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「あぶない法哲学」から『生の権力』と『良心の声』の比較

おはようございます。けうです。

 

「あぶない法哲学」を読み終えました。

その中で、印象に残った自由と自由意志について語っていこうと思います。

 

生の権力とは

著者はフーコーの生の権力を述べました。

生の権力というのは、今の私たちが気がつかないうちに受けているもの。

例えば、健康的な食事、健康診断、適度な運動、早寝早起き、といった健康に気をつけることを前提に、前にならえとか、職場でのラジオ体操を自然と受け入れるというモノ。

そして、私はこの概念を知っていたのですが、なるほど、と新たに考えさせられた部分があります。

私は法を知らないんですよね。

でも、こうだろう、という思い込みの上で生きていられる。

それは、訓練されてきているから。

法を知らなくても、その法にあっているだろうことを身体で覚えさせられているということ。

例えば、親切な行動だとか、列に並ぶ行動だとかも、もしかしたら訓練の成果なのかもしれない。

 

『良心の声』とは

けれど、これとは異なる概念に、カントの「良心の声」というのがあります。

人間は思慮なしに聞こえてきた声に従って行動するのが正しいとする理論です。

例えば、嘘をついてはいけない、戦争はいけない、というような声です。

 

この声があるから実は、良心にかなった行動があるともいえます。

 

例えば、子どもが危ない!となったときに助けます。

これはとっさに動いているんですよ。

カントから言えばきっと良心の声が聞こえた。

 

 

もし、これに思慮を挟んでしまったら?

この議論をしたのがルソーやショーペンハウアーです。

人は考えることによって、良心的な行動を全部利己的なことに結びつけてしまうことができると語りました。

子どもを助けるのも自分に非が生じないためだ、自分のためだという考え方です。

 

生の権力と良心の声の比較

このフーコーの生の権力とカントの良心の声を比較してみます。

 

あなたは社会訓練にそってそう動くように、そう感じるように権力に支配されていると感じるか。 あなたは天からの良心の声によって動いているのだと感じるか。 国家と天とを比べて、今は国家が大きくなっているから対象を国家にする。と、家畜化感満載に。見えない支配のほうがいいのかな。

フーコーの生の権力とカントの良心の声の比較をツイートしてみました。

  • 私たちはそう動くように政府によって訓練されている。家畜化されてきているともいえる状況がある。
  • 私たちは良心の声に従ってそう動いているのであり、それは人間の倫理なんだと捉える面。

 

これはどちらに捉えたらいいんでしょうか。

 

もしポジティブな行動だったとしたら。

人を助けたとか、表彰された!とかなったら、良心の声となりそうです。

でも、当たり前のものに従ったとしても同じように訓練された結果かもしれない。

 

人は本能的なこうした方がいいという時代ごとの普遍的真理によって動かされています。

時代ごとというしばりがでてきたのはフーコーが知は移りゆくものといった(エピステーメー)概念なんですよね。

 

時代によって、狂人ととられていたものが、時代がかわるとそうではなくなるという。

もしかすると、人の良心というのは訓練結果だけだと言う構造による思想が一般化してくると、なんでも私の意志ではない、というような思想の結果になってしまうのかもしれないと感じました。

 

なんでも、二項対立からの反転はありますけど。

たびたび思慮なしに私たちがしてしまう本能行動にたいして、意識したもののほうの選択を私たちはしたいという考え方があります。

こういった疑似意識の脱却はどこまで可能なのかな、と思いました。

 

無意識的な行動を良心と見なすのか、それとも家畜化と見なすのか。

それとももっと具体化していって、命の危険を顧みず、家畜化よりも大幅な無意識行動に良心をみるのか、それでも、家畜化されていてもその一つ一つの行動を私たちは無意識に善いものとみているという状態にもあります。

こういうのが明るみにでてくるのが、自由を保障されつつも、それは法律で罰せられるよ、というのがでてきたときなのかもしれません。

「あぶない法哲学」から意識を超えたものを考える

 

「あぶない法哲学」では、食べられたい人と、食べたい人、2人の合意があって食べたい人が合意の上でその人を殺して食べると言う殺人があったそうです。

本人たちの議論では合意。

でも、司法では食べた人は終身刑になったそうです。

理由は食べられたい人はその後に反省することができないから、意見の変えようがなくなる、ということみたいです。

 

 

私たちは自由だ、と思いながら、どこかに法でも普遍的な真理でも、何かそうした方がいいいというものを持っている。

生の権力だって、その方が従うだろうという目測の上でそれがなりたっています。

それは「不快原理」というものがあるそうです。

ジョエル・ファインバーグさんが唱えたもので、

「当該の行為者同士以外の人々にとっての深刻な不快を防止する目的のために必要でかつ効果的な仕方が、<刑罰による禁止>であるならば、その禁止の提案は指示される」

快不快によって法がなりたってくる。

おそらくこの殺人も、もしサイコパスな人や殺人好きな人からすれば人殺しが許容されてしまうので、安全に社会生活をおくりたいならば指示されなければいけない案件です。

 

そもそも生の権力はパノプティコンという監獄に結びついているのですが、そこは安全なんですよね。

監視されていて、自分はだせないのかもしれないし、家畜化されているのかもしれないけれど安全。

自由と言う危険か、安全という拘束か、どちらを選ぶのかという話なのかもしれませんね。

そして、それを話し合わないといけないとするならば、現代社会は安全が叫ばれているということなのかな、と思います。

 

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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