新実在論

マルクス・ガブリエル「新実在論」とは-「道徳哲学」から。

新実在論とはなにか。

 

おはようございます。けうです。

 

昨日は新実存主義を扱ってきましたが、マルクス・ガブリエル「道徳哲学」では新実在論も語っています。

実存というのは能動的、主体的な自分がいるという考え方。

実在というのは、存在しているという考え方。

 

昨日は新実存主義について語りましたが、今日は新実在論について語ろうと思います。

マルクス・ガブリエル‐新実在論とは

新実在論の論点としては、個人のイメージ、想像は存在する。
でも、世界は存在しないというもの。
昨日世界を大きな枠組みだと捉えるといいました。
それがどういうことなのかを見ていきます。

 

新実在論について、画期的なのかユニコーンは存在するとか、マリオブラザーズは存在するとか、そういった一見すると個人の想像力の産物のようなものが存在するということです。

イメージがここに存在します。

 

もっと詳しく見ていきます。

 

目に水がはいって、目がにじみました。

そして、目の前の電灯が二重に見えたとします。

では、電灯は1本だったのでしょうか、2本だったのでしょうか。

 

この場合、多くの人は1本だと答えるかもしれません。

でも、目がにじんでいる私にとっては2本に見えますよね。

だから、私にとっての正解は2本です。

どうやっても1本が正解とは導いていけない、というのが新実在論の考え方です。

 

では、みんなはどうして1本が正しいと思うのか、ですよね。

それはもしかしたら、みんなが当たり前だと思うかもしれません。
だって、目がにじんでいなければそう見えているから。

でも、私は目がにじんでいて、その状況下では2本が正しいとなります。

 

ここが「世界は存在しない」になります。

大きな常識といわれるようなものが存在しなくなる。

囚われているとか、従わされている大きな枠組みがなくなります。

なので、電灯は確実に1本だということはできなくなってしまうんです。

だって、電灯が1本だということは、私たちが何かしらの常識に従っているからです。

いつもは1本に見えるとか、常識だと1本だろうということを疑います。

世界は存在しない、という考え方。

さらに、私たちが枠組みの中にいるだろうことを疑っていきます。

例えば、時間の考え方です。

物理学的に言えば、時間の流れが過去現在未来といように連続的に流れていくというのを否定されています。

時間がそのように流れていることは、人間の意識下の中で起きていることになります。

そうなると、この時間で捉えられる常識というものはなくなりますよね。

当たり前に時間が流れているという大きな枠組みは取り払われます。

因果関係とは

因果関係で見ていきます。

私たちは何度になれば氷になる。
というのを科学から知っています。

でも、それは科学を頼りに因果関係を結び付けていると言うこと。

実は現実では何度になっても水が凍らない事態が起きるかもしれません。

でも、それも因果関係的には正解なんですよね。

私たちはもっともらしいことを因果関係として結び付けていますが、もともと因果関係というのは何をしたから何になった、ということを説明するもの。

例えば、100回までプロポーズで振られたとします。

この時点では、告白をすると失敗するという因果関係が成立します。

ただ101回目で成功しました。

すると、告白をすると成功をするという因果関係も成り立つということ。

 

私たちは常識で捉えるんですけど、その常識という大きな枠組みを新実在論では疑います。

この因果関係の法則を私はショーペンハウアーで学びました。

「道徳哲学」の中でマルクス・ガブリエルが最初に学んだのがショーペンハウアーというのは私と同じだったので、そこは驚きでした。

哲学に関して、マルクス・ガブリエルは多々ショーペンハウアーを否定しますけど、受け入れている部分も多いと言うこと。

だから、物事を身近に考えたり、自分の根本にして考えたりしているのかなと思いました。

新実在論と哲学

マルクス・ガブリエルは今の時点で自分が思っている正解をなんども捉えなおすと言います。

哲学は今のところ答えがでていなくて、そして、なぜ答えがでていないかというと、答えが変化しているからです。

 

どうしても、この体をもった人間としての私が捉えられることに関して、その時点での制約があります。

それが構造主義的でもあるんですけど、大きな枠組みはなくても私たちはその枠組みを勝手につくっています。

そして、もしかするとその枠組みなしではいろいろなものを言うことができないかもしれないんです。

だから、構造主義が主流ではあります。

 

目の前に見えているのが電灯だ。

この電灯ということすら疑えてしまうかもしれません。

もっとも、今考えている私というものも疑えますよね。

何かが存在すると考えている時点で、大きな枠組みが存在してしまうからです。

それでも、ここではない物と捉えても、私がそのように認識した何かはあるんですよ。

大きな枠組みという世界はないけれど、目の前に見えている日本の電灯は存在しているというように言うことができます。

本当は涙でにじんで1つが「正解」かもしれない電灯がある何かがあるんですよね。

 

では、どうやったら枠組みを取り払えるのか。

ここで、哲学的に捉えるとするならば、哲学は真理を用意できていません。

でも、考える過程などは用意されているし、その過程は哲学といえます。

だから、何かを捉えたとして、それは私だけが捉えているのか、本当なのかと判断しているときに事実は確定していなくて、考えている過程が存在しています。

だから、マルクス・ガブリエルさんの考え方、新実在論とか新実存主義だとかは哲学的要素が強いなと感じています。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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