イギリス経験論と大陸合理論

イギリス経験論と大陸合理論|高校倫理1章2節4

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第2節「科学・技術と人間」
4.イギリス経験論大陸合理論
を扱っていきます。
17世紀に科学革命が起こると、それに伴って思想も変わっていきました。
一つは、哲学者フランシス・ベーコンによる「知は力なり」という思想。(帰納法的イギリス経験論
そして、もう一つがデカルトの「わたしは考える、それゆえにわたしはある」という思想。(演繹法的大陸合理論
経験論と合理論は、知識の元である「観念」のとらえ方で対決する
今でも生まれつきなのか(合理論的)、育ちなのか(経験論的)という対立はあるよね
両者の思想はそれぞれ、イギリス経験論大陸合理論として発展していきました。
2つの思想と、それぞれの発展を見ていきます。
ブログ構成
  • イギリス経験論とは
  • 大陸合理論とは
  • 経験論と合理論の統合

参考文献 ヒューム 人と思想(泉谷周三郎)自然宗教をめぐる対話(ヒューム著 大塚元訳)スピノザ(國分功一朗)はじめてのスピノザ(國分功一朗)知性改善論(スピノザ 畠中尚志訳)哲学用語図鑑

イギリス経験論と大陸合理論|イギリス経験論とは

経験論はおもにイギリスで発展し、合理論はおもにヨーロッパ大陸で発展しました。

文化背景や、誰の哲学を参考にしたかによって、その論がどのように発展していったのかは異なります。

ただ2つの思想は人間の認識能力(感覚や理性)を信頼する点で、近代の人間中心主義に根ざしています。

日本人は日本語で考えているように、それぞれの論にもその文化背景の特徴を受けついでいる
17世紀頃まで、理性ってそんなに重要視されてなかった
まずは、イギリス経験論。
イギリス経験論⇒知識や観念はすべて五感(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)を通じて得た経験によるもので、生まれ持った知識や観念は存在しないという考え方
イギリス経験論者はおもに帰納法で正しい知識を身につけられると考えます。
帰納法は経験(実験)によってたくさんのサンプルから、新しい論を発見できるという考え方。
演繹法(一般論を個物に当てはめる)だと、新しい発見は導き出せないと考えられていた
経験論で代表的なのがロック(1632-1704)の述べた「タブラ・ラサ」です。
タブラ・ラサ⇒ラテン語で「何も書かれていない書板」、白紙のこと
ロックはお医者さんで、たくさんの赤ちゃんを見てきました。
その経験から、人間の心は生まれた時は白紙だと考えたのです。
人の経験が白紙に書き込まれていって、知識や観念になると考えました。
イギリス経験論は生得観念(生まれつきそなわっている基本的な概念)がない、とするのが特徴です。
イギリス経験論では、人が経験によってどうやって知識を獲得するのかを考えていった
イギリス経験論の発展過程を見ていきます。

ロックの知識獲得方法

人は生まれた時は白紙。

白紙から人はどのように知識を獲得するのかを、ロックは考えました。

経験論の基本は五感(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)による経験です。

すっぱい、甘い、痛い、硬いなど、五感から得られる印象をロックは単純観念だと考えました。

「いたっ」、「あまっ」とか、単純に感じるものが単純観念
単純観念の経験が組み合わさってできた知識を複合観念とします。
あまくて、赤くて、いい匂いで、硬いから、これはリンゴ!(複合観念)
すると疑問がでてきます。
リンゴは経験ではなく、そのままあるものではないのか?
ロックはものの性質を、一次性質と二次性質にわけました。
  • 一次性質⇒人間の五感に関係なくそのものに備わっている性質。
    人間がいなくても成立する(大きさ、形、個数といったものは成立している)。
    デカルトの「延長」と類似した概念
  • 二次性質⇒人間の五感によって捉えられる性質。
    人間がいないと成立しない
りんごはあるよね、その感覚もある

これに目を付けたのがバークリです。

バークリの知覚論

バークリ(1685-1753)はロックの一次性質に疑問を覚えました。

えっ、リンゴはあるよね?
?私には見えないよ?
ロックの一次性質では、リンゴが存在するからそれを知覚できると考えていました。
しかし、バークリは誰かが知覚する前に、リンゴの存在を確認することはできないと考えたのです。
バークリ「存在するとは知覚されていることである」
物は見えるから存在している。
つまり、人間の知覚が先で、物の存在が後であることを説いたのです。
  1. 人間の知覚が先
  2. 物の存在が後

バークリはロックの一次性質を否定し、世界の存在根拠を「知覚」だけに求めました。

知覚だけに世界の存在根拠を求めることって、徹底した経験論になるね
ただし、バークリによれば、誰かが知覚していればリンゴは誰かの意識の中で存在できると考えました。
誰も見ていない場合は、神がみているのでリンゴは存在できると考えたのです。
次に、バークリの考えを発展させたのがヒューム

ヒュームの「因果関係の否定」

ヒューム(1711-1776)はバークリの考えを受けつぎます。

人間は「知覚の束」だと考えました。

一次性質の否定は、私を物質的にも存在しない、と考えることになります。

デカルト(合理論)は「我思う、ゆえに我あり」から、心身二元論(精神と物体は別々に存在)を説いた。
物質の否定は「ゆえに我あり」の部分の否定にもなる。
デカルトは「ゆえに我あり」を説くために生得観念を持ち出していた。
つまり、私の物質的存在否定は、生得観念の否定にもつながる
ヒュームにとって、感覚(知覚)のみが存在するのであって、私という実体はない、としたのです。
そこからヒュームは、因果関係の否定を説きました。
人間は経験(習慣)しかないので、「1+1=2」といった法則も、人間の思い込みだと説いたのです。
「1+1=2」という法則も自然界には存在しません。
人間が主観的に因果関係を持っているとして、科学も人間の世界にとっての因果関係だと考えた
さらには、人間同士でも習慣の違いから、「1+1=2」という法則が100を超えると「100+1=100」(100以上の数を持たなかったり他の法則を適用する)というようなことも起こりうる
ヒュームは客観的な因果関係を否定したのです。
例えば、人間の視点ではなく動物の視点からみれば、世界は色がなかったり温度の世界だったりするようなもの
つまり、一次性質(延長)はなく、あるのは「私の知覚」だけなのです。
デカルトも方法的懐疑をとっていたとき、「1+1=2」を人は間違えるから、哲学の土台にはできないと考えていたよ
生得観念は神が人間に与えた「延長」や「完全の概念」などといった概念。
その生得観念の否定は、当時の神の否定にもつながりました。
因果律が神の存在証明での前提ともされていたからです。
因果関係の否定は神だけでなく、現代科学の否定にもつながるもろ刃の剣でもある
当時、ヒュームは無神論者と言われて非難されていました。
友人の母親に、無神論者のヒュームだけは家に招かないで、と言われたエピソードが残っています。
(友人はヒュームだということを隠して家に招いたら、母親にあの好青年ならまた連れてきても良いと言われた)
ヒュームの本から、経験論を考える思索を紹介
ヒュームの思想を抜粋(「自然宗教をめぐる対話」から)
  • 「ロックこそが、信仰は理性の一種にほかならず、宗教は哲学の一部分にとどまると公然と主張した最初のキリスト教徒」p17
  • 「わたしたちの観念は、わたしたちの経験を越えることはありません」p43
  • 「わたしは習慣にもとづいて、一方の存在を見ればいつでも、他方の存在を推測することができます」p58
  • 「一般的になされていた区別には根拠がない」p61
  • 「『似た結果は、似た原因を証明する』これが経験的論証です。しかも、あなたはこれこそが唯一の神学的な論証であるとも言いました」p87
  • 「生長や生殖が、自然において秩序を生み出す原理であることが経験される。‐理性が生殖を生みだすのは、けっして見たことがない」p117
  • 神の存在という事実問題は、ア・プリオリ(生得的)な論証で扱うことはできず、経験や観察によって推論するほかないp249(著者解説の部分)

次に、大陸合理論について紹介していきます。

イギリス経験論と大陸合理論|大陸合理論とは

大陸合理論。

大陸合理論⇒生得観念(人間に生まれつきそなわっている基本概念)が存在するという論
合理論者はこの生得観念をたよりに演繹法によって、正しい知識を身につけていくべきだと考えました。
演繹法はみんなに共通する原理を前提として結論をだしていきます。
合理論的に認められる前提の例
  • 人間は死ぬことを知っている
  • 完全か不完全かは生まれつき知っている
  • 平行線が交わらないこと、「1+1=2」という知識は、経験によって知ったわけではない
  • 善悪の区別や道徳を生まれつき知っている

このように、経験によらずに持っている知識が生得観念です。

デカルト哲学の第一定理「私は考える、それゆえにわたしはある」(コギト=エルゴ=スム)も、演繹法の前提になります。

デカルトはこの前提の後に神の存在証明をしました。

デカルトは第一定理を打ち立てても、また疑問に思ってしまいそうな自分を納得させるために、完全である神の存在を持ち出したともいわれているよ

この前提に対し、批判を加えながら独自の哲学を構築したのがスピノザ(1632-1677)です。

スピノザの批判

デカルトは「わたしは考える、それゆえにわたしはある」(コギト=エルゴ=スム)という原理から、物心二元論を説きました。

意識と身体は別々に存在していると考えたのです。

しかし、スピノザはこの原理で導き出す前提は間違っていると考えます。

「私は考える」と「私は存在する」というのは接続詞を用いている。
つまり、ある別の命題を前提にしていることになる
ある別の命題は「たとえば、『考えるためには存在しなければならない』とか『考えるものは存在している』といった命題である(スピノザ p40)」

スピノザは「考えつつ存在するわたし」というあり方(属性)が前提だと考えました。

そして、「私は存在する(スム)」が出発点になると考えたのです。

スピノザの汎神論

デカルトの物心二元論に対し、意識と身体はつながっているはずだとスピノザは批判します。

  • 意識が腕を動かしたければ腕が動く
  • 意識が悲しいと思ったら涙が出る

というように、意識と身体は連動していると考えました。

そしてスピノザが導いた前提は「汎神論」です。

汎神論⇒物体も精神も含め、世界のあらゆるものは神のもつ性質のあらわれだと考える哲学観。
神と世界は同一であるという考え方で、一元論

スピノザは私たちの意識も身体も自然もすべてまとめて一つの神だと考えます。

そして、人間も自然の一部であり、自然も神そのものだという思想です。(神即自然)

一元論だと、身体と意識が分かれていないから、二元論の矛盾は解消されるね
でも、どうして神だけ実体だと考えたのかな?
スピノザは大陸合理論の系統であり、演繹法で思考しています。
つまり、スピノザの前提は疑いえないもの、真なるもの、一般的なもの、でなければなりません。
私は存在する(スム)」という疑いえない神の存在をスピノザ哲学の前提に置いたのです。
ただし、スピノザは定義においては神から始めていません。
生得観念として自然や宇宙を考えていて、それが神と表現されるのです。
現代の私たちからすれば、宇宙の神秘を神とみるようなもの
スピノザの神は宇宙とも考えられるので、神を人格的存在と考えるキリスト教徒よって「スピノザは無神論者だ」と言われました。
「神即自然」の考え方は、むしろ自然科学的
神というと科学的でない印象があるけど、内容は科学的で、神を自然とか宇宙に見立てている

スピノザ哲学の演繹法

スピノザ哲学の前提から導き出されることを考えてみます。

定理11は神を定義した上でそれが存在することを述べている。(定理1から始まって定理11で神が定義される)‐

ある物が適切に定義されたならばそこから多数の特性が結論されるのと同様に、神の本性からは無限に多くの物が無限に多くの仕方で生じ、また導き出されると述べられている。
(スピノザp132)

真理は無限にある

「知るためには知っていることを知る必要がなく、まして知っていることを知っているということを知る必要はなお更ない」(知性改善論p31)

知るためには知ることが必要だと考えるのは帰納法的な考え方です。

しかし、演繹法はそれを否定します。

私たちは初めから知っているのです。(「真の観念の保証とは真の観念を持つことそのものである(スピノザp93)」)

例えば、本を読んでわたしたちが理解できるのは、私たちが知っていることのみ、ということ
えっ、でも正しく解釈してるとか、間違っているとかあるよね?
スピノザ哲学において、他者に伝達可能な他者と共有できる真理の基準は存在しません。
私がわかったことをいくら話しても、他人には伝わらない
でも、それだと僕が正しいと思っていることは正しいと思っていいのかな?
演繹法は、真理から出発しているので、その結論は個別における真になります。
真がたくさんあるということだから、君が正しいと思うならば、正しいんだと思うよ
(「意識とは、身体の変状の観念の観念である。‐それは〈我々がそれであるところの観念〉から区別された〈我々が有する観念〉である。」(スピノザp184)
(演繹法的に言えば、一般的真の観念と、それから導き出される私たちが思う真の観念があって、私たちが有するのは導き出される個別的な真の観念))
ただし、真理獲得には経験を要するし、自分がその真理を受け取れるように変わる必要があると述べられている。
つまり、思ったものが真でなくて(疑問が生じる段階)、これが真だと確信できれば真
真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によってそれが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない。(スピノザp94)

永遠の相の下

スピノザ哲学で有名なのは、「汎神論」に続いて「永遠の相の下(えいえんのそうのもと)」です。

永遠の相の下⇒神の視点から世界を見るということ

神の視点にしないと、私たちは神の視点の外部を見てしまって、無限遡及してしまう
(理由の理由を発見するというように無限に続く)

帰納法に比べ、演繹法は新しいものの発見がないと言われています。

発見を再解釈して、新しい哲学とすることはできるんだけどね

そのことから、スピノザは人間の自由意志を否定します。

しかし、意志の否定といっても、ネガティブな意味では言われていません。

人間の自由意志否定のポジティブな面

  • あなたの身に起きていることは自然現象の一部で、永遠の中の一コマにすぎない。
    けれど、その一コマはあなたがいないと成り立たない(あなたは神の様態の一部)。
  • 私たち一人ひとりが世界の「仕方」や「やり方」や「様式」
  • 真理を獲得するために、主体の変容を求める(精錬の歩みを求める)
  • 人間精神は厖大な情報を処理しているので、意識にあがるものはその一部であり、人は結果と原因を混乱しやすいだけ
    (もし自由意志の否定に悲観したとしても、その悲観対象が間違っている場合がある)
  • 意識は常に道徳的である
  • スピノザ哲学の理性の基礎は概念であって、あくまでも一般的なもの(言葉の領域を超え出ているものを別に思考している)
そっか、神の様態の一部であるから、意識は常に道徳的なんだね
17世紀まで、良心と意識の間には明確な区別はなかったんだって(スピノザp289)
今でもフランス語の辞書には、conscienceの項目に意識と良心の二つの意味が書かれている

ライプニッツの哲学

次に、合理論で有名なもう一人はライプニッツ(1646-1716)。

ライプニッツによれば、世界は分割可能な精神的実体である「モナド(単子)」からなると考えました。

モナドは原子論に似てるけど、物質ではなくて観念上の点

世界を形づくっている最小の点がモナド。

モナドは世界が最善になるようにあらかじめ神によってプログラミングされています。

スピノザを一元論とするなら、ライプニッツは多元論
モナドは予定通りに互いに調和しあい、最善の世界を創ります。
これを神の予定調和と言います。

経験論と合理論を統合したのはカント

経験論と合理論を統合したのはカント(1724-1804)です。

カントはヒュームによって「独断のまどろみ」から目を覚まされたと語っています。

カントはコペルニクス的転回(対象が認識に従う)を説いた
ヒュームの因果論の否定から、すでにコペルニクス的転回が見られるとも言われているよ
カントについてはまた後に扱います。
今回はイギリス経験論と大陸合理論をやりました。
次回はホッブズと社会契約説について取り扱います。
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