「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑨大正デモクラシーと民本主義
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
>>②自由論と中江兆民(なかえちょうみん)
>>③内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)
>>④教育勅語(きょういくちょくご)と「戦前」の日本
>>⑤徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム
>>⑥岡倉天心「茶の本」とナショナリズム
>>⑦幸徳秋水(こうとくしゅうすい)と社会主義
>>⑧夏目漱石と文明開化批判
- 大正デモクラシーが発生した理由
- 大正デモクラシーの現実
参考文献 「美濃部達吉と吉野作造」古川恵理子、「大正デモクラシー」成田龍一
大正デモクラシーが発生した理由
大正デモクラシーとは民主的であることです。
大戦(日露戦争)後を中心とする政治・経済的民主化を求める風潮のこと。
- デモース⇒民衆を意味
- クラテオ⇒支配を意味
・天皇⇒内閣⇒議会・政党⇒普通選挙からの政治的デモクラシー(狭義)⇒経済的デモクラシー(広義)
なぜ天皇機関説を説いたのか
美濃部達吉は法科出身です。
法科は、国家官僚を育成し、国家権力を高める法理論や政治理論をつくる役割をもっています。
帝大進学を約束された高等学校の進学率は1%にも満たないほどで、そこに進学した美濃部達吉は選び抜かれたエリート!
国のために、論理的に現体制の矛盾点を正す、という役割をになっていました。
矛盾点
- 天皇主権⇒顕教的(おおやけに言われている説)
- 天皇機関説⇒密教的(実際、天皇は政治を決めていない説)
なぜ実際は天皇が決めていないにもかかわらず、それが密教的(内緒)になっていたかと言えば、政府がそれを利用したからです。
それは指導者層たちが神格的な絶対者としての天皇の権威を利用して民衆を自在にコントロールし、国家の発展をはかろうとしたからである。
(美濃部達吉と吉野作造p30)
>>教育勅語とは
責任ばかりを押し付けられても、困っちゃうし、革命が起きてしまう
つまり、天皇機関説は、「統治権が天皇個人に属する万能の権限」とする天皇主権説を否定し、天皇を憲法や内閣に従う限定的な存在とする学説である。
(美濃部達吉と吉野作造p35)
吉野作造の民本主義
天皇機関説を受け入れていた吉野作造。
吉野作造は学説から政治論へと発展させ、民本主義を唱えました。
民本主義⇒主権者の天皇は、民衆の幸福のため、なおかつ民衆の意向に基づいて政治を行う必要がある。
民を本(もと)とするという意味で民本主義。
つまり、日本の立憲政治は西欧の「デモクラシー」を起源にしたものだから、日本も西欧と同様に「デモクラシー」的な政治が必然なのである。
(美濃部達吉と吉野作造p52)
世界の文明国はほとんどみんな普通選挙制だ、という世界的状況から、民本主義を説明づけました。
民本主義の内容
大正デモクラシーに代表されるのが美濃部達吉と吉野作造ですが、二人とも「天賦人権論」とは違う視点を持っていました。
天賦人権論⇒もともと人は平等な権利を持っていること。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」に代表される理論
二人ともエリート主義や国家主義的な側面がありました。
吉野は、政策立案や法律の制定など高度な能力が必要な政治運営に民衆が直接的に携わるのは困難なので「少数の賢者」たる職業政治家が行うべきと主張した。
(美濃部達吉と吉野作造p55)
民衆を少数の賢者が指導することをよしとしました。
民本主義であるとともに、貴族主義であることが必要、というのが吉野の主張です。
吉野作造が根拠をもった西欧のモンテスキューやJ.Sミルなども、民主化によるエリート主義を説いていました。
つまり、民本主義を説いた最大の理由は、国際間の競争において、日本国家の生き残りをはかることだったのです。
衆愚政治⇒失敗した民主政をやゆして用いられた蔑称
大正デモクラシーの現実
大正デモクラシーが民衆に支持されていれば、もしかしたら日本は戦争への道を歩まなかったかもしれない、と言う説があります。
現実の大正デモクラシーを見ていきます。
超然主義と大正政変
政府は当初、超然主義(ちょうぜんしゅぎ)をとっていました。
みんなが協力したから戦力が高かった。
米騒動
1918年、日本はロシア革命に干渉するために、シベリアに軍隊を送りました。(シベリア出兵)
シベリア出兵時に兵士に持たせる米を政府は買い占めました。
買い占めによって米価が急上昇。
米騒動が起こります。
暴動は全国各地に広まり、これによって当時の寺内正毅(まさたけ)内閣は総辞職。
大正政変に続き、民衆が政権を倒しました。
その後も超然内閣はつぶされたり、普通選挙法(1925年、満25歳以上の男子に選挙権)も成立していきます。
こうしたテロが相次ぐことが、言論に変わる直接行動の出現を意味し、デモクラシー終焉を印象づける。
「大正デモクラシー」p241
大正デモクラシー期(1905-32)の最後
吉野作造は1933年に死を迎えます。
続いて、美濃部達吉は1935年には天皇機関説事件によって、公的に学説を否定されてしまいました。
1935年、天皇機関説という大日本帝国憲法の解釈が不敬であるとして攻撃された事件
学説的には支持されていた天皇機関説ですが、政治的な権力には勝てなかったのです。
美濃部達吉は教科書作成にたずさわることができず、民衆は天皇機関説が論理では有利なことを知らないままになっていきます。
つまり、民衆層と軍部では天皇機関説が異端的学説とされてしまいました。
民本主義とは
美濃部と吉野は、政党や軍部、さらにはその背景にいる民衆に対して、批判と苦言を呈しました。
「大衆はすべての人と同じであることに喜びを感じる」というような衆愚政治批判
このように美濃部と吉野の民主化論は国家重視で理想主義的であるゆえに、民衆や政党政治家など民主主義の主役たちに受け入れがたい側面があり、それが戦前日本の民主的政治運営に影を落としたといえる。
(美濃部達吉と吉野作造p92)
今回は大正デモクラシーと民本主義についてやりました。
次回は女性解放のあゆみを扱います。