ニーチェとニヒリズムの処方箋

ニーチェとニヒリズムの処方箋|1章4節9

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
9.ニーチェとニヒリズムの処方箋
を扱っていきます
前回は、キルケゴールと質的弁証法をやりました。
キルケゴールは「私にとって真理である真理」が重要だという実存主義の立場をとりました。
実存⇒キルケゴールは、かけがえのない独自な個人のあり方を実存とよんだ
キルケゴール(1813-1855)は実存主義の祖と言われていますが、ニーチェ(1844-1900)もまた実存主義の先駆と言われています。
ニーチェはキルケゴールをあまり知らなかった
実存哲学は人間の平均化や画一化といった現実への批判があります。
そして、現実がそのようになっていくとすれば、そこにニヒリズムという病がまん延することをニーチェは説きました。
ニヒリズム⇒ニーチェは「最高の価値が無価値になるということ。目標が欠けていること。『何のために?』への答えが欠けていること」と定義した
ニーチェはニヒリズムの未来を予測し、その処方箋を書いた人物です。
ブログ内容
  • ニーチェはなぜニヒリズムを予測したのか
  • ニーチェの力への意志
  • ニーチェのニヒリズムへの処方箋

参考文献 「ニーチェ 人と思想」(工藤綏夫)、「これがニーチェだ」(永井均)「善悪への彼岸」(ニーチェ著、中山元訳)、「道徳の系譜学」(ニーチェ著、中山元訳)「ツァラトゥストラ上」(ニーチェ著、丘沢静也訳)、ギリシア神話(串田孫一)、哲学用語図鑑

ニーチェはなぜニヒリズムを予測したのか

ニーチェ(1844-1900)はこれからの時代を、生きる意味や目的が失われたニヒリズムの時代だととらえました。

実存哲学からニヒリズムの到来を解釈すれば、時代が平均化・画一化したことで個人が疎外されてしまったからです。

資本主義社会を例にとれば、人がつくりだしたものが価値のトップになることで人間は疎外されてしまった
けれど、例えば資本主義社会で言えば、貨幣が価値のトップになることでそれを信仰していれば人々はニヒリズム(虚無主義)ではありません。
貨幣もあれば、神もある。
どうしてニヒリズムになると予想したの?
ニーチェの生きた19世紀のヨーロッパ社会は、民衆の民主化運動と権力の政治反動が交錯した動乱の時代でした。
今までの歴史を見れば、主人と奴隷、領主と小作人、資本家と労働者というように対立が起こっています。
この動乱の時代とは、神を信じている層もいれば、貨幣を信じている層もいて、平等を信じている層もいるという状態。
どれを信仰のトップにするのかで争う時代でもあるね
ニーチェはどの信仰も批判しました。
守旧と変革の敵対的な勢力が衝突していく、こうした危機の時代において、そのいずれに対しても決定的な態度決定をすることができない浮動層こそ、知識階層であった。
守旧に賭けて着実な前進を遂げることを信ずる現実主義者であることもできず、さりとて、革命に賭けて全く新たな社会をつくり出す必然性に動かされる実践家でもありえないのが、このインテリ層であった。
(ニーチェ 人と思想p32)
教育が充実してくると、多くの人がインテリ層になる
インテリ層は定位喪失の苦悩や不安を持ちます。
その不安をニーチェはニヒリズムだととらえたのです。
その時代の哲学者キルケゴールショーペンハウアー、文学ではツルゲーネフやドストエフスキーもニヒリズムの問題を扱った
この時代、多くの哲学者がニヒリズム(虚無主義)こそが新しい世代にとっての問題であると示しました。
なので、ニーチェはニヒリズムと対峙し、その原因を究明し、その処方箋まで書いたのです。
処方箋は、「力への意志」「永劫回帰」「超人」。
まずはニヒリズムの主要な原因だとみなされている「神は死んだ」という思想を取り上げます。

ニヒリズムの原因「神は死んだ」

学問が進歩し、キリスト教の道徳が疑わしくなると、全知全能の神という最高の価値が力を失い、「神の死」という「最高の価値の価値剥奪」が生じる。
「教科書」p165

ニーチェはすべての真理や価値の意味を客観的に固定した絶対的なものだと考える思考法に反対しました。

客観的な認識は不可能で、それぞれの生命にとっての解釈があるのみだと考えたのです。(遠近法主義)

時代で言えば、労働者には労働者の視点があるし、資本家には資本家の視点がある
神には神の視点がある?
そう、ニーチェは今までの善悪を神の視点からのものだと考えました。
キリスト教が善悪をつくったと考えたのです。
ニーチェはこの善悪をつくったのはイエスではなくて、キリスト教だと考えている
ニーチェはキリスト教の善悪は奴隷道徳だと主張しました。
奴隷道徳
  • 善=弱者
  • 悪=強者

弱者は強者に勝つことができないのですが、人は本能的に勝つことを欲します。

そこで、弱者は束になって実際の力ではかなわない強者に「強欲」だとか「軽薄」だと決めつけ、精神的に優位に立とうとするのです。(ルサンチマン)

ルサンチマン⇒弱者は自分を善、強者を悪と思い込むことによって、自分を精神的に優位に立たせる。恨み、嫉妬心。

弱者が束になった畜群本能が道徳という価値を捏造したのだと、ニーチェは考えました。

群れは強い

このルサンチマンはキリスト教だけにあてはまるものではありません。

例えば、イソップ童話「すっぱいブドウ」。

キツネが木の上になったブドウを欲しいと思うのですが、とれません。

とれなかったので、キツネは「あのブドウはすっぱいに違いない」と負け惜しみをいう。

このような負け惜しみの構造こそが、ルサンチマンだと解釈できるのです。

人間の心に絶対にあるのがルサンチマン。
これを道徳という言葉にしたキリスト教は爆発的に人気になったとニーチェは考えた

ルサンチマンはよろこびを感じる力を弱くする構造になっています。(結局ブドウは手に入っていない)

なので、その構造を強くしたのが信仰。(束になることで実際に強くなる)

しかし、知的になった現代の人々にとって、信仰するということが難しくなってきました。

その結果、ニヒリズムが蔓延するのです。

ニヒリズムが蔓延すると、末人(何もやる気がなくなってしまう人)が生み出されるとニーチェは予想した

ニーチェはキリスト教的な価値ではない、新しい価値の軸をつくり出そうとしました。

それが力への意志です。

ニーチェの「力への意志」

神視点が善悪をつくり出したとすれば、ニーチェは私の視点で「よい、わるい」という価値をつくろうとしたのです。

この「よい、わるい」は私の力への意志が基準になっています。

ニーチェは自らの解釈学を「遠近法主義」と名づけ、この遠近法主義による自らの思想を「実験哲学」と特長づけた。

ニーチェによれば、いかなる認識も、認識する我を中心とし、この我の生の創造・発展のためにいとなまれるものであって、こうした我という中心観点から遊離した自体的真理(実体的真理)などというものは、どこにもない。

生の発展のために生じしんが自己を中心として解釈し出していくものが真理であって、その意味で、どんな真理でも、生に制約され、生と相対的に定まるものである。

そうであってこそ、真理のために生が拘束されるのではなく、生のために真理が定まるという、創造的な真理観も可能となるのである。
(ニーチェ 人と思想)p130

生の根本的衝動(力への意志)が軸になるとニーチェは考えた
ニーチェはこの軸を神話から考え出しました。
ギリシャ神話を参考に、人間の精神を動かす根源的なものはディオニュソス的なものだとしたのです。

神話

ディオニュソスは酒の神様であり、演劇の神でもあります。

「ギリシア神話」(p132)によれば、ディオニュソスはそれほど風変わりな物語の材料も残していないとされる神。

ブドウの栽培方法を考え出し、そのブドウからお酒を造る方法を人々に教えたとされています。

ニーチェはディオニュソスを陶酔(反合理性)の象徴として語りました。

酔うと理性よりも情が強くなる
そして、理性的なもの、合理性をアポロン的なものとして語りました。
アポロンは光明の神。
ですが、アポロンには愛する美少年を殺してしまったという話も残っています。
ギリシア神話を教訓に利用しようなどと考える人がいたら、それはずいぶん滑稽なことで、そんなことを言ったら、オリュンポスの神々も、英雄も、たいがいは非道徳的な行動ばかりしている連中で、これほど悪いことを堂々と語った物語はないかもしれません。
(ギリシア神話 解説部分p15)
伝統的な価値や善悪の区別をこえたものをニーチェは善悪の彼岸とよんだから、神話はぴったりなんだね
またニーチェは「非真理が生の条件であることを認めるべきなのだ」(『善悪の彼岸』)と述べていて、それは馴染みの価値評価の感情に抵抗するから善悪の彼岸になる
人間の生はアポロン的(理性的、論理的)なものとディオニュソス的(感情的、享楽的)なものとの対立の過程であり、ディオニュソス的なものが根源的なものだとニーチェは考えました。
ニーチェは人間には理性があるとしつつも、根源を感情的なものだとしたのです。
「何かを知りたい!」って意欲は感情的なものだよね
そして、その感情的なものが力への意志。
この意志は私たちが持っているのですが、意識しないとわからないものなのです。
なんで私は学んでいるんだろう…。
私の根源的なものとしてそれを求めている欲求がある
ニーチェは無意識的なものとして、自分のディオニュソス的なものがあるとしました。
では、その自分の意識できないものをどう知ったらよいのでしょうか。
ルサンチマンを持つ人間は、ニヒリズムにおちいらざるをえない。
でも、末人にならずにすむような処方箋をニーチェは考えた

ニーチェのニヒリズムへの処方箋

ニーチェは主著『ツァラトゥストラ』を、人類に最大の贈りものをするつもりで書きました。

ここでラクダ、獅子、小児を象徴とする精神の三段階について語っているのです。

小児の精神はニヒリズムを克服した「超人」。

弁証法的に進んでいくよ

ラクダの精神

大地の主「超人」の算出をめざす精神は、まず第一に、ラクダのように従順にあらゆる重荷をにない、わけても「汝なすべし」と命ずる義務に服従し、それにたえることによって自己の強さを実証しようとする。

この「畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに出会う。

そして、この強靭な精神は、重いもの、もっとも重いものを要求する」
(ニーチェ 人と思想)p136

ラクダは苦悩や運命に耐えて、そこに自分の偉大さと救いを見出そうとする
ニーチェは生そのものを本質において他者や弱者を傷つけ、抑圧することだと述べています。
ギリシア神話のディオニュソス神の従者である賢者の話。
ミダス王は賢者シレノスに「人間にとって最上で最善のことは何か?」と尋ねます。
賢者シレノス「最善のことは、今となってはどうにもならぬことだが、生れなかったこと、存在せぬこと、無であることだ。
しかし汝にとって次善のことは―まもなく死ぬことだ」
(ニーチェ 人と思想p145 参照)
このような盲目的な生命意志の中に人類は生きている。
なので、耐えなければならない。
このように聞くと厭世主義(えんせいしゅぎ、人生は生きるに値しないものだという絶望的な考え方)が思い浮かびます。
しかし、ニーチェは美と光の神アポロン的なロマン、明るさ、芸術などがギリシア神話を包んでいると感じていました。
実はギリシア民族こそが、人生の暗さや矛盾や非合理性についての鋭い感受性をもっていたのであり、それにもかかわらず、否、そうであったればこそかれらは、生を明るく表現することに渾身の努力を傾けたのである。
(ニーチェ 人と思想p145)
ニーチェは自殺をどう考えるのかな
「自殺を考えることは、きわめて優れた慰めの手段である。
多くの悪しき夜を、これでやりすごすことができるのである。」(善悪の彼岸p137)
自殺も善悪の彼岸
ニーチェは消去と絶滅を肯定すること。
対立と戦闘に対してもイエスということ。
ラクダの境地はまずこのことを認めることからスタートします。
重い荷物を運ぶのに耐えるだけだと、喜びがなくて末人になっちゃう気がする…
だからラクダは獅子になろうとするんだね

獅子の精神

しかし、所与的な運命に耐えようとするこのラクダの精神は、砂漠の孤独の極みのなかで、あらゆる義務や運命に対して「われは欲する」の刻印をおそうとする闘争の雄者、「獅子」に変貌する。

獅子の精神は、他律を自律にひるがえし、義務を意欲に還元し、所与的運命を自由な創造の所産たらしめようとして、既存のあらゆる権威や価値に闘いをいどみ、これに「われ欲す」の刻印をうって主体化しようとする
(ニーチェ 人と思想)p137

獅子は新たな価値創造の自由を実現しようとする
この獅子の精神は、過去の自分自身から自由になろうとする必死の自己超克の試みです。
絶対的な権威性を破壊し、自己とその生に対して本来の主権を回復させようとします。
価値を創造するからこそ、キリスト教的な善悪を越えた自分の「よい、わるい」をつくり出すことができる
道徳的な善悪である神は死んだのですが、神概念はなくなったわけではありません。
ニーチェの『たのしい知識』から、「神は死んだ」の引用を見ていきます。
狂気の人間「おれは神を探している!おれは神を探している!」
狂人は叫び、神を探し回った。
神を信じない人々が群がってきて、狂人を嘲笑した。
狂人は人々に向かって叫ぶ。
狂人「神がどこに行ったかって?
おれたちが神を殺したのだ‐お前たちとおれがだ!
神だって腐るのだ!神は死んだ!
神は死んだままだ!
殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?
‐おれたちの手にあまるものではないのか?
それをやるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?
これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった‐
そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」
(ニーチェ 人と思想p172参照)
僕たちが神々になる!
神はいなかったわけではなくて、私たちが殺してしまった。
でも、神概念は必要だとニーチェは考えているんだね
ニーチェは生を徹底的に肯定するために、ある思考実験を提示します。
悪魔がでてきてあなたに語りかけます。
例えば、サイの河原のように、永遠に石つみをしなければならない。
積んでは崩される。
それと同じような人生を、まるっきり同じな人生を、ずっと繰り返さなければいけないとしたら?
そう告げられたとしたらあなたは私を呪うのではないか?と悪魔は問いかけます。
永劫回帰(意味も目的もなく無限に反復する)の世界は耐えられないのではないか、と。
「そうはならずに、生の回帰というその究極的で永遠的な確証と確認のほかにはもう何もいらないと思うためには、おまえは自分自身とその生とをどれほどいとおしまねばならぬことであろうか。」
(これがニーチェだp171)参照
永劫回帰の世界を肯定する。
まずは意志によって力強い獅子のように。
すると、またここである疑問がでてきます。
肯定に固執することは、否定を否定することに固執することである。
(これがニーチェだp181)
絶対的に僕は正しいんだ!
テスト90点!これは受け入れようよ
あることに固執することはかえって不自由をうみだします。
獅子は百十の王。
強くあらねばいけない、というのはまたニヒリズムに落ち込む原因にもなるのです。
永劫回帰のポイントは現実の肯定にある。
でもそれは、「おのずとなされる肯定でなければならない」(これがニーチェだp180)

小児の精神

だがさいごに、既成権威と闘争して自由を強奪するこの獅子の精神は、この自由を実際に行使して新しい価値の創造を成し遂げるためには、無垢の内的必然にうながされて大自然と遊び、軽快な舞踏によって生存とたわむれ、世界と自己との渾然たる一体感の中で、この世の一切に対して「然り(イエス)」という聖なる肯定語を発声し、一切の存在に即して「われ在り」を実演していく、「小児」へと脱皮していかなければならない
(ニーチェ 人と思想)p137

運命愛、超人の境地!
例えば、獅子の精神が自分の価値をつくりだして、それに成功したとします。
お金持ちになりたい、社長になりたい、としてそれを達成したとしましょう。
社長になった!
あれ、思っていたより達成感がないし、その次は何をしよう…
そのときにうっかりとニヒリズムの谷に落ちてしまうことがあるのです。
ニーチェの超人に関する物語を引用します。
群衆が綱渡りをみていました。
ツァラトゥストラ「人間は、一本の綱だ。動物と超人のあいだに結ばれた綱だ。
深い谷のうえにかけられた綱で、渡るのも危険、振り返るのも危険、立ち止まるのも危険。
人間の偉いところは、人間が橋であって、目的ではないことだ。
人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ。」
ツァラトゥストラは群衆と共に綱渡りを見ています。
綱渡り師が綱を渡っていると、一人の道化師もその綱にのってきました。
ライバルである道化師は、その綱渡り師の上を飛び越えていったのです。
すると、その衝撃で綱渡り師はバランスを崩し、落下しました。
綱渡り師はむしの息です。
綱渡り師「前からわかってたんだ。いつか悪魔に足をすくわれるだろうって」
ツァラトゥストラ「悪魔はいないし、地獄もない。
君は危険を職業としてきた。
軽蔑されるようなことじゃない。
そして君は、その職業のせいで地に堕ちて、滅びていく。
だから、俺の手で埋めてやろう」
ツァラトゥストラは綱渡り師の死体を手厚く埋めました。
ツァラトゥストラが愛するのは彼のような人間であり、高みを目指すために没落する人間です。
『ツァラトゥストラ(上)』p37参照
超人は愛によってなされようとする高みです。
「愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある。」(『善悪の彼岸』p137)
例えば、あなたは絵を描くことが好き、本に没頭するのが好きだとします。
そのものに集中しているとき、時が止まってほしい、ずっとそのままでいたい、と思うくらいそれを愛しているでしょう。
「すべての悦楽は‐永遠を欲する」(ツァラトゥストラ「酔歌」)
ただし、多くはそのときの自分に意識はありません。
なぜ私はその状態が良いのかも、説明がつきません。
わたしたちにとって、自己こそ見知らぬ者であらざるをえない。
わたしたちがみずからを理解することなどない。
わたしたちは自分を他人と間違えざるをえないのだ。
わたしたちには「誰もが自分からもっとも遠いものである」という命題が、永遠にあてはまるのだ。
―わたしたちは自分については、「認識者」ではないのである…。
(道徳の系譜学p9)
超人というのは、文字通り人を越えているのです。

超人(Übrmensch)は、文字どおり超える(über)人(mensch)である。

彼は空間を越えていく。

だから彼は、肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、もはや何も目指さないことを目指す、矛盾した形象であらざるをえないのである。
(これがニーチェだp195)

ラクダ、獅子、小児が比喩なように、意図してそのものになれるわけではないのです。

どうしてもあのゲームが欲しくて執着しちゃう
小児の場合は、それを諦めるように頑張るんじゃなくて、そのものを忘れてしまう
多くの人は悦楽状態にあったとしても、すぐに自分に戻ってしまいます。
我にかえった後、その状態をつくる要素はわかるものの、状態そのものは認識できません。
ずっと集中状態とか、自己を忘れた状態にいると、後で疲れてることがある
でも、その状態になりたいって、いつも努力してしまっているかも
君たちはできるならば―これほど愚劣な「できるなら」もないものだが―苦悩というものをなくしたいと望んでいる。
それではわたしたちが望む者は何か?
ーわたしたちが望むのは、むしろこれまでになかったほどに苦悩を強く、辛いものにすることだ!
ー人間が自分の没落を願うようになる状態である!
苦悩がもたらす鍛錬、大いなる苦悩がもたらす鍛錬、ーこうした鍛錬だけが人間を高めるものであったことを、君たちは知らないのか?
ー魂は不幸を担い、不幸に耐え、これを解釈し、利用し尽くすことで創造的になり、勇敢になる。
ーかならずや苦悩しなければならず、苦悩すべく定められたものだけに向けられていることが、理解できるか?
(善悪の彼岸)p228
苦労した先にある認識できないもの。
特長は小児のように、無邪気で、忘れ、新しくはじめ、遊ぶ、勝手に転がる、自分で動く、神のように自然と肯定します。

ニヒリズムの克服とは

まとめると、ラクダのように耐えていくことから、獅子のように価値を創造し、小児のように意味のなさに喜びの根源をみるのです。

ニーチェはニヒリズムの処方箋を書いたといいましたが、実は行き着いた境地というのは徹底したニヒリズムという境地だと解釈ができます。

ニヒリズム克服はニヒリズムを徹底させることなの?
実は、ニーチェは力への意志を軸においたことによって、価値の評価を下げました。
価値のために生があるのではなく、価値は生の成長に奉仕する道具に過ぎない、という生命主義の立場からみれば、価値の絶対性は否定されてその相対的な有効性のみが問われることとなり、価値の究極性は否認されるのであるから、価値否定という意味でのニヒリズムは、生の正常な状態であるということもできる。
(ニーチェ 人と思想p180)

ただし、ニーチェはニヒリズムを分けました。

消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムです。

2つのニヒリズム

  1. 能動的ニヒリズム⇒精神の向上した権力の徴候としてのニヒリズム
  2. 受動的ニヒリズム⇒精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム
    (ニーチェ 人と思想p180 参照)

ニーチェは①の能動的ニヒリズムの立場を「徹底的ニヒリズム」とも名づけました。

徹底してニヒル(虚無)な現実を正視して、何かのためにではなくまさしくニヒルな現実をそのまま肯定する。

そのような価値観点として「超人」「永劫回帰」「運命愛」をニーチェは持ち出したのです。

受動的ニヒリズムのままだと末人になっちゃうんだね
ニヒリズムの処方箋はその病状「末人」への対処方法
どうしてもニヒルになってしまう生を受け入れて「これが生だったのか。よし!それならもう一度」という境地が運命愛であり、徹底的ニヒリズムです。
今回はニーチェをやりました。
次回はヤスパースを取り扱います。
ニーチェとニヒリズムの処方箋
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