時代です。

死体が野ざらしになっているのが日常茶飯事
疫病や災害などで現世での望みがなくて、人々が心の平安に浄土(仏が住む清浄な国土のこと)に行くことを願った

地獄と極楽の描写がおこなわれ、心に阿弥陀仏とその浄土の情景を思い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)がすすめられました。

平安時代末期

平安時代末期には末法に入ったと信じられていました。

1052年(永承7年)に末法。

歴史的には平安末期は貴族の支配がくずれはじめ、武士の台頭が目立ち始めました時代。

末法思想と世の中の混乱の不安から逃れるために、厭世的な思想に傾いていったのです。

この時代に出てきたのが浄土宗でした。

餓鬼

  • 餓鬼草紙』(平安末期から鎌倉初頭の不安定な社会情勢を背景)には、飲食物を得られずに飢餓状態にある餓鬼が死人を食べているところが描かれている
  • 鴨長明『方丈記』(1212年)には、「人間は飢えのまえには、信心も黄金への欲望もわすれるかにみえる」とある
民衆には仏教を学ぶ余裕はなかった

末法思想と浄土宗

末法思想を土台に置き、出てきたのが浄土宗です。

法然(1133-1212)は比叡山での長い修行を経て、浄土宗をひらきました。

〔法然院 山門〕

「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏さえ唱えれば誰もが平等に極楽浄土に往生できるという専修念仏(せんじゅねんぶつの道。

仏様の力によって救済を願う、他力救済の思想です。

法然が43歳の頃に専修念仏を主にする「浄土宗」を開こうと考えて、比叡山を下ります。

法然は比叡山でずっと修行してた

山を下りて、法然が念仏を唱えたのちにひと眠りしていると、夢の中で善導(中国浄土宗の祖)があらわれて二人で対面。

これにより、法然はますます浄土宗をひらく気持ちを強くしたと言われています。

日本仏教は伝統とか根拠を大事にする。
法然は善導に思想の根拠を置いた

源信と法然の違い

源信も念仏を唱えればよいという観想念仏を唱えましたが、法然は「ただ念仏を唱えればよい」としました。

源信の観想念仏はイマジネーションを必要として、それは極楽浄土のように仕立てた庭園を見ている貴族にこそできる念仏でした。

(観想念仏を)できるのは、特定の賢い人間と金を持っている権力者だけです。

とすれば、そういう想像力に長けた人間や権力者だけしか極楽浄土へ行けないのか。
(「梅原猛の授業 仏教」p184)

法然は阿弥陀さまはそんなことを考えないと思いました。

そこから、善導が書いた『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)の注釈書『観経疏』(かんぎょうしょ)に、念仏は想像の念仏ではなく、口で「南無阿弥陀仏」と言えばよいと善導が言っているのを法然は見つけたのです。

権力者に支持されていた源信の思想を庶民向けにしたのが法然

法然の生涯

法然は強い末法の意識から、念仏という易行(いぎょう)を絶対化しました。

「浄土宗の人は愚者になって往生するのだ」と、法然が言っていたと伝えられています。

法然は仏教の信徒が守るべき行動規範(持戒)を行うことはとても難しく、法然自身もそれを貫くことは難しいと考えました。

だからこそ、自分も含めた凡夫(愚者)が往生するためには無理な持戒よりも念仏を一心に唱えるべきだと説いたのです。

この愚者を徹底させたのが次回にやる親鸞
実は法然には徹底できていない点があって、法然自体は弟子がいて教える人だった点。
「無知の知」を教えるという矛盾は、無知の知を「不知の自覚」と訳すべきという論と通じるかも
>>不知の自覚とする理由

しかし、易行だったために、「念仏さえ唱えれば何をしても良い」と言い出す人がでてきました。

これに対し奈良仏教の改革派の明恵(みょうえ、1173-1232)は法然を批判。

法然は後鳥羽上皇により念仏停止が下されました。

浄土宗の教えから後鳥羽上皇の女性使用人が出家して尼僧になってしまった。
それに上皇は怒って、法然を流罪にしたよ

法然は流罪とされるのですが、流された讃岐国中に布教の足跡を残しています。

踊り念仏

浄土信仰から一遍(いっぺん、1239-89)もあらわれました。

時宗(じしゅう)の開祖です。

一遍は「南無阿弥陀仏」の名号が真の実在であると確信し、浄土念仏をすすめました。

念仏を唱えて踊る「踊り念仏」を考案し、全国を遊行(ゆぎょう)。

すべてを捨て去って念仏を唱えるところから捨聖(すてひじり)ともよばれました。

この世は忌むべきもので、往生が良いとする思想をつきつめた

たとえば、一遍にとっては浄土は〈願わるべき死〉としてあり、いかにして生きながら死と等価な姿を実現するかが一切の思想的な主題であった。

‐「生きながら死んで、静かに来迎を待つべきである」と云々。

‐生まれたのもひとりである、死ぬのも独りである。だから人と一緒に住んでも独りである、どこまでも連れ添ってゆくべき人などないからである。

‐じぶんの計らいでもって往生を疑うのは、とても当を得ないことである。

‐ただ南無阿弥陀仏と称えることが往生するのである。
「最後の親鸞」p152

踊りながら念仏を唱えてると無心になれる
死を生の延長線上に持っていったよ。
そんなときには、「踊り念仏」をすればいいんだね!

次回はその浄土宗をさらに発展させた親鸞(しんらん)の思想を見ていきます。

親鸞は浄土宗にある矛盾を抱きました。

法然の教義をつきつめていけば、現世をいとい来世をもとめるという思想を徹底してゆくよりほかはない。
「最後の親鸞」p81

なぜ〈死のう〉とすることが良いとされる集団が出来上がるのか、という疑問です。

親鸞はどのような思想を説いたのでしょうか。

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