ドストエフスキー

何ものかになるには-ドストエフスキーと龍樹


何ものかになるには。

おはようございます。けうです。

 

昨日過去のラジオ記事を振り返っていました。

今もそういう傾向はあるんですけど、昔の話はとくに支離滅裂になっていることが多いなと思っていました。

自分が思いついて生かしたいと思った部分と、なぜこの話を絡めてあるのか自分で不思議に思う部分とです。

賢いから何ものにもなれない

そして、私はよくドストエフスキー「地下室の手記」の何ものかになるには、のところに刺激を受けています。

本の主人公は言います。

僕は賢いから何ものにもなれないんだ、と。

ここで私は以前、100メートル走のオリンピック選手になる例を考えたんです。

すると、この100メートル走でトップを取る人はほぼ遺伝で決められているんです。

この骨格、この足の形、この筋肉、とか。

更にはトレーニング法まで効率的なものが決められている。

ここではもうシステム的に出来上がった世界があるんです。

さらに、このことは何かが取りだたされることによって起きてきます。

最近、私はブログの知識を詰め込んでいるんですけど、ほぼこれが良いということが決まってきているんですよね。

こうすればいくら稼げるブロガーになることができるだろう、って。

グーグルは移り変わるので安定はしていないんですけど、それでも切り替わるまでのシステムが出来上がっていて、それにそっていくと成果が出てくる。

そうすれば、高所得ブロガーになれるんですよね。

そして、何者かになる、しかもその道のトップ近くになることって決められた道をたどるんです。

もう名づけられていますから、その道が出来ていると言うこと。

決められた道をたどって、ただそれに対して「努力」をする。

この行為を、地下室の手記の主人公は賢くない行為だと思っている。

私はそう理解しました。

わかりやすいのは100メートル走選手ですね。

でも、実は何者かになるにはあいまいな表現が含まれる場合があるんです。

悪人になるとは

例えば、悪人になる、です。

私たちは今だ悪とはなにかを考えています。

私とは何かを考えるのと同様に。

善悪の基準がわかっていない。

では、その場合にその悪人になった!

ということはどのようなことかと言えば、今までずっと議論が続いている内容なのに、もう悪はこれ、と決めつけてしまう行為なんです。

でも、哲学の概念では二項対立は反転することができると言われています。

善が悪になったり、悪が善になったりする。

こうしたときに、賢い場合の方がこの対立の反転ができるということが多いから、ここも賢くない人が何者かになれる、ということができる、という結果になります。

ここでも思考停止が起こることで、曖昧な概念の悪人になるとか、善人になると言うことができます。

 

では、賢いからそれで優越感を得るのかというとちょっと困った例がでてきます。

例えば、殺人者を悪と決めておく場合。

多くの場合は人は生まれながらに殺人はいけないことだという認識で語りますよね。

これは私たちが意識してもいない部分で発生しているものです。

これをしたら悪人だろうものが、私たちには備わっている。

 

そして、こういうことに関しては偉人の言葉が残されていたりします。
「龍樹」(中村元)さんの本を参照にしています。

「もしも生あるものに対して、これは衆生(しゅじょう)であるということを知って、殺そうという心をおこし、その命を奪うならば、-それを殺生の罪と名づける。」

 

つまり、殺人者を殺生の罪をかぶる悪人だということですね。

よく私たちはもっともな悪人というのは心の中で相手は衆生であると知って何らかの方法で殺す人。

その人は殺人の罪であるというんですよ。

無記であるとは

でも、考えてみます。

私たちは食べ物を食べている点で命をいただいているんですよね。

なので、ある人が言います。

「この不殺生戒は、ある場合には善であり、ある場合には善でも悪でもないもの(無記)である」と。

ここで、何ものでもないがでてきます。

何も悪いことをしていないと善と思いがち。

だけど、無記であるとは、善でもなく悪でもないこと。

これは報いを受けることがないから、その人は天上や人間どものうちに生まれないのである…。

こう考えると、人間は悪だから悪人としての人間だともいえるんですよ。

でも、同時に捉えようによってはその殺すことによってみんなに利益を与える場合がある。

食事を得るための狩りなんてそうですよね。

そうなれば、なんで不殺生戒を説くんだ

という話になってきます。

すると、その不殺生戒を守っている人は畏れるところがなく、安楽であって、怖れがない。

われがかれを害することがないから、かれもまたわれを害することがない。

このゆえにその人は恐怖がない。

殺すのを好む人は、命あるものがかれを見ることを喜ばないのに対して、殺すのを好まないならば、生きとしいけるものどもがすべて楽しんでなついてくる…。

みんなが楽しんで懐いてくるから、不殺生戒を説くということです。

 

仏教は悪人が往生できると説くんですけど、悪人と言うのは生きている人みんなのことを指すんですよね。

悪人と自覚すると往生できるよ、なんていいます。

 

ここまで聞いて、悪人とは善人とはといった場合、よくわからなくなりますよね。

そして、やっぱり考えるのを放棄したときに何者かになるんです。

 

そして、私たちはずっと考えていると言うことはないから、何者かになるんですよね。

何ものかにならないとはどういうことか-まとめ

では、何者かにならないためにはどうしたらいいのか。

そうなると、そのことについてずっと考え続けていればそのものが何かがわかっていないので、そのものになっていないんです。

 

もしかしたら、このことも「賢い人」ということができるのかもしれません。

さらに、ここではこんなつけ加えがあります。

「精神異常で狂っていたり白痴であったのではなくて、正常の精神状態で生き物の命を断ずるのは、殺生の罪となる。」と。

 

ドストエフスキーは他の作品で白痴や精神異常を扱っています。

もしかすると、地下室の手記の主人公も精神異常になっているかもしれないと解説では語られているんです。

この場合、自分では自分を名づけていないので賢いかもしれないけれど、かえってはたから見た場合に、彼は精神異常者と名づけられているのかもしれないですね。

 

自分は賢いから名づけないけれど、かえってそれで、周りからは精神異常と名づけられているのかもしれないということです。

 

こうやって考えていくことで、名づけると言うことのやっかいさがわかってきます。

名づけると言うことは多くの哲学的な問題を含みます。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

 

 

>>記事がよかったという方は押していただくと喜びます。

ドストエフスキー
最新情報をチェックしよう!
>けうブログ

けうブログ

哲学を身近に