「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
12.サルトルの実存主義の引き受けとは
- サルトルの実存主義の引き受けとは
- サルトルと「嘔吐」
サルトルの実存主義の引き受けとは
サルトル(1905-1980)は日本でも一世を風靡した人物。
サルトルの著書全般は日本でも300万部を売り上げるベストセラーになるほど人気だったそうです。
彼の葬儀にはパリで5万人もの人々が集まりました。
実存主義者
「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」
(実存主義とは何かp13、サルトル『大戦の終末』からの抜粋)
世間ではそんな風に扱われていたんだね
- 「実存は本質に先立つ」
- 「人間は自由の刑に処せられている」
「実存は本質に先立つ」
「実存は本質に先立つ」という言葉は、まずは道具を例にするとわかりやすくなります。
道具はどのように作られるでしょうか?
切るものが欲しい、と人が思うことでハサミができました。
ハサミは切るという目的(本質)が先につくられたのです。
ハサミは本質(存在理由、目的)が先で、存在は後。
サルトルの実存とは人間の存在という意味。
人間は気が付いたらここにいる存在(実存)です。
つまり、人間はなんの目的も存在理由も道具的な意味ももたずに、いきなりそこにただいる(うまれる)のです。
(赤ちゃんは役割を持たずに生まれてくる)
この講演の前、サルトルは実存主義というレッテルを否定していました。
しかし、それをひきうけて実存主義者と名乗るようになったのです。
違いとして、投企は自らそうしようとする意志が感じられる
「人間は自由の刑に処せられている」
「地獄とは他人のことだ」
「地獄とは他人のことだ」の例
私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他者が自由であるならば、私がこうした他有化をこうむるのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。
(実存主義とは何かp73)
(男性優位の社会が女性に対して特定の生き方をおしつけていることを批判した)
アンガージュマン
サルトルは積極的に社会に参加し、みずからの手でそれらを実現しようと訴えました。
社会に参加することは社会に拘束されることですが、その社会を変えるのも自分たちだとサルトルは考えたのです。
社会参加のことをサルトルはアンガージュマンと言いました。
サルトルは作家で、何をしても作家は時代の中に巻き込まれている(アンガジェされている)と考えました。
人間とは投企である、未来に向かって自分を投げ出す存在である、その行動の中に希望があるのだ、と。
(実存主義とは何かp104)
サルトルと「嘔吐」
サルトルの「嘔吐」はハイデガーや現象学の影響を受けています。
少し本を紹介。
「嘔吐」
主人公ロカンタンはある日から「吐き気」に襲われるようになりました。
「吐き気」とは単なる生理的な反応ではなく、実存を前にしたときの意識の反応。
例えば、私たちは「木の根」だと思って「木の根」をみるからそう見えるのであって、実存としてはそれは「木の根」ではないのです。
「そのうるしが溶けて怪物染みた、軟らかくて無秩序の塊が‐怖ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った」(木の根の説明、嘔吐p209)
というように、何かがわからないものが実存です。
ロカンタンは私自身こそが「吐き気」なのだと理解しました。
つまり、実存は「吐き気」のような偶然の産物であり、不条理であり、根拠がないもの。
ロカンタンは音楽を聴いているときだけは「吐き気」がおさまるのを感じました。
秩序だったもの、必然的なもの、実存ではないものに安心感を覚えたのです。
物語の最後でロカンタンは本を書くことを決意します。
一つの必然的な秩序を持ったもの、安心感を与えてもらったもの、そのような芸術作品をつくり出すことで、新たな自分をつくりだそうと決意したのです。
現象学的に見れば、存在=超越(自分を越えているもの)です。
しかし、主人公はそこに「吐き気」を覚えました。
無秩序な世界にいるのは「吐き気」なのです。
この主人公を人間一般として現象学的に考えてみます。
すると、超越論的な見方しかできない人間は、自分をみるときもそのよう(自分というのは実存であり、「吐き気」)にしか見れない。
けれど、他者とコミュニケーションをとるときにだけ、何かになろうとふるまう。
そのふるまいは道具化でもあるけれど、それになろうとする人間のふるまいは自由だと考えられる。(ズレに自由がある)
サルトルの「嘔吐」は、自分の投企によりふるまう人間の在り方を問う実存(人間)哲学、と一つに考えられるのです。
「嘔吐」と思考
実存主義の走りといえば、パスカルの「考える葦」やモラリスト。
「嘔吐」には人間の実存についての独白もでてきます。
簡単にまとめます。
思考、それは最もつまらないものだ。
肉体よりもさらにもっとつまらないもの。
私の思考は絶対におしまいにならない。
例えば、苦痛を伴う熟考である〈私は実存している〉というやつを維持しているのはこの私だ。
思考は、この〈私〉が続け、展開しているのだ。
私が実存するのは、私が考えるからだ…そして、私は考えずにはいられない。
私の考え、それは〈私〉である。
だから私にはやめることができない。
私が実存するのは、私が考えるからだ…そして、私は考えずにはいられない。
思考はみるみる肥りだす。
私は思考を余儀なくされる。
故に、何かであることを余儀なくされる。
‐
私が実存について思考したと信じたとき、じつはなにも考えていなかったのであり、頭は空っぽであったか、あるいはひとつの言葉、すなわち〈在る〉という一語がかろうじてあったと信じるべきである。
私は木の根の実存を考えることが不可能になった。
実存とは記憶のないもの、行方不明者であり、なにひとつ‐思い出さえも止めておかない。
〈それらは実存したいという欲望を持っていなかった〉。
ただ実存するのをやめることができなかった、というだけである。
パスカルの定義「人間とは考える葦」である、とかデカルトの「我思うゆえに我あり」を思い出させる独白が展開されていました。
サルトルは「人間」を考えました。
人間とは欲求を持ち、思考し、実存ではないものになろうとするもの。
そういうものとして、サルトルは人間を基盤に考えていたことがうかがえます。
でも、人間は考えるから存在する。
考えていない人は実存(捉えようのないもの)になるのかな
すべては偶然
「嘔吐」は、すべては偶然でしかない、ということが強調されます。
肝要なこと、それは偶然性である。
定義を下せば、実存とは必然ではないという意味である。
実存するとは、ただ単に〈そこに在る〉ということである。
実存するものは出現し、偶然の〈出会〉に任せるが、実存するものを〈演繹する〉ことはできない。
(嘔吐p215)
実存はすべて偶然性でしかない。
しかし、サルトルは必然性であると感じたい…という動機に芸術創造の動機を見ました。
- 独学者「人生は、それに意義を与えようとすれば意義があるのだ。まず行動し、企ての中に飛び込まねばならない」
- アニー「だれかを愛しはじめるっていうのはひとつの企てよ。活力や、寛容や、分別をなくすことが必要なの…。
はじめのころには断崖から飛び下りねばならないときさえあってよ」 - アニー「たとえばあたしが行動しているときでさえ、自分のしていることには…宿命的な続きがあると考える必要があったかもしれないのよ」
- アニーが言う特権的状態(自分が完璧だと思う状態)は、一種の芸術作品だった
(独学者はロカンタンが会話をしていた人間主義者で、いつも図書館で本を読んでいた人物。
アニーはロカンタンの元恋人)
偶然だとわかっていても、人間は必然性にロマンティックなものを見るのです。
実存は偶然性。
なので、投企(未来の可能性に向って投げかけること)には必然性へのあこがれが見て取れるのです。
倫理の教科書第4節では「社会と個人」を扱ってきました。
次回からは第5節「人間への新たな問い」に移ります。