人間中心主義

人間中心主義と人間観の移り変わり|高校倫理1章1節2

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第1節「人間の尊厳」
2.人間中心主義と人間観の移り変わり
を扱っていきます。
前回はルネサンスと人文主義を見てきました。
>>1.ルネサンスと人文主義
今回はルネサンス期に起こった人間中心主義を中心に、人間観の移り変わりを見ていきます。
ルネサンス期は「世界と人間の発見」(ミシュレ)とも言われている
14世紀ルネサンスの元は、ギリシア・ローマ文化の復興を意味しました。
19世紀になって、「世界と人間の発見」や「個人の発見」など、再解釈されてきたのです。
復興や再生というと、元の何か「正しいかたち」があったというニュアンスがあるよね。
もしかしたら、文明開化みたいにある権威(伝統など)を根拠にして述べていたのかもしれない
今回は、その解釈の中での「(世界と)人間の発見」を中心に見ていきます。
ブログ構成
  • 人間中心主義とは
  • 人間観の移り変わり

参考文献 誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチ(斎藤泰弘)世界の名画シリーズ ミケランジェロ画集訂正可能性の哲学(東浩紀)

人間中心主義とは

14世紀ルネサンスでは、個人が発見されていきました。
>>ルネサンスと人文主義

特徴的なのが絵画。

それまでは署名をすることがなく、絵画は「聖なるイメージの模倣」でしかありませんでした。

この頃の芸術家は、大工さんや修理屋さんといった職業とかわりなかった

しかし、古代ローマ思想、特にプラトンの思想が流入することによって、「模倣」が個人の能力によるもの、という考え方ができていきました。

そこで出てきたのが、レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452-1519)や、ミケランジェロ(1475-1564)です。

彼らは万能人(普遍人)の典型として尊敬されました。

万能人(普遍人)とは

万能人(普遍人)とは、力強い意志と幅広い知識によって自分の能力を全面的に発揮できる人のこと。

具体的な例を見ていきます。

レオナルド=ダ=ヴィンチ

レオナルド=ダ=ヴィンチは、すぐれた画家であり、独創的な科学者・技術者でもありました。

有名な絵画は、「モナリザ」や「最後の晩餐」。

絵を完成させることが少なかったものの、絵の途中段階の素描だけでも人々の賞賛を浴びました。

気まぐれだけど、能力の高いレオナルドは、芸術家の地位をさらに向上させたと言われている
レオナルドは、画家になりたい者は「まず最初に科学を学び、次いでその科学から生まれた制作に移れ」と述べました。
「誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチ」p195
例えば、彼は解剖学によって人体の謎を解こうとしたり、合理的な研究をふまえた遠近法を取り入れたりもしたのです。
レオナルドは10体以上の死体を解剖したりして、完全な知識を手にいれようとしたみたい
レオナルドはきわめて論理的な思考をしました。
「人間のする議論の中で最も愚かなのは、魔術を信じて吹聴することである。」
誰も知らないレオナルド=ダ=ヴィンチp248 レオナルドのセリフ
しかし、時代的にはまだ科学が発達していなかったので、異端視される恐れがあり、科学的な発見は公表しなかったのではないかと言われています。
レオナルドは「(人類は)美徳を磨き、知識を手に入れるために生まれてきたのだ」(ダンテ『神曲』)という目的のために、自分の人生を捧げたと言われています。
p257
当時、『神曲』は百科事典のような役割を果たしていた。
人々は神(キリスト教)を信じる世界観にいた
論理的なミケランジェロが天国や地獄を信じていたのかはわからない。
でも、思想は影響を受けていたといわれているよ

ミケランジェロ

ミケランジェロは彫刻家であり、画家であり、建築家でもありました。

彼の『ピエタ』は当時、彫刻作品の限界を超えた奇跡の作品として評判になっていました。

彫刻なのに、服のひだひだがホンモノみたい

ミケランジェロは89歳で死去する直前まで、いつも制作をしていたそうです。

晩年には代表作「最後の審判」を描きました。

「私は裕福だったのに、いつも貧乏人のような生活をしていた」と、弟子に語ったと言われています。
「世界の名画シリーズ ミケランジェロ画集」p299参照

この頃に発見された理想的な人間像は、万能人(普遍人)。

それは、芸術だけではなく、知識や美徳を求める姿です。

「人間」が発見されたときの理想が万能人!
この理想としての人間像はしばらく続くよ

ピコ=デラ=ミランドラ「人間の自由意志」

人間中心主義として、押さえておきたいのがピコ=デラ=ミランドラ(1463-94)の「人間の尊厳について」。

この本のなかで、ピコは人間の自由意志を強調しています。

ピコの人間中心主義

  • 神は人間をあらゆるものの中間にある存在として創造した
  • 人間は自分の生き方を自由に選ぶ能力を持っている
  • 自由な意志によって神のような存在にも動物のような存在にもなることができる
  • 自由な意志のうちに人間の尊厳がある
    (参照 倫理の教科書p130)

つまり、人間は神から自由を与えられたので、「人間自らが望みさえすれば地位も才能も獲得できる存在」だと述べられています。

そして、そこに尊厳がある、と。

人間が発見された当初は、自由意志によって何にでもなれる存在だとされたんだね!
例えば、「努力すれば万能人になれる」という存在

14世紀のルネサンスでは、個人の発見があり、人間の発見がありました。

そのような人間観は歴史にどのような影響を与えたのか。

倫理の教科書では次に宗教改革に移りますが、ここで簡単に人間観の移り変わりについて見ていきます。

人間観の移り変わり

「人間」や「個人」が発見されたルネサンスから見ていきます。
(特にフーコーの歴史観から見ていきます)

ルネサンス以前⇒ルネサンス後

ルネサンス以前、絵画や書籍において個人はいませんでした。

絵画はただの写しで、個性が入ってはダメだった。
書籍は紙がなかったり、印刷技術がなかったりで、一般的じゃなかった
文明技術の発達、古代ギリシアの思想の流入などから、14世紀ルネサンスでは個人や人間が発見されます。
ここで発見された人間は、自由意志をもった、万能人に憧れる、美徳や知性を追い求める存在です。
  • 発見された人間⇒主体性や目標をもった高みを目指す人間

しかし、現実では王様や聖職者が、民衆を力(権力、武力)によって支配していました。

ルネサンス後⇒フランス革命

14世紀から17世紀にとびます。

まだ王様やキリスト教の権力が強かったのですが、民衆が力をつけてきました。

17-18世紀頃になると、啓蒙主義者(人間本来の理性の自立を促す人)がでてきます。

1789年フランス革命。

革命によって、人々は絶対王政から民主主義への道を歩むことになります。

また、産業革命によって科学がすすみ、今まで従ってきた神への価値観も崩壊してきました。

科学が発展することによって、神が疑問視されてきた

それと共に人間観も疑問視されます。

今までの価値観が間違っていたと示されることで、多くの人々は「神」の代わりに「科学」を信じていくようになります。

特にニーチェの「神(今までの道徳観や価値観)は死んだ」は有名!
またその頃、哲学思想では構造主義(人間の行動は、その人間が属する社会や文化の構造によって決められている)が主体になっていきます。
さらに、今までの自由意志も疑問視されました。
人間は意識的にものごとを行っているようでいて、大半は無意識によって行動していると科学的に示されてきたのです。
革命の原動力は、自由意志を持った人間だった。
でも、それを元に行動した人間は神の信仰の元にいた。
神を信じなくなった人間は、それでも「昔の人間観によって起こした革命」後の世界(民主主義)にいる

フランス革命⇒19世紀以後・生の権力

フーコーは19世紀以前と以後で、権力の構造の変化を捉えました。

  • 18世紀以前・死の権力
    (絶対王政など、死刑の恐怖によって民衆を支配する)
  • 19世紀以後・生の権力
    (私たちの欲望が作り上げた目に見えない民主国家における権力)

フーコーは、19世紀以後の人々が住んでいる世界はパノプティコン(監獄)だと述べたのです。

人々が相互に監視し、さらに自分が自分を監視する、科学が発達した世界(パノプティコン、監獄)。

監視というと恐ろしい感じがするけど、防犯カメラがあったり、みんなが規則を守ったり、安心・安全な面は強くなった
この世界では、多くの人が科学で作り上げられた世界観を信じています。
しかし、未だに『人間(神信仰を失った後)』とは何か、わからないまま。
この世界観から、『訂正可能性の哲学』では、新たな人間観を提示していると私には思われたので、次にその人間観を紹介します。

『訂正可能性の哲学』の人間観(倫理教科書外)

『訂正可能性の哲学』で提示しているのは、新たな人間観です。

特にルソー(1712-1778、フランス革命前夜の急進的啓蒙思想家)の性格的思考から導き出したもの。

新しい人間観とはどのようなものだろうか。

それはひとことでいえば、人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。

‐そのような人間観は、いまでは「文学的」なものとして広く流通している。

だからあまりルソー独自の新しいものだと感じないかもしれない。

けれどその見かたは転倒している。

実際は彼こそが、そのような人間観を文学にもちこみ、世界に広めた人物のひとりだからだ。

ロマン主義は人間を不合理な存在と捉える。

理性的な啓蒙など成功するはずがないと考える。
『訂正可能性の哲学』p182

小説では当たり前だとされている不合理で矛盾する人間観は、ルソーが持ち込んだ一人だったんだね!
産業革命、構造主義の台頭、これによって以前の人間観は崩れていました。
人は「神(以前の道徳)」を信じなくなったからです。
それを、現在の人文知で見られる人間観から見ていこうという試みが、「訂正可能性の哲学」では示されています。
  • ルネサンス後に発見された人間観⇒主体性や目標をもった高みを目指す、神の信仰に基づいた人間
  • 人文知が提示する新しい人間観⇒不合理で矛盾し、それゆえに尊い人間
どうして「不合理な人間観」を提示する必要がでてきたのかな?

21世紀の現在、人々はルソーの「社会契約論」における一般意思(データベース、集積知)によって、政治にAIを取り入れていこうと考えています。
>>ルソーの一般意思とは

AI政治は、一般意思によって人々を「幸福」にしようとします。

しかし、東浩紀は一般意思というのはルソーが伝えたかった思想の一部であり、それが独り歩きしてしまったのだと語りました。

一般意思による世界構成(AIによる統治)を、ルソーを全体的に再解釈することで批判していきます。

そこで使われているのが「訂正可能性」です。

  • 「訂正可能性」⇒変革可能性を示す営み
  • 「訂正」⇒人々の感覚を「変える」こと
    (参照 訂正可能性の哲学p344)

本では、AI統治というのが訂正不可能であり、それゆえに、人間に合わないものだと示しているからです。

訂正可能性

まず、ルネサンス期から出てきた人間観が変わっていく契機は、構造主義(人間の行動は、その人間が属する社会や文化の構造によって決められている)にありました。

構造主義は、ソシュールの言語の恣意性に影響をうけています。
>>ソシュールの言語学

簡単に言えば、世界は他の言葉との差異で成り立っている、と説いたのです。

日本人はチョウチョを「チョウとガ」と分けるけど、フランス人は「パピヨン」として一つのものとして見ている
この説は、私たちは人間(生物学的な特徴を持った人間)である、ことが前提となっています。
例えば、ヘビは眼があまり見えないかわりに臭いや温度で感知する世界にいるし、人間は言葉によって世界を区切る世界にいる、特定の種はその種の見方をする、ということ
人は世界を区切る(物語をつくる)ことによって、世界を捉えようとします。
では、世界を区切って物語をつくり、それを信じる人間が今はどのような世界(物語)にいるのでしょうか。
「第二の物語の提示」
ぼくたちはいま、共産主義という第一の大きな物語のかわりに、シンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている。
‐資本主義はもはや終わることはない。
世界革命は起きない。
国民国家も消えることはない。
しかしそのかわりに人類には計算力の指数関数的な成長がある。
‐そして人類は遠からず、働かなくてもだれもが快楽を手に入れ、実質的には死ぬことすらない、永遠への楽園への切符を手に入れることができるだろう。
『訂正可能性の哲学』p148
第一の物語は冷戦を象徴する「資本主義vs共産主義」で、資本主義が勝った。
第二の物語は「AIと人間」で、シンギュラリティはAIが人間の知能をこえることを言うよ
この世界って、「幸せ」だよね。
どこが悪いの?
「訂正可能性の哲学」では、大きな物語というのは、「過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立、これこそが『大きな物語』の本質である」(p166)と述べています。
つまり、AIを作り出す凄い人間と、それに頼らなければ幸せになれない人間という両面を人間が持つということが前提で作られています。
では、それに頼らなければいけない人間を、凄い人間が見た時、どのような印象を覚えるでしょうか。
なんか差別的なものが見える!
あれ、でもすごい人間も、弱い人間も僕だよね?
今はすごいと思っても、弱いと思うときもあるし、逆もある
人間は矛盾した両極端なものを持つけれど、みんなをその「幸せな世界」に連れていくことが問題だと、本では述べられています。

シンギュラリティの世界

この大きな物語はルソーの一般意思によって成り立ちます。

ルソーの一般意思を現代視点から解釈すると、AI統治になるからです。

しかし、この構図は、ルネサンス期に論理によって世界を構築しようとしたオッカムのウィリアムが提示した主意主義に似ています。

オッカムの主意主義⇒正しいことだから神はそれを人間に命じるのではない。
神が何かを命じるから、それを為すのが正しいということになる。

この主意主義とは、「世間で悪い」とされていることも神が命令したとすることで、絶対的な論理になることです。

あの人は悪人なのに、どうして聖人と言われているの?
人間に善悪なんてわからない。
神が絶対で、神が決めたものが善悪になるという論理
オッカムは論理の天才でした。
当時の矛盾する現象を、神の意志をトップに据えることで、論理的に説明したのです。
これと同じような構図を一般意志に当てはめてみます。

一般意志⇒データベース、均(なら)されたみんなの望み、集積知、数学的扱いをされるもの

これは現代で重視している科学に基づいた分析です。

しかし、この構図は、主意主義のような論理を展開します。

どうして税金はこの額なの?
「統計やデータに基づいていて、それが良いと示しているから」
というように、AIを基準にすることで完璧な論理になる
共通していることは、どちらも「訂正可能性がない」ということです。
  • 神が根拠になっている⇒神の絶対性は批判できない
  • 一般意思(AI)が根拠になっている⇒科学の絶対性は批判できない

現代は神信仰の代わりに、科学信仰になっていると言われています。

しかし、このように「信仰」をトップに据えて、訂正が不可能になるというのは人間らしくないのです。

固有性

ビックデータ分析(AIによる分析)は、あなたに似た人々によって判断されます。

そこには、固有性がない。

つまり、「私」が死んだら終わりという世界観がないのです。

したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える。
「訂正可能性の哲学」p258

「私」という固有性を表現することは、運動を表現することです。

正しさを求めるのは大事だ。

けれども、あまりに長いあいだその言葉が便利に使われてきた結果、人々はむしろ本当の正しさとはなにかを考えなくなってしまった。

いまの基準で過去を断罪さえすれば、それが正しさなのだと信じるようになってしまった。

‐けれどもその正しさは、いま信じられているほど強固で絶対的なものではありえない。

正しさの基準は時代や文化に応じて驚くほど変わる。

そもそもそのようなものだからこそ、過去の過ちを正す運動が可能になっている。

正しさとは本当は、正しい発言や行為なるものが確固として存在するようなものではなく、つねに過ちを発見し、正しさを求める運動としてしかありえない。
「訂正可能性の哲学」p342

丸山眞男の自由とは「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」とか、和辻哲郎の間柄的人間が思い起こされる
日本思想でも、人間は運動だとみなされてきました。
新たな人間観を「不合理で矛盾し、それゆえに尊い人間」と論理的に捉えられるのです。
「正しい」に停滞すると、それは腐敗していく。
人間は不合理で矛盾するから、何かに憧れて運動を起こす。
その運動(過程)を伴うものを、新たな人間観として提示しているんだね
人は「正しさ」の中に停滞する(AI統治)と、「幸せ」なはずがいつのまにか「不幸せ」になってしまう。
AIが示す「幸せ」は、人間観に合っていないのです。
「正しさ」に停滞しやすい今こそ、人文知や哲学の出番だと本では語られていた
人は「自由」に憧れているときにその「自由」があって、憧れていなければ「自由」はあらわれてこない。
人は「考え」ているときに「考え」があって、固定化した思想には「考え」がない。
人文知は、いつまでも続く運動(過程)として出てくる
今回は、人間中心主義と人間観の移り変わりをやりました。
次回は、宗教改革について取り扱います。
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