サルトルの実存主義の引き受け

サルトルの実存主義の引き受けとは|高校倫理1章4節12

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
12.サルトルの実存主義の引き受けとは
を扱っていきます
高校倫理第4節の8から実存哲学を追ってきました。
倫理の教科書の紹介では、キルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、続いてサルトルです。
ハイデガーは実存主義ではないんだけど、サルトルの実存主義に影響を与えている
サルトルの小説「嘔吐」は、現象学やハイデガーの影響を受けています。
まずは倫理の教科書の流れを元にサルトルの哲学内容を解説し、それから「嘔吐」とその内容とを結び付けていきます。
ブログ内容
  • サルトルの実存主義の引き受けとは
  • サルトルと「嘔吐」
参考文献:100分で名著「実存主義とは何か‐希望と自由の哲学 サルトル」海老坂武、「嘔吐」サルトル著 白井浩司訳、「哲学用語図鑑」(田中正人、斎藤哲也)

サルトルの実存主義の引き受けとは

サルトル(1905-1980)は日本でも一世を風靡した人物。

サルトルの著書全般は日本でも300万部を売り上げるベストセラーになるほど人気だったそうです。

彼の葬儀にはパリで5万人もの人々が集まりました。

哲学者でこんな人気者って珍しいよね
当時、第二次世界大戦(1939-1945)が終わり、サルトルの哲学は戦後の空気とマッチしました。
流行にのった思想といえますが、これほどの熱狂をなぜひきおこしたのか。
またこの思想を流行として捉えていいのか。
このような問いからサルトルの哲学を見ていきます。

実存主義者

「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」
(実存主義とは何かp13、サルトル『大戦の終末』からの抜粋)
この文章は、サルトルが原爆について書いたものです。
科学技術が発展し、人々はその技術によって世界を終わらせることもできるようになってしまいました。
生命を存続させようという決意が人間にあるから存続している、という時代になったのです。
そして、そんな時代。
無為徒食(他人の役に立つような仕事もせず、飯を食うばかりであること)で、戦後の混乱期に遊んでばかりいる退廃的な若者たちが実存主義と呼ばれ、サルトルが彼らと結びつけられました。
あれ?実存主義ってキルケゴールからで「実存⇒かけがえのない独自な個人のあり方」の意味だったよね。
世間ではそんな風に扱われていたんだね
サルトルはノマド(遊牧民)的な生活をしていて、未婚状態で女性と一緒にホテル暮らしをしていました。
当時のモラルではそれが疑わしいとされ、当時の若者たちのうさんくささと通じるところがあったとされたのです。
サルトルは当初、自分の哲学と実存主義と呼ばれる若者の行動を結び付けられるのを嫌っていました。
しかし、「実存主義はヒューマニズムである」の講演以後、サルトルは実存主義を引き受けます。
いわば悪口とされていた実存主義を引き受ける、というサルトルの決意があった
この講演で、サルトルは実存主義を2つの定式として表しました。
実存主義の2定式
  1. 「実存は本質に先立つ」
  2. 「人間は自由の刑に処せられている」

「実存は本質に先立つ」

「実存は本質に先立つ」という言葉は、まずは道具を例にするとわかりやすくなります。

道具はどのように作られるでしょうか?

切るものが欲しい、と人が思うことでハサミができました。

ハサミは切るという目的(本質)が先につくられたのです。

ハサミは本質(存在理由、目的)が先で、存在は後。

ハサミ:本質⇒存在(本質は存在に先立つ)
こんな道具があったら良い、という願望から商品(道具)が開発されるよね
道具に対して、「実存は本質に先立つ」とは。

サルトルの実存とは人間の存在という意味

人間は気が付いたらここにいる存在(実存)です。

神さまがいた時代は神が目的(存在理由)をもって人をつくったとされていたけれど、ニーチェ哲学は「神は死んだ」と時代を定義した

つまり、人間はなんの目的も存在理由も道具的な意味ももたずに、いきなりそこにただいる(うまれる)のです。

人間:実存(存在)⇒本質(実存は本質に先立つ)

(赤ちゃんは役割を持たずに生まれてくる)

この講演の前、サルトルは実存主義というレッテルを否定していました。

しかし、それをひきうけて実存主義者と名乗るようになったのです。

実存(何ものでもないサルトル)⇒本質(実存主義と名乗る)
ひきうけることでちまたで言われていた実存主義を、キルケゴール哲学から連なる実存哲学へと結びつけようとしたのかもしれません。
サルトルはジュネ(子どもの頃に「お前は泥棒だ」と言われた言葉をひきうけて「俺は泥棒になる」と決意した天才詩人)の決意に感動した
人間はその本質を自分自身でつくる、というのがサルトルの人間観です。
そして、自分自身をつくるというのは、未来に向かってみずからを投げ出すことでもあります。
それをサルトルは投企と呼びました。
投企⇒みずからを未来の可能性に向って投げかけること
ハイデガーは「生きるとともに生きてしまっている(エネルゲイア)」という人間(現存在)観があったけど、原発を見たサルトルは「生きようとしなければ生きられない」という人間観だった

「人間は自由の刑に処せられている」

「実存は本質に先立つ」という人間の在りかたから、「人間は自由の刑に処せられている」とサルトルは考えました。
物には決められた存在理由(ハサミなら切るなど)があるので、自由ではありません。
形が誰かによって決められているからです。
それに対し、人間は自由に自分で存在理由をつくろうとすることができます。
「人間はあるところ(過去から今まで)のものでなく、あらぬところ(未来)のもの」
自由に存在理由をつくれる無限の可能性がある、というとポジティブに感じられるかもしれません。
しかし、ここにネガティブな面が潜んでいます。
「私は〇〇である」
〇〇には先生とか母とか子どもとか店員だとかなんでも入りますが、人間はそのように自分を固定化(道具化)出来ない、ということ。
私は道具の私であるほうが安心するのです。
僕は元気です!
自己紹介をしてって言われて、役割とか役職(道具的)とかではない自分を説明すると不安になる…
なぜ不安になるのでしょうか。
この不安を生みだすのは他人だとサルトルは述べます。

「地獄とは他人のことだ」

「地獄とは他人のことだ」の例

例えば、あなたは鍵穴からこっそり子どもを覗いていました。
覗いている間、あなたは鍵穴から見える子どものことだけに集中しています。
と、ふいに視線を感じて振り返る。
すると、あなたはある人に見られていることに気がつきます。
自分はもしかしたら不審者に見られているのかもしれない。
この人は私をどのように見ているだろう…。
もしここで道具的な自分を説明したとします。
「私はこの子の親です」と。
すると、怪しさはなくなるのですが、他人とのコミュニケーションにおいて道具的な自分になっているのです。
私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。
ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる
そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。
しかし他人がいるかぎり、そして他者が自由であるならば、私がこうした他有化をこうむるのは当然のことです。
そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている
(実存主義とは何かp73)
(他有化⇒自分がつくり出した物に逆に支配される、自分がつくった物の中に自分がみとめられない)
例えば、先ほど出てきた詩人ジェネも、他人の「泥棒だ!」という視線(地獄)にさらされて育ちました。
あなたは女だ、親だ、先生だ、店員だ、などといった他人からの視線は、それを引き受ける以外にはないのです。
他人にはそう見えてしまっているから、その人とコミュニケーションをとるならいったんは引き受けるしかない
例えば、サルトルの恋人だったボーヴォワールは「人は女に生まれない、女になるのだ」とサルトルの思想を共有した形で述べていた。
(男性優位の社会が女性に対して特定の生き方をおしつけていることを批判した)
それでも、相手の言う「泥棒」と、自分がなろうとする「泥棒」にはズレがあります。
ジュネは「泥棒」を引き受けたのですが、その自己とのズレの中で「泥棒」から「詩人」になりました。
サルトルはそのズレのうちに人間の自由を見たのです。
「どんな悪の中にあっても意識はよいものだという信頼を捨てないジュネ」に対して、サルトルは共感を持っていました。
サルトルも「実存主義」を引き受けてそのズレに自由を感じていた
サルトルと言えば、「実存は本質に先立つ」、「自由の刑」と続いて有名なのがアンガージュマンです。

アンガージュマン

サルトルは積極的に社会に参加し、みずからの手でそれらを実現しようと訴えました。

社会に参加することは社会に拘束されることですが、その社会を変えるのも自分たちだとサルトルは考えたのです。

社会参加のことをサルトルはアンガージュマンと言いました。

アンガージュマン⇒「自分を拘束すること、自分を巻き込むこと、自分を参加させること」

サルトルは作家で、何をしても作家は時代の中に巻き込まれている(アンガジェされている)と考えました。

……
無言だって意志表明になるとサルトルは考えた
サルトルは逃れるすべがない以上、時代にたいして責任を引き受けよう、と考えたのです。
彼は実際に多くの運動に参加し、ノーベル賞を辞退するなどもしました。
人間とは投企である、未来に向かって自分を投げ出す存在である、その行動の中に希望があるのだ、と。
(実存主義とは何かp104)
実存哲学の祖キルケゴールは「絶望には可能性(希望)を持ってこい、可能性こそが唯一の救いだ」と述べていた
実存哲学には希望や可能性も重要な観点です。

サルトルと「嘔吐」

サルトルの「嘔吐」はハイデガーや現象学の影響を受けています。

少し本を紹介。

「嘔吐」

主人公ロカンタンはある日から「吐き気」に襲われるようになりました。

「吐き気」とは単なる生理的な反応ではなく、実存を前にしたときの意識の反応。

例えば、私たちは「木の根」だと思って「木の根」をみるからそう見えるのであって、実存としてはそれは「木の根」ではないのです。

「そのうるしが溶けて怪物染みた、軟らかくて無秩序の塊が‐怖ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った」(木の根の説明、嘔吐p209)

というように、何かがわからないものが実存です。

ロカンタンは私自身こそが「吐き気」なのだと理解しました。

つまり、実存は「吐き気」のような偶然の産物であり、不条理であり、根拠がないもの。

ロカンタンは音楽を聴いているときだけは「吐き気」がおさまるのを感じました。

秩序だったもの、必然的なもの、実存ではないものに安心感を覚えたのです。

物語の最後でロカンタンは本を書くことを決意します。

一つの必然的な秩序を持ったもの、安心感を与えてもらったもの、そのような芸術作品をつくり出すことで、新たな自分をつくりだそうと決意したのです。

現象学的に見れば、存在=超越(自分を越えているもの)です。

しかし、主人公はそこに「吐き気」を覚えました。

無秩序な世界にいるのは「吐き気」なのです。

この主人公を人間一般として現象学的に考えてみます。

すると、超越論的な見方しかできない人間は、自分をみるときもそのよう(自分というのは実存であり、「吐き気」)にしか見れない。

けれど、他者とコミュニケーションをとるときにだけ、何かになろうとふるまう。

そのふるまいは道具化でもあるけれど、それになろうとする人間のふるまいは自由だと考えられる。(ズレに自由がある)

サルトルの「嘔吐」は、自分の投企によりふるまう人間の在り方を問う実存(人間)哲学、と一つに考えられるのです。

サルトルは「人間とは何か」を問うことが哲学だと考えていた
ハイデガーの影響も見えるし、14世紀のルネサンス期に「人間は自由意志によって何にでもなれる存在」という人間観が発見されたことも思い出す

「嘔吐」と思考

実存主義の走りといえば、パスカルの「考える葦」モラリスト

「嘔吐」には人間の実存についての独白もでてきます。

簡単にまとめます。

思考、それは最もつまらないものだ。

肉体よりもさらにもっとつまらないもの。

私の思考は絶対におしまいにならない。

例えば、苦痛を伴う熟考である〈私は実存している〉というやつを維持しているのはこの私だ。

思考は、この〈私〉が続け、展開しているのだ。

私が実存するのは、私が考えるからだ…そして、私は考えずにはいられない。

私の考え、それは〈私〉である。

だから私にはやめることができない。

私が実存するのは、私が考えるからだ…そして、私は考えずにはいられない。

思考はみるみる肥りだす。

私は思考を余儀なくされる。

故に、何かであることを余儀なくされる。

私が実存について思考したと信じたとき、じつはなにも考えていなかったのであり、頭は空っぽであったか、あるいはひとつの言葉、すなわち〈在る〉という一語がかろうじてあったと信じるべきである。

私は木の根の実存を考えることが不可能になった。

実存とは記憶のないもの、行方不明者であり、なにひとつ‐思い出さえも止めておかない。

〈それらは実存したいという欲望を持っていなかった〉。

ただ実存するのをやめることができなかった、というだけである。

パスカルの定義「人間とは考える葦」である、とかデカルトの「我思うゆえに我あり」を思い出させる独白が展開されていました。

サルトルは「人間」を考えました。

人間とは欲求を持ち、思考し、実存ではないものになろうとするもの。

そういうものとして、サルトルは人間を基盤に考えていたことがうかがえます。

人は存在する。
でも、人間は考えるから存在する。
考えていない人は実存(捉えようのないもの)になるのかな

すべては偶然

「嘔吐」は、すべては偶然でしかない、ということが強調されます。

肝要なこと、それは偶然性である。

定義を下せば、実存とは必然ではないという意味である。

実存するとは、ただ単に〈そこに在る〉ということである。

実存するものは出現し、偶然の〈出会〉に任せるが、実存するものを〈演繹する〉ことはできない。
(嘔吐p215)

実存はすべて偶然性でしかない。

しかし、サルトルは必然性であると感じたい…という動機に芸術創造の動機を見ました。

  • 独学者「人生は、それに意義を与えようとすれば意義があるのだ。まず行動し、企ての中に飛び込まねばならない」
  • アニー「だれかを愛しはじめるっていうのはひとつの企てよ。活力や、寛容や、分別をなくすことが必要なの…。
    はじめのころには断崖から飛び下りねばならないときさえあってよ」
  • アニー「たとえばあたしが行動しているときでさえ、自分のしていることには…宿命的な続きがあると考える必要があったかもしれないのよ」
  • アニーが言う特権的状態(自分が完璧だと思う状態)は、一種の芸術作品だった

(独学者はロカンタンが会話をしていた人間主義者で、いつも図書館で本を読んでいた人物。
アニーはロカンタンの元恋人)

偶然だとわかっていても、人間は必然性にロマンティックなものを見るのです。

サルトルはボーヴォワールへの告白で「僕たちの恋は必然的なものだ。でも偶然的な恋も知る必要があるさ」と述べた

実存は偶然性。

なので、投企(未来の可能性に向って投げかけること)には必然性へのあこがれが見て取れるのです。

倫理の教科書第4節では「社会と個人」を扱ってきました。

次回からは第5節「人間への新たな問い」に移ります。

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