「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
9.ニーチェとニヒリズムの処方箋
>>1.アダム=スミスと「見えざる手」
>>2.ベンサムと「最大多数の最大幸福」
>>3.ミルと功利主義の修正
>>4.社会学とベルクソン
>>5.プラグマティズムとは何か
>>6.空想的社会主義とは何か
>>7.科学的社会主義とマルクス
>>8.キルケゴールと質的弁証法
- ニーチェはなぜニヒリズムを予測したのか
- ニーチェの力への意志
- ニーチェのニヒリズムへの処方箋
参考文献 「ニーチェ 人と思想」(工藤綏夫)、「これがニーチェだ」(永井均)「善悪への彼岸」(ニーチェ著、中山元訳)、「道徳の系譜学」(ニーチェ著、中山元訳)「ツァラトゥストラ上」(ニーチェ著、丘沢静也訳)、ギリシア神話(串田孫一)、哲学用語図鑑
ニーチェはなぜニヒリズムを予測したのか
ニーチェ(1844-1900)はこれからの時代を、生きる意味や目的が失われたニヒリズムの時代だととらえました。
実存哲学からニヒリズムの到来を解釈すれば、時代が平均化・画一化したことで個人が疎外されてしまったからです。
どうしてニヒリズムになると予想したの?
守旧と変革の敵対的な勢力が衝突していく、こうした危機の時代において、そのいずれに対しても決定的な態度決定をすることができない浮動層こそ、知識階層であった。守旧に賭けて着実な前進を遂げることを信ずる現実主義者であることもできず、さりとて、革命に賭けて全く新たな社会をつくり出す必然性に動かされる実践家でもありえないのが、このインテリ層であった。
(ニーチェ 人と思想p32)
ニヒリズムの原因「神は死んだ」
学問が進歩し、キリスト教の道徳が疑わしくなると、全知全能の神という最高の価値が力を失い、「神の死」という「最高の価値の価値剥奪」が生じる。
「教科書」p165
ニーチェはすべての真理や価値の意味を客観的に固定した絶対的なものだと考える思考法に反対しました。
客観的な認識は不可能で、それぞれの生命にとっての解釈があるのみだと考えたのです。(遠近法主義)
- 善=弱者
- 悪=強者
弱者は強者に勝つことができないのですが、人は本能的に勝つことを欲します。
そこで、弱者は束になって実際の力ではかなわない強者に「強欲」だとか「軽薄」だと決めつけ、精神的に優位に立とうとするのです。(ルサンチマン)
ルサンチマン⇒弱者は自分を善、強者を悪と思い込むことによって、自分を精神的に優位に立たせる。恨み、嫉妬心。
弱者が束になった畜群本能が道徳という価値を捏造したのだと、ニーチェは考えました。
このルサンチマンはキリスト教だけにあてはまるものではありません。
例えば、イソップ童話「すっぱいブドウ」。
キツネが木の上になったブドウを欲しいと思うのですが、とれません。
とれなかったので、キツネは「あのブドウはすっぱいに違いない」と負け惜しみをいう。
このような負け惜しみの構造こそが、ルサンチマンだと解釈できるのです。
これを道徳という言葉にしたキリスト教は爆発的に人気になったとニーチェは考えた
ルサンチマンはよろこびを感じる力を弱くする構造になっています。(結局ブドウは手に入っていない)
なので、その構造を強くしたのが信仰。(束になることで実際に強くなる)
しかし、知的になった現代の人々にとって、信仰するということが難しくなってきました。
その結果、ニヒリズムが蔓延するのです。
ニーチェはキリスト教的な価値ではない、新しい価値の軸をつくり出そうとしました。
それが力への意志です。
ニーチェの「力への意志」
神視点が善悪をつくり出したとすれば、ニーチェは私の視点で「よい、わるい」という価値をつくろうとしたのです。
この「よい、わるい」は私の力への意志が基準になっています。
ニーチェは自らの解釈学を「遠近法主義」と名づけ、この遠近法主義による自らの思想を「実験哲学」と特長づけた。
ニーチェによれば、いかなる認識も、認識する我を中心とし、この我の生の創造・発展のためにいとなまれるものであって、こうした我という中心観点から遊離した自体的真理(実体的真理)などというものは、どこにもない。
生の発展のために生じしんが自己を中心として解釈し出していくものが真理であって、その意味で、どんな真理でも、生に制約され、生と相対的に定まるものである。
そうであってこそ、真理のために生が拘束されるのではなく、生のために真理が定まるという、創造的な真理観も可能となるのである。
(ニーチェ 人と思想)p130
神話
ディオニュソスは酒の神様であり、演劇の神でもあります。
「ギリシア神話」(p132)によれば、ディオニュソスはそれほど風変わりな物語の材料も残していないとされる神。
ブドウの栽培方法を考え出し、そのブドウからお酒を造る方法を人々に教えたとされています。
ニーチェはディオニュソスを陶酔(反合理性)の象徴として語りました。
ギリシア神話を教訓に利用しようなどと考える人がいたら、それはずいぶん滑稽なことで、そんなことを言ったら、オリュンポスの神々も、英雄も、たいがいは非道徳的な行動ばかりしている連中で、これほど悪いことを堂々と語った物語はないかもしれません。
(ギリシア神話 解説部分p15)
私の根源的なものとしてそれを求めている欲求がある
でも、末人にならずにすむような処方箋をニーチェは考えた
ニーチェのニヒリズムへの処方箋
ニーチェは主著『ツァラトゥストラ』を、人類に最大の贈りものをするつもりで書きました。
ここでラクダ、獅子、小児を象徴とする精神の三段階について語っているのです。
小児の精神はニヒリズムを克服した「超人」。
ラクダの精神
大地の主「超人」の算出をめざす精神は、まず第一に、ラクダのように従順にあらゆる重荷をにない、わけても「汝なすべし」と命ずる義務に服従し、それにたえることによって自己の強さを実証しようとする。
この「畏敬を宿している、強力で、重荷に耐える精神は、数多くの重いものに出会う。
そして、この強靭な精神は、重いもの、もっとも重いものを要求する」
(ニーチェ 人と思想)p136
(ニーチェ 人と思想p145 参照)
実はギリシア民族こそが、人生の暗さや矛盾や非合理性についての鋭い感受性をもっていたのであり、それにもかかわらず、否、そうであったればこそかれらは、生を明るく表現することに渾身の努力を傾けたのである。
(ニーチェ 人と思想p145)
多くの悪しき夜を、これでやりすごすことができるのである。」(善悪の彼岸p137)
自殺も善悪の彼岸
獅子の精神
しかし、所与的な運命に耐えようとするこのラクダの精神は、砂漠の孤独の極みのなかで、あらゆる義務や運命に対して「われは欲する」の刻印をおそうとする闘争の雄者、「獅子」に変貌する。
獅子の精神は、他律を自律にひるがえし、義務を意欲に還元し、所与的運命を自由な創造の所産たらしめようとして、既存のあらゆる権威や価値に闘いをいどみ、これに「われ欲す」の刻印をうって主体化しようとする。
(ニーチェ 人と思想)p137
(ニーチェ 人と思想p172参照)
でも、神概念は必要だとニーチェは考えているんだね
(これがニーチェだp171)参照
肯定に固執することは、否定を否定することに固執することである。
(これがニーチェだp181)
でもそれは、「おのずとなされる肯定でなければならない」(これがニーチェだp180)
小児の精神
だがさいごに、既成権威と闘争して自由を強奪するこの獅子の精神は、この自由を実際に行使して新しい価値の創造を成し遂げるためには、無垢の内的必然にうながされて大自然と遊び、軽快な舞踏によって生存とたわむれ、世界と自己との渾然たる一体感の中で、この世の一切に対して「然り(イエス)」という聖なる肯定語を発声し、一切の存在に即して「われ在り」を実演していく、「小児」へと脱皮していかなければならない。
(ニーチェ 人と思想)p137
あれ、思っていたより達成感がないし、その次は何をしよう…
『ツァラトゥストラ(上)』p37参照
わたしたちにとって、自己こそ見知らぬ者であらざるをえない。わたしたちがみずからを理解することなどない。わたしたちは自分を他人と間違えざるをえないのだ。わたしたちには「誰もが自分からもっとも遠いものである」という命題が、永遠にあてはまるのだ。―わたしたちは自分については、「認識者」ではないのである…。
(道徳の系譜学p9)
超人(Übrmensch)は、文字どおり超える(über)人(mensch)である。
彼は空間を越えていく。
だから彼は、肯定するための否定であり、意志をなくすための意志であり、もはや何も目指さないことを目指す、矛盾した形象であらざるをえないのである。
(これがニーチェだp195)
ラクダ、獅子、小児が比喩なように、意図してそのものになれるわけではないのです。
君たちはできるならば―これほど愚劣な「できるなら」もないものだが―苦悩というものをなくしたいと望んでいる。それではわたしたちが望む者は何か?ーわたしたちが望むのは、むしろこれまでになかったほどに苦悩を強く、辛いものにすることだ!ー人間が自分の没落を願うようになる状態である!苦悩がもたらす鍛錬、大いなる苦悩がもたらす鍛錬、ーこうした鍛錬だけが人間を高めるものであったことを、君たちは知らないのか?ー魂は不幸を担い、不幸に耐え、これを解釈し、利用し尽くすことで創造的になり、勇敢になる。ーかならずや苦悩しなければならず、苦悩すべく定められたものだけに向けられていることが、理解できるか?
(善悪の彼岸)p228
ニヒリズムの克服とは
まとめると、ラクダのように耐えていくことから、獅子のように価値を創造し、小児のように意味のなさに喜びの根源をみるのです。
ニーチェはニヒリズムの処方箋を書いたといいましたが、実は行き着いた境地というのは徹底したニヒリズムという境地だと解釈ができます。
価値のために生があるのではなく、価値は生の成長に奉仕する道具に過ぎない、という生命主義の立場からみれば、価値の絶対性は否定されてその相対的な有効性のみが問われることとなり、価値の究極性は否認されるのであるから、価値否定という意味でのニヒリズムは、生の正常な状態であるということもできる。
(ニーチェ 人と思想p180)
ただし、ニーチェはニヒリズムを分けました。
消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムです。
2つのニヒリズム
- 能動的ニヒリズム⇒精神の向上した権力の徴候としてのニヒリズム
- 受動的ニヒリズム⇒精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム
(ニーチェ 人と思想p180 参照)
ニーチェは①の能動的ニヒリズムの立場を「徹底的ニヒリズム」とも名づけました。
徹底してニヒル(虚無)な現実を正視して、何かのためにではなくまさしくニヒルな現実をそのまま肯定する。
そのような価値観点として「超人」「永劫回帰」「運命愛」をニーチェは持ち出したのです。