キルケゴールと質的弁証法

キルケゴールと質的弁証法|高校倫理1章4節8

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
8.キルケゴールと質的弁証法
を扱っていきます
前回は、科学的社会主義とマルクスをやりました。
科学的社会主義⇒資本主義の科学的な分析にもとづく社会主義的思想
マルクスはヘーゲル哲学を批判し、思想ではなく現実が先にくると考えました。
現実の資本主義社会を分析して、その思想を明確にしていったのです。
人間が自分のうみだしたものによって支配されていくことをマルクスは理論化した
これに対し、キルケゴールもヘーゲル哲学を批判しました。
キルケゴールとマルクスは、ほとんど同じ時期にヘーゲル批判の活動をはじめたのであるが、相互にその思想を知りあう機会はなかった。
しかしこの二人は、危機の時代・変革の時代といわれる現代の人間の運命を、するどく予言してその処方箋を書いた巨人である。
マルクスは人間の外的・客観的条件を科学的に分析し、キルケゴールは人間の内的・主体的条件を文学的・宗教的に分析したのではあったが。
(キルケゴールp34)
人間の平均化や画一化といった現代的な未来を二人とも予見していた
キルケゴールはヘーゲル哲学のように人間を個物とみなすことはしませんでした。
例えば、ヘーゲル哲学の体系の中で、歴史における個人的犠牲を個物とみなす理性の狡智の批判になります。
ヘーゲルが客観的真理を記述した量的弁証法だとすれば、キルケゴールは主体的真理を重視する質的弁証法を説いたのです。
そして、キルケゴールは「私にとって真理である真理」が重要だという実存主義の立場をとりました。
実存⇒キルケゴールは、かけがえのない独自な個人のあり方を実存とよんだ。
この語は、「人間」一般のような本質的な存在ではなく、この「わたし」のような現実的な存在をさす。
ブログ内容
  • キルケゴールと質的弁証法
  • キルケゴールと実存主義

参考文献 「キルケゴール 人と思想」工藤綏夫、「永遠の単独者 S.キルケゴールの生涯と思想」小副川幸福孝、「哲学用語図鑑」田中正人著、斎藤哲也監修

キルケゴールと質的弁証法

キルケゴール(1813-1855)は「私にとって真理である真理」が大事だとする立場をとりました。

そこに至るには論理的な弁証法をとっています。

確かに、いきなり「自分の真理である真理が大事!」と言われると学術的根拠がうすい…
なぜ「私にとって真理である真理」が大事になるにいたったのかを、キルケゴールの「実存の第三段階」からみていきます。
これが質的弁証法になっています。
キルケゴールは人間における絶望を軸に、人間はかならず絶望することを説きました。
このより恐ろしい危険、絶対にうしなってはならない人生の高い目標の喪失、これが、精神としての自己、人格としての自己をうしなうということである。
これこそが、人格にとっての真の死を意味する。
そして、これが絶望なのだ
絶望においては、死を死ぬことすらもできない。
人間の死にたいする不安などとはくらべものにならないほどの苦悩が、この絶望というものなのだ。
(キルケゴールp180)
えっ、僕は絶望してないけど…
それが絶望なんだよね…
人間の平均化や画一化状態は絶望であり、それを抜け出す方法もキルケゴールは述べていくのです。

実存の第一段階「美的実存」

第一段階の「美的実存」は、快楽を追求することで人生を充実させようとするあり方です。

この段階をAさんとします。

Aさんは「人生は無に満ちているのだから、せめて、生きているうちに楽しもう!」という立場。

その時その時を楽しく過ごすことに全力をそそぎます。

楽しいのっていいじゃん!
実は、この段階が「自分が絶望であることを知らないでいる絶望」といって、低次の質の絶望であるとキルケゴールは述べます。
絶望しうるということは、人間の長所でもあるのです。
この段階にいると、絶望が出来ません。
それは、自己生成の運動が起こりようがないからです。
なんで絶望しうるのが人間の長所なの?
例えば、聖書ではアダムが知恵の実を食べたことが原罪と言われています。
(アダムは人間の意味も持つ)
知恵の実を食べる前、私たちはホモサピエンス(賢い人間)ではないのです。
動物は絶望しないからといって、動物であることをねがう者があろうか。
無知者ならば奴隷状態に満足できるからといって、教養のない人間の自由なき幸福をうらやむ者があろうか。
絶望としたしみ、絶望に鍛えられ、絶望を跳躍台としてのみ、精神としての自己の高貴さが実現されていくのである。
(キルケゴールp184)
人間であるということは、知恵を求める本能があります。

そこで、Bさんが登場してAさんにこう告げます。

Bさん「絶望せよ!」

Aさんが自己を持っているのにも関わらず、その自己が本来的自己でないことをBさんは批判しているのです。

Aさんの状態は平均化・画一化された自己であり、「あれも、これも」とりこむような個物と化した自己だ、と。

あ、ヘーゲルの「あれも、これも」取り入れる量的弁証法への批判だ

つまり、Aさんは絶望の状態にあるのだから、「その絶望に気づけ!その満足は欺瞞だ!」とBさんは訴えているのです。

なんとなく快楽ばっかりだと飽きてきてしまった…
人間的欲望は永遠に満たされることはない、とキルケゴールは言います。
絶望を知らなければ自己生成の運動がないのでずっと同じ状態です。
また、絶望しないものは自己を放棄した者である、とも彼は言うのです。
言葉によってものごとを思考する人間は、本質的に対話的存在である。
人は自分自身、あるいは他者との対話によって、その精神的行為を行う。
対話のない精神は、何も考えていないか、死滅しているかのどちらかである。
(永遠の単独者S.キルケゴールp4343の3820)
(ちなみに、キルケゴールは精神を「自己」として捉えています。)
そうか、これは絶望状態だったのか
絶望に気が付いた人間は、第二段階にすすみます。

絶望の第二段階「倫理的実存」

第二段階は絶望した状態からスタートします。

そう、Bさんは絶望した第二段階の「倫理的実存」からAさんに呼びかけていたのです。

よし、自分を探すために社会貢献だ!
Bさんは、人間が絶望していたとしても、ありのままの自分を認めることが大切だと考えます。
そして、「あれか、これか」と自分で選択することによって主体的に人生を切り拓いていくことをすすめるのです。
「あれか、これか」を選択しなければならない行為の当事者としての立場に身を置いて、正しい選択を実際になすところにこそ、自由の世界は開かれるとキルケゴールは述べます。
かつ、「あれか、これか」という選択が大事なのではなく、「真剣に選ぶこと」が根源的な善だとも述べるのです。
人生において肝要なことは、「選択されるものの真実性などではなくて、実際に選択するという現実性なのであって、これこそが決定的なことなのである。」
「正統なものを選ぶことが問題なのではなく、むしろ選択のために用いられる意力(エネルギー)、その情熱(パトス)、その真剣さが問題なのである。」
自分じしんがそれを自分の課題として選びとろうとする態度なしには、いかなる理念も、倫理的な善悪という意味をもつことはできない。
‐自分の意志の刻印をおし、これをわがものとする。
だから、倫理的人生こそ最善のものであり、審美的人生(美的実存)よりもはるかに高く、かつ内容ゆたかなものであるといわねばならない。
(キルケゴールp111)
スーパーヒーローに僕はなる!
しかし、ここでは2つの絶望が待っています。

弱さの絶望

自己があるものに憧れた時、そのものにどうしてもなれないことに気がつきます。

助けようと思ったのに、足がすくんでしまった…
本当はスーパーヒーローでもなんでもないのに、現実の自分に絶望して他の者になろうとするのは、現実逃避の絶望だとキルケゴールは考えました。
この憧れからの目標も、新規の自己を望む絶望だったのです。
また、この憧れのものになるのに、自己の弱さによってなれないことに腹を立てること。
自信喪失から自分の殻に閉じこもってしまうことも弱さの絶望なのです。
僕はなんてダメなんだ…。
何をやってもうまくいく気がしない…
この弱さの絶望に対して、強さも絶望になります。

強さの絶望

絶望して、自分自身であろうと欲することも絶望です。

ここでの自己は、永遠者へと自己を結びあわせるべきであることを意識していながら、この永遠者が本来の自己を恵み与えてくれるかどうかが不確実であることと、このような不確実なものとのかかわりのために現実の自己を否定しなければならないということに腹を立てて、反抗的に自我を固執し、自我を絶対視してその上に傲慢(ごうまん)に居直るのである。
(キルケゴールp186)

僕の真理が正しいんだから、絶対考えを変えない!
しかし、世間の風あたりはきついまま。
世界をわがものにすることに失敗した絶望者は、その苦悶に居座ることを自分の特権だと考えたり、自分の高貴さのあかしだと考えたりします。
「きっちりと錠のおろされた内面性」とか、「悪魔的な狂乱」とか名づけられる絶望状態が、これである。
(キルケゴールp187)
人間は不完全なのに、自己中心的になってしまう。
例えばここでは、空想的社会主義批判だと解釈ができます。
ここでの空想的とは主観的という意味。
例えば、自分が優れた人物だと思い込んだ特定の人々が、民衆を指導する立場をとるということです。
けれど、その人が優れているという根拠がないし、その人に従う民衆は自分を持っていない。
また民衆がその傲慢さから離れていくことによってその人に絶望をひきおこします。
強くも弱くもない中間がいいんだね
キルケゴールは第二段階の倫理的実存の最高者はソクラテスだと考えました。

ソクラテスの限界

ソクラテスの限界をキルケゴールは神を持ち出すことによって語ります。
ソクラテスは偉大な思想家であったが、絶望が神の前で罪となることを知らなかった。
だからかれは、無知が最大の悪徳であるということができた。
(キルケゴールp187)
これをアダムの物語で解釈するならば、アダム(人間)は知恵をつけることで罪を犯すことになった。
知恵をつけることが罪になるので、無知は最大の悪徳にはなりえないのです。
原罪の解釈は、人間が本質的に欠如感を持っていることを表します。
ソクラテスは、罪が、知性の立場から意志の立場への飛躍によって成立するものであることを、自覚することができなかったのである。
(キルケゴールp188)
ソクラテスは主知主義(人間にとっては知がもっとも善い)とする立場だけど、キルケゴールはそれに疑問を抱く
キルケゴールは最大の知恵者を持ち出すことで、人間の限界を語っていきます。
人間は自分が罪のなかにいるのであるから、自分自身の力で、自分自身の口から、罪がなんであるかを明言することはできない。
‐それゆえにキリスト教はまた、それとは違った仕方で、すなわち、罪がなんであるかを人間に解き明かすためには神からの啓示がなくてはならないということをもって、始めるのである。
つまり、罪は、人間が正しいことを理解しなかったということにあるのではなく、人間がそれを理解しようと欲しないことに、人間がそれを欲しないことにある、というのである。
(キルケゴールp188)
人間の罪は、人間が正しいことを理解しようと欲しないことにある。
正しさとは何かといえば、神からの啓示によってしか示されない
キルケゴールは絶望の二段階を、人間が知者であることの限界から導き出しました。
倫理的実存は、自分と社会との軋轢によって絶望せざるをえないのです。
知を高めていったとしても、知を求めない社会とはすれ違ってしまう
そして、この絶望から第三段階「宗教的実存」にいたります。

絶望の第三段階「宗教的実存」

人間は倫理的実存を通じて、最終段階である宗教的実存へと到達します。
宗教的実存とは、神の前にたった一人で立つ単独者であること。
キルケゴールは宗教的実存の例を、信仰の父といわれるアブラハムによって明確にしていきます。
旧約聖書書の創世記第22章
アブラハムとその子イサクの物語。
神はアブラハムの信仰をためすために、アブラハムに命じて、彼が愛するひとり子イサクを山で犠牲として神に捧げるようにと要求する。
子イサクは子どもが出来なかったアブラハムにとって、もっとも愛すべき存在。
この命を受けたアブラハムは、犠牲として神に捧げるためにイサクを殺そうとする。
その瞬間。
神「わらべを手にかけてはならない。私はあなたの信仰を試したのだ」
アブラハムはその堅い信仰のゆえに、神の祝福をうけ、再びイサクを神の贈りものとして受け取りなおして、山をくだった。
キルケゴールは、このアブラハムの行為こそ、信仰にもとづく宗教的生の典型でなければならないと考えるのです。
自分には善がわからなくて、神が善。
アブラハムにとって最大限の絶望だと思われても、それは善の行為でもある
無抵抗の子を殺そうとするのってあきらかに倫理的悪の極致だよね?
そう、実はこの第三段階をキルケゴールは「宗教的信仰による倫理的なものの目的論的停止」と名づけました。
実はこの第三段階は第一段階の美的実存がまた再び大きく肯定されなおす、という段階でもあります。
キルケゴールの思想には逆説(イロニー、皮肉)が読み取れる

倫理と宗教

キルケゴールは「倫理的実存」と「宗教的実存」において、倫理を2つに分けています。

「倫理的実存」段階は第一の倫理。

これが普段私たちが使うようなルール的な良いとされるような行動です。

例えば、ゴミを捨ててはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、などです。

個別者は普遍的なもののうちに自己の目的をもつものであって、かれの倫理的課題は、自分自身をつねに普遍的なもののうちに表現し、自己の個別性を捨てて普遍的なものとなることである。
(キルケゴールp115)

上(規則、ルール、理想)から下(現実)へと動く第一の倫理は、理念のために自己を捨てることを要求します。
身近な例で言えば、許せないことをした人を許すことです。
許せない!
でも、許せないのは一般的な道徳では悪いことだから、許すしかない…
この捨てられる自己に対して捨てる自己がどこまでもついてまわって、我執の根を断ち切ることができない。
自由を欲して不自由な現実のみを招きよせるのが人間の姿なのです。
理想と現実に絶望してしまう…
なので、キルケゴールは第二の倫理として個別者が普遍的なものよりも高い価値をもつもの、として考えていきます。

宗教

「宗教的実存」段階の第二の倫理。
第二の倫理はルールや一般的な道徳とは違う、自分だけ(単独者として)の倫理です。
宗教は罪の自覚から出発して、罪の救済を、人間を超越した絶対者(神)の力によって成就する。
このような宗教によって基礎づけられることによって、第二の倫理学が可能となる。
第二の倫理学は、現実の救済をめざして下から上へと動く。
‐第二の倫理学では、我執の根をあらわにしてこれを絶対者の力によってたちきることを決断することによって、罪なる自己の我執から完全に自己を解放し、自由なる自己を絶対者から受けとりなおすことが課題となる。
(キルケゴールp123)
僕が許せないと思っていることを、神がやれと告げてくる…
この第二の倫理段階は、どのような学問によっても説明することは出来ない、とキルケゴールは述べます。
学問ではなく人間の「不安」に根拠を持つのです。
人間は、不安にうながされ、不安を跳躍のバネとして、我執の自己から罪の自覚へ、罪の自覚から信仰の決断へと飛躍するのである。
(キルケゴールp123)

例えば、この「不安」はアダムが知恵の実を食べるように選択させた神の意図からも見ることができます。

神は知恵の実を食べてはいけないと言いながら、それを食べられる状態にしておきました。

このように人を不安にさせる自由や選択にこそ、神が求めているものがあるとも解釈ができるのです。

(宗教的実存段階における)善とは、罪なる現実をはっきりと自覚して、この罪なる自己を救済してくれる神の愛を信じ、神にいっさいをゆだねて生きようとすることであり、悪とは、不信仰によって神にそむいて、罪の不自由にますます深くはまりこんでいくことである。
(キルケゴールp125)

神はたとえアダムが知恵の実を食べたとしても、アダム(人間)を見捨ててはいないんだよね

キルケゴールは各段階ごとに、偉人を例にだしています。

ヘーゲルよりもソクラテスを学ぶべきであり、さらにソクラテスよりもイエスに倣ぶ(まなぶ)べきである、と。

ちなみに、絶望のバイブルは彼の主著『死に至る病』と言われています。

「死に至る病」という題名は、イエスの言葉「この病は死に至らず」からきています。

イエスが病気で肉体的に死んでいたラザロを復活させる。

つまり、肉体的なものでは死に至らないけれど、精神的な絶望によって死に至ることを意味します。

この著はキルケゴールが肉体的に死ぬと思っていた33歳(イエスが死んだ年齢)を越えてから書かれました。

キルケゴールと実存主義

キルケゴールは実存哲学の祖と言われています。

この絶望状態を抜け出す思想が実存主義。

キルケゴールの「実存宣言」といわれている手記を紹介します。

私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきかということについて、私じしんに決心がつかないでいることなのだ。

私の使命を理解することが問題なのだ。

私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生きそして死ぬことをねがうようなイデーを発見することが必要なのだ。

いわゆる客観的な真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役にたつだろう。

‐真理とは、イデーのために生きること以外の何であろう。

私に欠けているものはまさしくこれなのだ。

だから私はそれを求めて努力しよう。
(キルケゴールp54)

この宣言は1835年に書かれたと言われています。

キルケゴールはその頃ソクラテスに憧れていたので、このイデーはプラトンの述べたイデア(理想像)と解釈できます。

けれど、彼の著書で『実存』という語がつかわれたのは、それから10年ほどたった1846年キルケゴール33歳で自分が死ぬと思っていた年齢で出された著作。

彼の著書『哲学的断片への完結的、非学問的なあとがき‐演技的、情熱的、弁証法的雑録、実存的陳述』の中で、実存という言葉が初めて使われました。

自分の中でイデーをずっと考えていったんだね

「実存」という翻訳語は、もともと、現実の真実の存在という意味でつくられたものである。

実存とは、まず第一に、現実の存在を意味する。

現実の存在は、いつでも、どこでも、だれでもそれでありうるような、普遍的な妥当性をもって通用する「本質」とはちがって、特定の限定された時・空において実存在する具体的な存在である。

「いま、ここに、こうして在る」ということが、現実の存在にとっての第一次的な特徴である。
(キルケゴールp145)

題名にある『非学問的』というのは「自己が真の自己となる」ことを意味する「自己生成」の真理(自分だけの真理)であることを意味します。

客観的真理が学問的といわれていたから、キルケゴールは主体的真理を非学問的と自分で述べていた
キルケゴールにとって、「自己が真のキリスト者となる」ということが、彼の究極的な真理でした。
そのために「いかにしてキリスト者となるか」を、自分じしんの生き方に即して主体的に問いながら目指していったのです。
客観性が結果だけを問題にするとすれば、主体性はその過程を問題にします。

実存と思考の関係

実存と思考の関係について、本から抜粋します。

時間のうちにありながら永遠なものに達しようと無限の努力をするところに、実存の本質がある。

ところで人間は実存者であるとともに思惟(思考)する存在者である。

みずから永遠である神は実存することも思惟することもない。

しかるに人間は実存し、かつ思惟する。

この実存と思惟とがはなればなれになるとき、思惟するものがみずから実存者であることが忘れられてしまう。

そこに思弁と呼ばれる抽象的な思惟がはじまる。

しかし思惟するものがみずからの実存を忘れることなく、むしろ実存しながらその実存を思惟のうちに表現するとき、その思惟は実存的となる。
(キルケゴールp147桝田啓三郎氏の要点抜粋)

実存主義の先駆はパスカル(1623-1662)と言われる。
「人間は考える葦(草)」を思い出すね
実存的思考においては、純粋の真理は虚偽であって、純粋な真理へといかにして自己を高めるかという、自己生成の努力のみが真理になります。
それだと「主体性が真理!」と言い切るのは逆説的じゃないの?
キルケゴールは段階によって、自己は自己の内面には絶対者が内在していないことを発見すると述べます。
そうしたとき、「主体性は虚偽である」という命題にとってかわられる、と。
そして、これは学問的な説明や原理を持つことができず、「これが真理である」としか言えなくなるのです。

実存哲学

キルケゴールは愛するレギーネという女性に向けて本を書いていました。

レギーネを真のキリスト者(宗教的実存段階)へと覚醒させようとしたのです。

キルケゴールは偽名を使い、その偽名の書物が有名になっても自分の名前を公表しませんでした。

キルケゴールいわく、彼は人々を「真理のなかへとだましこもうとした」のです。

自分の寿命が33才までと信じ込んでいて、命を懸けて書いていたのに、「騙しこもうとした」という表現を自分で使ったの?
キルケゴールは当初、倫理的実存のソクラテスになろうとしていました。
ソクラテスの対話によって、人々に「真理」を自覚させようとするとき、その背景に傲慢さがあってはいけないと学んだのです。
傲慢さは人々がそれに従うことを要求する。
自発的、自覚的な真理にはならない
キルケゴールは偽名を使うことによって、「今ここで生きている自分以外に何もない」(権威に頼らない、先入観を与えない)ということも表現しました。
また、本に従ってそれを信じたとしても、それは人々が「騙された」ことにしかならない、と考えたのかもしれません。
パスカルも神がいないよりは信じたほうが得だからそれに賭けると良い、と述べていた。
二人とも自身の神への崇拝はすごいものがあっただろうに、表現としては軽い
でも、軽い表現の方がユーモアがあって使われやすいかも。
パスカルの「神がいる方に賭ける」とか、「君が怪物だということがわかるまで、褒めたり卑しめたりしよう」というのは印象的だよね
キルケゴールは思想の伝達方法についてとても気を配りました。
彼は思想を他人に正しく伝えるための最適の手段をとったのです。
結果、キルケゴールは世間的に後ろ指をさされることが多かったと言われています。
キリスト教にも、そのキリスト教思想は異端だとみなされていました。
キルケゴールとパスカルは、キリスト者でありながらもキリスト教からは迫害されていた
キルケゴールは自分も他の人々と同じように弱い人間であることを承認しているからこそ、本を出すことが出来たのだと述べています。
実存主義は具体的な自分の生活と思考が結びつき合っているのです。
今回はキルケゴールと質的弁証法をやりました。
次回はニーチェを取り扱います。
キルケゴールと質的弁証法
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