ヤスパース哲学

ヤスパースと哲学的信仰のすすめ|高校倫理1章4節10

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
10.ヤスパースと哲学的信仰
を扱っていきます
前回は、ニーチェとニヒリズムの処方箋をやりました。
ニーチェ(1844-1900)とキルケゴール(1813-1855)は実存主義の先駆と言われています。
実存⇒キルケゴールは、かけがえのない独自な個人のあり方を実存とよんだ
ヤスパース(1883-1969)はキルケゴールに影響を受け、実存哲学を説きました。
キルケゴールの思想は1909年以降に刊行されたドイツ語訳全集によって知られていった
ニーチェの場合は、誰もがニヒリズムにおちいることを体系化してその処方箋を書きました。
ヤスパースの実存哲学も、現代を覆うニヒリズムの原因を明確に語ります。
そして、包括者(超越者)の存在を持ち出すことで、またニーチェとは異なるニヒリズムの処方箋をえがいていきました。
ニーチェが徹底的ニヒリズムを処方法にしたのに対して、ヤスパースは超越者(包括者)をおいた
超越者って神?
そう、ヤスパースは論理的に超越者(神のような存在)が私たちの実存においてかかせない存在であることを説き、哲学的信仰が良いとしました。
ヤスパースの哲学は有神論的実存主義と呼ばれています。
有神論的実存主義⇒限界状況で神(超越者、包括者という神)と出会い、真の実存に目覚める
(限界状況⇒科学で解明したり、技術で解決したりできない人生の壁)
ヤスパースが論理的にどのように超越者の存在を描きだしたのかを説明していきます。
ニーチェは「神は死んだ」と言ったし、科学的教育を受けた私たちはただ信じることが出来なくなっている。
その中でどうやって超越者を描きだすのか注目だね
ブログ内容
  • ヤスパースの「哲学・宗教・科学」の区分け
  • ヤスパースの哲学的信仰のすすめ

参考文献 「ヤスパース 人と思想」宇都宮芳明著、「哲学入門」ヤスパース著 草薙正夫訳

ヤスパースの「哲学・宗教・科学」の区分け

実存哲学、といっても各哲学者によって実存で表していることが異なります。

ヤスパース(1883-1969)の「実存」は、どこまでも個としての人間にのみ固有な存在のしかたのこと。

ヤスパースの「実存」は、簡単にいえば、個としての自分に真に目ざめた人間のあり方のことで、つまりは自分が他人と代置不可能な存在であることを真に自覚した人間のみが実存するのである。
(ヤスパース 人と思想p90)

ヤスパースの実存哲学は、「実存からの哲学」
ヤスパースは立場を明らかにするために、哲学と科学と宗教を分けました。

哲学と科学

ヤスパースは哲学と科学を明確に区別しました。

まずは科学。

科学はもろもろの事実について価値判断を控え、それらが事実どのように存在するかを明らかにする限りにおいて、自らの独立性と真正性とを確保する。

科学的認識は人生に対していかなる目的をも示すことができないが、しかしまさにそのゆえにこそ、万人に共通な科学的真理を提供しうるのである。
(ヤスパース 人と思想p101)

ヤスパースは科学を万人に共通な科学的真理を提供しうるものであるとしました。

そして、それゆえに各々の価値判断を控える、としたのです。

僕はこれが良いと思う!
それってあなたの感想ですよね?
つまり、科学的じゃない
例えば、1+1=2といったように、テストで100点がとれるような知識のことを共通な科学的真理として捉えます。

それに対して、哲学は価値判断をするもの、とヤスパースは考えました。

実存は、万人に共通な科学的真理を提供する科学的立場からは扱うことができない個々人のこと。

その実存(まさに現実に存在すること)を扱う学問として哲学を定義したのです。

哲学は科学や技術とはちがって、なにか目に見える具体的な研究成果といったものをうみだすことはできない。

哲学するということは、その意味ではきわめて非生産的な営みであるといえよう。

生産性や実効性が重視される現代技術社会においては特にそうで、哲学の不毛性が攻撃されるのは実は主としてこうした実効性の観点からなのである。

‐「なんらの成果ももたないが、しかし有意義な思索というものが存在する
(ヤスパース 人と思想p99)

意味はなくても意義がある
でも、そうなるとただの感想と思索とはどう分けたらいいんだろう

哲学と宗教

この流れで見るならば、理性に反する感想や情が哲学になってしまいます。

しかし、ヤスパースは「思索は本性上すでに体系的である」としました。

ヤスパースの哲学は実存からの哲学が同時に理性による哲学であることも主張したのです。

ここで彼は宗教と哲学を区別します。

なるほど哲学は、「瞬間的な単独者の飛翔(ひしょう)のうちで宗教に近いものになる」が、しかし、哲学的に実存しようと欲する人間は、宗教的な人間があえて試みる自己放棄による回生といった飛躍を、自己において行うことを許さない。

‐宗教とちがって哲学は、権威への服従に対して実存の自由を、われわれを強制し束縛する教義に対して理性の自由な思索を要求するのである。
(ヤスパース 人と思想p119)

つまり、ヤスパースは実存には自由が前提にある、としました。

その自由は人間としての自由。

人間は理性的なものであり、理性に対する信頼を放棄したとき、人間は自らすすんで権威に服従して哲学をしなくなるとヤスパースは考えるのです。

感想と思索を分けるものは理性
ヤスパースは自分の根源からの実存哲学は、科学とは和解することができ、芸術は愛することができるが、しかし宗教とは戦わなければならない、と主張しました。
でも、ヤスパースは超越者(神)を設定していたよね?
宗教と戦うなら、その神は何?
ヤスパースの絶対者は宗教的な神ではありません。
理性的なことを前提としているのです。

理性的とは

まず理性的とはどういうことかを考えてみます。

例えば、子どもに「はじめに神様は天と地をつくった」と教えたとします。

すると子どもは「はじめの前には何があったの?」と問いました。

このことはすでに、理性の限界を示しているのです。

わかった!問いには際限がない
思索は与えられるものに頼っていて、それ自体としては空虚。
「人は誰でも哲学において、彼が本来すでに知っていたものを理解する」(『哲学入門』p75)だけなのです。
つまり、理性はそれ自体としては非生産的非創造的能力。
しかし、「理性の思考は立ち止まることや終止することを知らない運動のうちにのみある」というような積極的な能力でもあります。
理性は与えられたものの合理性をずっと思考している特徴がある
科学哲学でポパーは「科学的とは今のところは反証されていない、反証できる理論」のことだとした。
つまり、科学的(理性的)な運動を認めている
このように定義できます。
  • 科学は客観的な科学的真理を提供しうるものであるけれど、ずっと理性的な運動を続けているもの。
  • 実存哲学は主観的な真理を提供しうるものであるけれど、ずっと理性的な運動を続けているもの。
この理性的運動という特徴は一致しているのです。
しかし、科学が世界を分析するとすれば、哲学において世界に対応しているものは限界状況から意識される超越者(包括者)だとキルケゴールは考えました。
世界は多くを意味し、また実存は超越者(神のようなもの)について多くを意味する
ヤスパースから現代のニヒリズムを分析するならば、人々が科学を信仰してばかりいるので、有意義性を享受できていないことがニヒリズムにおちいる原因だと言えます。

限界状況とは

実存を考えるとき、具体的な人間的状況をイメージしてみます。

生きるうえで避けられない戦争、悩み、偶然、死、罪。

これらは私たちが意図して避けることが出来ないことがら(限界状況)です。

この限界状況における実存は、自分が有限だという意識を持ちます。

理性的な運動は永遠だけど、人間は有限
この限界状況は科学や技術では解決できない人生の壁
その有限な存在としての自覚が、有限な自己をささえる包括者(超越者)の存在も自覚させるというのです。
ヤスパースの包括者というのは、主観と客観を包括する者です。
私たちは自分を考えるときに自分を客観視するのですが、そうなるとその考えている自分は客観視することができません。
この図で言えば、コップをみている私をさらに客観視してみている主体を捉えることはできないのです。
人は全体を見ることができない。
つまり、人は主観と客観の両方を捉えるには神の視点(包括者の視点)が必要になるのです。
ヤスパースの神は宗教的じゃなくて、デカルトの神の存在証明に出てくるような全体の視点
すなわち存在意識の最終的な変革に対応してもろもろの事象は超越者の「暗号」となり、世界は「暗号の世界」となるのであって、実存はこれらの暗号の解読という形でそれ自身は見ることのできない超越者の現実を確認する。
暗号はまた、実存が聞き取る超越者の「ことば」であるともいえるが、それは実存の絶対意識にただ瞬間的にのみ伝えられる「超越者の直接的なことば」と、神話や啓示や芸術にみられる実存相互間に伝達可能なことばと、哲学的伝達の可能な思弁的なことばに分類される。
(ヤスパース 人と思想p104)
包括者としての視点を持てない自己は、暗号によって包括者を思索するしかありません。
包括者は主観と客観に分裂して現象となって現れるとヤスパースは考えました。
現実のできごと、つまり実存において現象となってしか包括者は表れてこないのです。
ヤスパースは妻がユダヤ人だったので、大学教授の職を追われた。
かつ、強制収容所に送られそうになって2人で自殺するしかない直前、戦争が終焉に向って助かった。
人は限界状況を乗り切るため、挫折しないために、それにどんな意味があるのか問わずにはいられない
例えば、哲学において「私とは何か」という問いがあります。
その問いは包括者を問うことだとも言えるのです。
「哲学することの意味は、そのものとしては言い表われえない独自の思索、すなわち存在意識そのものである。」(ヤスパース 人と思想p98)
例えば、私が何をしたいのかわかっていれば、それをするように促すという「存在意識の変革」にもなる
私とは何かがわかっていれば、それにあった行動もできるようになるのです。
まとめ
ヤスパースはニヒリズムにおちいりやすい現代の人々に実存哲学をすすめた。
科学が万人に役に立つ客観的真理にかかわるとすれば、実存哲学は個々人の有意義性という主観的真理にかかわる。

科学は世界を分析し、実存哲学は包括者(超越者)を分析する。

ヤスパースの実存哲学の主旨。
「理性は実存から現実的内容をうる、実存は理性によって明瞭性をうる」

では、具体的にヤスパースはどのようなことが哲学的実践だと説いたのでしょうか。

ヤスパースの哲学的信仰のすすめ

ヤスパースは哲学には3つの根源があると述べました。

驚きから問いと認識が生れ、認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生れ、人間が受けた衝撃的な動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生れる。
(『哲学入門』p22)

驚き、疑い、絶望(限界状態からの包括者の意識)の3つを哲学の根源としたのです。

驚きはプラトンとかソクラテスを思い出す。
疑いはデカルト
絶望はキルケゴールかな
この3つの動機は、人間と人間との間の交わりという一つの制約のもとにおかれるとヤスパースは述べました。
「真理は二人からはじまる」とも彼は語り、ここにニーチェとキルケゴールが説く「例外者」(自分だけの価値を守る存在)との違いがあります。
哲学には実存的な交わりが必要だとヤスパースは主張した。
「愛しながらの闘い」(例えば話し合いや討論)から人間は本来的な自己にいたる、とも

そして、ヤスパースは哲学の根源を「哲学的信仰」とも名づけました。

哲学的信仰とは

科学と宗教の間の哲学的信仰。

それは、実存からの思索であり、理性による思索であり、超越者(包括者)に対する哲学的信仰です。

また、「真理を信仰し、真理に賭けた生き方を貫くこと」とも言えます。

哲学的信仰における3つの信仰

  1. 神への信仰
    神性は根源であり、目標であり、安らぎであって、ここに人間の庇護がある。
  2. 人間への信仰
    自由の可能性への信仰であり、自由に基づく人間のもろもろの可能性への信仰。
    また、人間相互の真の交わりが可能であるという信仰。
  3. 世界のもろもろの可能性への信仰
    世界が全体としては考量不可能であり、くみつくすことのできないもろもろの可能性をもっているということへの信仰。
哲学といえば対話
その対話は人間信仰が元になっている
ヤスパースは信仰を持って生きることと、理性的に生きることは矛盾しないと述べました。
例えば、この信仰によって理性に対する情熱が生れ、その情熱のおかげで記憶ができたり、集中出来たり、知見が広がったりします。
また、なぜ哲学的信仰をすすめるのかといえば、これもニヒリズムに関わります。
人は生きる重荷に耐えかねて、自由を放棄し、信仰を放棄し、理性を放棄し、動物的な生き方を選ぼうとする危険があるとヤスパースは主張しました。
現代は科学信仰であり、哲学の危機と言われることがあるね
ヤスパースと哲学的信仰のすすめをやりました。
次回はハイデガーについて扱います。
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