大正デモクラシーと民本主義

大正デモクラシーと民本主義|高校倫理3章4節⑨

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
大正デモクラシーと民本主義
を扱っていきます。
鎖国から開国した日本。
開国にあたり、明治維新が起こりました。
明治維新⇒江戸幕府にかわって新しい政府が誕生し、近代国家に生まれ変わるための多くの改革を発表し、年号を明治に改めて新しい時代の幕を開いた近代化革命
明治維新によって、政府が誕生。
政府は天皇をトップとした大日本帝国憲法を発布。
それに伴い、国会が登場します。
国会ができることによって、議会によって国が運営されるようになりました。
では、大正デモクラシー(1905年頃~の起こりについて見ていきます。
大正デモクラシーは民主主義的なもので、国民の意見が政治に反映されること。
ブログ内容
  • 大正デモクラシーが発生した理由
  • 大正デモクラシーの現実

参考文献 「美濃部達吉と吉野作造」古川恵理子「大正デモクラシー」成田龍一

大正デモクラシーが発生した理由

大正デモクラシーとは民主的であることです。

大正デモクラシー⇒民衆による政治、多数者支配を意味する。
大戦(日露戦争)後を中心とする政治・経済的民主化を求める風潮のこと。

  • デモース⇒民衆を意味
  • クラテオ⇒支配を意味
なぜ民主主義ではないのかといえば、大日本帝国憲法では天皇が主権を持っているからです。
大正デモクラシーは、天皇主権から、民主主義への運動へと移っていきました。
大正デモクラシーの経緯(権力の強さの移り変わり)
・天皇⇒内閣⇒議会・政党⇒普通選挙からの政治的デモクラシー(狭義)⇒経済的デモクラシー(広義)
当時の憲法下において主権は天皇にあったのですが、かといって天皇は直接的には支配していないのが現状でした。
実質的に国の取り決めをしていたのは政府です。
なので、法科の学者である美濃部達吉(1873-1948、みのべたつきち)は、天皇機関説を唱えました。
天皇機関説⇒実質的な主権は国家にあり、天皇は法人である国家の最高機関とする説
まず第一段階「天皇⇒内閣」を説いた
なぜおおやけにこの事実をといたのでしょうか。

なぜ天皇機関説を説いたのか

美濃部達吉は法科出身です。

法科は、国家官僚を育成し、国家権力を高める法理論や政治理論をつくる役割をもっています。

帝大進学を約束された高等学校の進学率は1%にも満たないほどで、そこに進学した美濃部達吉は選び抜かれたエリート!

国のために、論理的に現体制の矛盾点を正す、という役割をになっていました。

矛盾点

  • 天皇主権⇒顕教的(おおやけに言われている説)
  • 天皇機関説⇒密教的(実際、天皇は政治を決めていない説)

なぜ実際は天皇が決めていないにもかかわらず、それが密教的(内緒)になっていたかと言えば、政府がそれを利用したからです。

それは指導者層たちが神格的な絶対者としての天皇の権威を利用して民衆を自在にコントロールし、国家の発展をはかろうとしたからである。
(美濃部達吉と吉野作造p30)

明治政府は発足当初から、天皇の正統性に根拠をもってきたよね
>>教育勅語とは
明治政府が発足した当初はそれでよかったのですが、国会を開くにあたって、議会・政党を中心とする政治の正当性を論理的に説明づける必要性がでてきました。
例えば、みんなが納得できないのに「天皇が批准した条約だから問題ない(失言事件 1931年)」というように、天皇に政治的責任をおしつけるような事件を防ぐためでもあります。
天皇機関説を唱えたのは、天皇のためでもあったんだね!
責任ばかりを押し付けられても、困っちゃうし、革命が起きてしまう
儒教にはトップが良くなければ革命(易姓革命)を起こしても良いという論があったし、天皇がトップだから平和だったという論拠があった
美濃部達吉の天皇機関説は、特に国体批判へと向けられます。
例えば、国体を支持していた代表者、穂積八束(「民法出でて忠孝滅ぶ」)に批判をしました。
すべての決め事の責任を、天皇個人へ押し付けるようなことへの批判です。
つまり、天皇機関説は、「統治権が天皇個人に属する万能の権限」とする天皇主権説を否定し、天皇を憲法や内閣に従う限定的な存在とする学説である。
(美濃部達吉と吉野作造p35)
天皇機関説は、学者に支持されました。
しかし、学者以外の層には浸透していかなかったのが現実。
民衆にとっては、直接関わってこない論だったからかな
学者層から、政治に移したのが民本主義を説いた吉野作造(1878-1933)です。

吉野作造の民本主義

天皇機関説を受け入れていた吉野作造。

吉野作造は学説から政治論へと発展させ、民本主義を唱えました。

民本主義⇒主権者の天皇は、民衆の幸福のため、なおかつ民衆の意向に基づいて政治を行う必要がある。
民を本(もと)とするという意味で民本主義。

当時「軍本主義」という言葉もあって、それに対して民本主義を説いたよ
吉野作造は天皇主権をうたう明治憲法論と向きあって、政治解釈が憲法に反しないことを説明しました。
どのような論法をとったのかといえば、天皇に正統性を持つのではなく、西欧に正統性を持ったのです。
つまり、日本の立憲政治は西欧の「デモクラシー」を起源にしたものだから、日本も西欧と同様に「デモクラシー」的な政治が必然なのである。
(美濃部達吉と吉野作造p52)
なるほど!論拠を天皇から西欧に移したんだね
さらに、吉野作造は解釈的民主主義があるとして、主権が天皇にあっても君主主義と民本主義は両立可能だと説きました。
解釈を拡大することで、美濃部達吉が「天皇⇒内閣」までの道を示したとするのなら、その後半の「政治的・経済的デモクラシー」へと吉野作造は運動を進めたようなものです。

世界の文明国はほとんどみんな普通選挙制だ、という世界的状況から、民本主義を説明づけました。

民本主義の内容

大正デモクラシーに代表されるのが美濃部達吉と吉野作造ですが、二人とも「天賦人権論」とは違う視点を持っていました。

天賦人権論⇒もともと人は平等な権利を持っていること。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」に代表される理論

二人ともエリート主義や国家主義的な側面がありました。

吉野は、政策立案や法律の制定など高度な能力が必要な政治運営に民衆が直接的に携わるのは困難なので「少数の賢者」たる職業政治家が行うべきと主張した。
(美濃部達吉と吉野作造p55)

民衆を少数の賢者が指導することをよしとしました。

民本主義であるとともに、貴族主義であることが必要、というのが吉野の主張です。

吉野作造が根拠をもった西欧のモンテスキューやJ.Sミルなども、民主化によるエリート主義を説いていました。

つまり、民本主義を説いた最大の理由は、国際間の競争において、日本国家の生き残りをはかることだったのです。

二人とも衆愚政治を恐れていたよ。
衆愚政治⇒失敗した民主政をやゆして用いられた蔑称
エリート主義的な二人の説は、民衆の利益擁護よりも、国家の発展。
なので、民衆の支持が得られませんでした。
確かに、民衆の生活が厳しければ理想論は支持されない…

大正デモクラシーの現実

大正デモクラシーが民衆に支持されていれば、もしかしたら日本は戦争への道を歩まなかったかもしれない、と言う説があります。

現実の大正デモクラシーを見ていきます。

超然主義と大正政変

政府は当初、超然主義(ちょうぜんしゅぎ)をとっていました。

超然主義⇒政党や議員の意見には左右されず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義
政府ができた当時、政党や議員の意見は通りませんでした。
特に財閥・官僚からなる内閣・陸軍出身者内閣など、特定の人によって国が運営されていました。
初めて行われた選挙は1890年の総選挙で、人口の約1%しか選挙権がなかったと言われているよ
しかし、国が一丸となって戦った日露戦争(1904)によって、民衆に力がついていきます。
戦争が強いのには、国内が統制されている、というのがあるよ。
みんなが協力したから戦力が高かった。
民衆に力がついた結果、第一次護憲運動(1912年)が起こりました。
陸軍出身の桂太郎(第三次桂太郎内閣の時)が、陸軍の権力を行使したことにたいして、民衆が内閣をつぶした初の出来事(大正政変)。
民衆が初めて内閣に影響を与えたんだね
次に民衆が内閣に影響を与えた運動が米騒動です。

米騒動

1918年、日本はロシア革命に干渉するために、シベリアに軍隊を送りました。(シベリア出兵)

シベリア出兵時に兵士に持たせる米を政府は買い占めました。

買い占めによって米価が急上昇。

米騒動が起こります。

暴動は全国各地に広まり、これによって当時の寺内正毅(まさたけ)内閣は総辞職。

大正政変に続き、民衆が政権を倒しました。

その後も超然内閣はつぶされたり、普通選挙法(1925年、満25歳以上の男子に選挙権)も成立していきます。

現実的にも民主主義の流れ!
しかし、普通選挙法と同じ年に成立したのが治安維持法。
治安維持法⇒国体や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律
その頃の国内は、戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌で荒れていました。
荒れていた頃に軍部が起こした事件が1931年、満州事変。
軍部が日本の権益を拡大しようとして起こした事件で、流れは戦争モードに突入します。
首相や重役が暗殺されるテロが相次ぎました。
こうしたテロが相次ぐことが、言論に変わる直接行動の出現を意味し、デモクラシー終焉を印象づける。
「大正デモクラシー」p241
五一五事件(1932年、犬養毅首相暗殺)から、政党政治は最後になり、軍部が力を持つようになりました。

大正デモクラシー期(1905-32)の最後

吉野作造は1933年に死を迎えます。

続いて、美濃部達吉は1935年には天皇機関説事件によって、公的に学説を否定されてしまいました。

1935年、天皇機関説という大日本帝国憲法の解釈が不敬であるとして攻撃された事件

学説的には支持されていた天皇機関説ですが、政治的な権力には勝てなかったのです。

美濃部達吉は教科書作成にたずさわることができず、民衆は天皇機関説が論理では有利なことを知らないままになっていきます。

つまり、民衆層と軍部では天皇機関説が異端的学説とされてしまいました。

論理で勝っていても、政策によって天皇機関説は負けてしまった
剣はペンよりも強し!?
天皇機関説が負けたということは、天皇がこのように言ったから戦争をする、という論理が通るようになってしまいます。
軍部は天皇主権を振りかざして、戦争への道をすすめました。
天皇機関説の影響も失われ、軍部が政治的な力を発揮することで、日本を戦争に導いていく時代が到来したのです。

民本主義とは

美濃部と吉野は、政党や軍部、さらにはその背景にいる民衆に対して、批判と苦言を呈しました。

民衆は軍部に言われるがままになっていたから、そのことに対して批判していたんだね。
大衆はすべての人と同じであることに喜びを感じる」というような衆愚政治批判
美濃部は1946年(戦後)に枢密院顧問官に任ぜられたのですが、民衆統治には天皇の権威が不可欠として、旧憲法維持を主張しました。
美濃部は最後まで明治憲法改正に反対。
それは、民衆への不信感が強かったからだと言われています。
大正デモクラシーを代表する2人とも愚民観がただよっていて、民衆には魅力に欠けた学説だった
このように美濃部と吉野の民主化論は国家重視で理想主義的であるゆえに、民衆や政党政治家など民主主義の主役たちに受け入れがたい側面があり、それが戦前日本の民主的政治運営に影を落としたといえる。
(美濃部達吉と吉野作造p92)

今回は大正デモクラシーと民本主義についてやりました。

次回は女性解放のあゆみを扱います。

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