内村鑑三と二つのJ

内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)|高校倫理3章4節③

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)
を扱っていきます。
前回は自由論と中江兆民(なかえちょうみん)をやりました。
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
>>②自由論と中江兆民(なかえちょうみん)
鎖国していた日本。
そこから西洋の文化が輸入され、日本は「文明開化」をスローガンにかかげます。
江戸時代までは、神仏習合思想にもとづき、多くの天皇が出家し、また葬儀も仏式でおこなわれていました。
しかし、新政府の政策により神仏分離令がだされます。
神仏習合が否定。
日本に仏教が入ってきたとき、仏教と神道が対立してた。
けど、まずは聖徳太子がその融合をはかって、神仏習合思想ができていったね
>>聖徳太子と和の精神
新政府は神仏習合からおこなわれてきた慣行を廃止し、信教の自由を法的に保障しました。
そのかわり、天皇への崇拝を日本人がおさめるべき「国民道徳」と位置づけます。
1873(明治6)年にはキリシタン禁止令が解放。
その後、キリスト信徒になった一人が内村鑑三(1861-1930)です。
その頃に信仰(プロテスタンティズム)を受け入れた有名な人物に、新島襄(にいじまじょう)、植村正久(うえむらまさひさ)、新渡戸稲造(にとべいなぞうがいるよ。
新渡戸稲造といえば、旧五千円札
内村鑑三の思想から、どのように二つのJ(イエスキリストと日本)の融合がはかられたのかをみていきます。
日本でのキリスト教系割合は1%(平成23年文化庁グラフ)。
割合的には少ないんだけど、どのようにキリスト教は受け入れられたのかな
ブログ構成
  • 内村鑑三がキリスト信徒になった理由
  • 二つのJと述べた理由

参考文献 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」 内村鑑三著、鈴木範久訳

内村鑑三がキリスト信徒になった理由

内村鑑三は新渡戸稲造(1862-1933)とともに、札幌農学校に入学。
札幌農学校(北海道大学の前身)は、アメリカ人教師クラークの影響が強い学校です。
クラーク博士といえば、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」!が有名
開校したばかりの札幌農学校の一期生は、クリスチャンのクラーク博士の影響で、全員がキリスト教徒になっていました。
えっ、強制?!
内村鑑三と新渡戸稲造は二期生で当時16歳。
空気的に、一期生の先輩のいうことは拒否できなかった
上級生によるキリスト教勧誘によって、二期生全員が「イエスを信ずる者の契約」に署名させられました。
最後まで抵抗したのは内村鑑三だと本で述べられています。
ご覧のように、私のキリスト教への第一歩は、私の意志に反して強制されたものでした。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p31
内村鑑三の家は武士階級に属していて、「私はゆりかごのうちから、すでに生くるは戦うなり、戦うために生まれたのです。」(p18)と述べるほどに、彼は武士でした。
最初は形だけだったかもしれません。
しかし、本心からキリスト信徒になったことがわかる事件がおきます。
内村鑑三といえば、不敬事件が有名。
不敬事件(1891年)⇒内村鑑三が教育勅語への礼拝を十分にしなかったことを不敬とされ、第一高等中学校の教職を追われた事件
(内村には天皇制を否定する意図はなく、天皇を崇拝はしないが敬いはするという立場)
当初は強制からだったんだけど、信仰でもキリスト信徒になった。
その理由を本から見ていくよ

内村鑑三がキリシタンになってよかったこと。

  • すべての神に敬礼しなくてもよくなった
  • 食べられるものが増えた
  • 学友たちとの議論や交流が楽しかった
  • 「道徳的分裂」の調和をキリストにおいてのみ見いだした
  • カミの子の贖罪の恩恵による罪からの解放
  • キリスト教を日本に広めるという生きる目的ができた

八百万の神(やおよろずのかみ)

内村鑑三は生まれが神道だったので、八百万の神(やおよろずのかみ、多種多様な数多くの神々)がいると信じていました。
なので、神社を通るたびに心のなかで礼拝をしたり、豆や卵(各神様が断つものだと言われていた食品)などを自分で禁止していました。
これらの神々への敬礼を、イエスキリストだけにしぼることでだいぶ楽になったと述べています。
幼少時代、何かをしたりしなかったりすると罰(ばち)になる、とずっと気を使って生きてきたみたい
内村鑑三は縛られるものが減ったけど、逆に同級生の何人かは「安息日に勉強ができない」、という理由からキリスト教に実は反対してたということもあった

道徳的分裂

内村鑑三はいつも罪意識や、サタンに支配されていたと語ります。

カミは私たちの父であり、私たちがカミに対する以上に熱心にカミは私たちを愛すること、

‐私たちはただ心を開いて「押し寄せる」カミの真情を受け容れるだけでよいこと、

私たちのほんとうの過ちはカミ自身を除いてはだれも清められないのに、私たちはみずから清くなろうと努めていること、

真に自己を愛する人はまず自己を憎んで自己を他者に与えなくてはならないから、自己中心とはほんとうは自己を憎むこと、等々
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p212

キリスト教を学ぶにつれて、彼は「道徳的分裂」の調和をキリストにおいてのみ見いだすに至りました。
思想に集中すると自己中心的になりやすいんだけど、そうなると自己を憎むことにつながりやすいみたい。
それをなんとかするのに、カミを受け入れると良い、と実感したみたい
内村鑑三はキリスト教の本質を語ります。
カミの子の贖罪の恩恵による罪からの解放、キリスト教はこれ以上のものかもしれませんが、これ以下のものではありません。
これがキリスト教の本質であります。
– 真の人間はそれなしではやってゆけず、平安はそれなしには人に訪れません。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p279
内村鑑三は子どもの頃から罪の意識があって、それがカミによって解放された
キリスト教徒になることによって、心の平安を手に入れた。
理論ではなくその経験から、キリスト教は実生活において「役に立つ」ということを実感したと彼は述べます。
そして、その実感は目的意識につながりました。

目的意識

どの人の生涯にも前もって神意により定められた一種のモデルがある。

その人の成功は、自己をこのモデルに合わせること‐

大いなる望みを欠く人はそのままで終わりがちで、能力を最大に発揮して自分の仕事をなしとげられないままにこの世を去る。

‐人間の選択力(自由意志)は自己をこのモデルに合わせることにある。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p255

内村鑑三は布教を目的とすることで、自分自身における目的や使命感を持つにいたります。
彼はキリスト教が科学のように「本当に役に立つ」と信じていた。
野菜を育てる技術のように、実際に役立つことだから布教する意義があると説いていたよ
このように、内村鑑三はキリスト信徒になることによる恩恵を多く得ていました。
ただし、一般的にイメージするようなキリスト教の布教ではないことが「二つのJ」という表現から見えてきます。

内村鑑三が「二つのJ」と述べた理由

意外な一言。

まず率直に言わせてもらうならば、私はキリスト教国に何もかも取り込まれませんでした。

‐私は(三年半におよぶアメリカ滞在)終始異邦人にとどまり、一度として異邦人とは別のものになろうともしませんでした。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p270

内村鑑三は職業的な牧師を心の底から嫌っていました。

牧師さんを嫌ってきた!?

なので、彼はまず「二つのD」にはならないと決めました。

二つのD⇒神学博士(Doctor of Divinity)

そのかわりに、「二つのJ(JesusとJapan)」に献身することを誓います。

内村鑑三は「武士道の上に接ぎ木されたるキリスト教」と語り、武士道を土台にキリスト教を受け入れました。

新渡戸稲造も著書『武士道』の副題を「日本の魂」としたように、武士道を土台にキリスト教を受け入れたよ

伝道師のただのまねは偽善であり、まねからは少しもよいものが生じないと内村鑑三は本で述べています。

異国での教育は実は私たちをまちがった環境になれさせてしまい、そこからの脱却をすこぶる困難にするものです。

我が国の人たちのなかにも、そんな教育を受けている間に西洋風の生活と思想とを身につけ、異邦人として帰国して自分の以前の環境に戻るのがたいへん困難になっている人が多いのを私は知っています。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p266

あっ、「ガリバー旅行記」にそんな話があるよ!
ガリバーは世界各国を旅するんだけど、最後に人間を家畜のように扱う馬の国に行く。
馬の国は理性に満ちた理想郷で、そこで暮らしたガリバーはすっかり思想を馬と同じにするよ。
いわゆる、哲人政治のユートピアだね。
でも、帰国しなくちゃいけなくなった。
故郷の人間の国に帰ったガリバーは、自分の家族を家畜としか見れなくなる、という弊害があった
内村鑑三は「二つのJ」を基本にして、「真の知識」を現わそうとしました。
「生命の真の知識は、それを生きることによってはじめて現れます。」p275
内村鑑三著「代表的日本人」で、彼は日本陽明学の祖中江藤樹や、二宮尊徳などの生きざまを書いているよ。
キリスト教徒であっても、キリスト教を前面に押し出してはいなかった
まねではなく、日本とイエスキリストの融合「二つのJ」という独自の思想は、この文章からも見えてきます。
中国人と日本人とに、自分らの孔子の教えを守ることに専念させてみましょう。
そうすれば、この二つの国からヨーロッパやアメリカでは見られないようなりっぱなキリスト教国が造られるでしょう。
最もすぐれたキリスト教の改宗者は、仏教とか儒教の精髄を決して捨ててはいません。
私たちはキリスト教を、それが自分の理想とする人間になる助けとなるから喜んで受け入れます。
「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」p277
内村鑑三は日本思想とキリスト教思想を融合させようとしたんだね

内村鑑三のその後

「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」は、内村鑑三がいかにして回心したのかという現象が書かれた本です。

彼の他の行動を教科書から見ていきます。

  • 無教会主義を唱えた。
    教会や儀礼によらず、直接に聖書の言葉に向き合うべきと述べた。
  • 不敬事件(1891)
    日本政府は天皇への崇拝を日本人すべてが修めるべき「国民道徳」としたので、クリスチャンである内村は不敬を責められた。
  • 日露戦争(1904)で絶対平和という非戦論を展開した。
    「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である」と訴えた。

内村鑑三の思想から、キリスト教の受容を見てきました。

次回は教育勅語について取り扱います。

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