中江藤樹

中江藤樹と日本陽明学|高校倫理第3章3節近世日本の思想②

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
中江藤樹日本陽明学
を扱っていきます。
前回は「林羅山と徳川幕府」をやりました。
>>林羅山と江戸幕府
江戸幕府を開いた徳川家康が世の中を安定させるために儒学を政治に取り入れます。
そこで活躍したのが林羅山。
林羅山は朱子学(儒学の一つ)を広めていきました。
しかし、幕府の政治でいいように使われていた朱子学に対して、他の儒学者たちから批判がでてきます。
仏教でも多くの宗派に広がっていったように、儒学でもまた多くの学派に広がっていったのです。
儒学という思想的営為の窮極の目的とするところのものが「世の中全体の調和と充実」の実現にある、ということであり、もう一つには、その目的を達成するには「人が天地と一体化すること」が絶対的な条件とされる
「伊藤仁斎の思想世界」p9
つまり、大雑把に言えば儒学の目的は「世の中の平和」。
仏教は「悟り」が目的とあるように、儒学は「世の中の平和」を目的にしてるんだね
目的は同じにしつつも、そこにいたるには多くの学派に分かれたのです。
今回は日本陽明学思想と呼ばれる中江藤樹を中心に見ていきます。
ブログ構成
  • 中江藤樹の生き方
  • 中江藤樹と日本陽明学

参考文献 代表的日本人(内村鑑三著、鈴木範久訳)伊藤仁斎の思想世界(山本正身)

中江藤樹の生き方

倫理の教科書には、生き方が「すごい」人がたびたび登場します。

その一人が中江藤樹(1608-1648)。

中江藤樹は朱子学から出発したのち、陽明学も取り入れて、自ら学校を築いて思想を人々に教えました。

参考文献の著者内村鑑三は中江藤樹を「理想的な学校教師として尊敬している」といってる
主に道徳、それも実践道徳を教えてくれた先生

中江藤樹の時代

中江藤樹が生まれたころは、江戸幕府(1603年)が開かれた時代。

世の中は荒れていて、学問や思想を求めることは、なんの価値もないと思われていた時代です。

今は学歴社会でもあるけど、この頃は学問をしてることでバカにされてた
中江藤樹は学問が好きでした。
なので、みんなにばれないようにこっそりと夜に儒学を勉強していたのです。
昼間は武士の子として、みんなと同じように武芸に励んでいたといわれているよ
勉強中、孔子の『大学』を読んだときに感銘をうけます。
「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」
(代表的日本人p116)
儒学の教えから、中江藤樹は生活を正していこうと決めました。

中江藤樹と母

孔子の教えでは孝(両親や祖先への敬愛)を大事にしています。

中江藤樹には母が一人いました。

あるとき、藩主に中江藤樹だけが呼ばれる、という事態がおこります。

母を置いて立身出世に身を投じるのか、それとも、それをあきらめて年老いた母とともに暮らすのかという選択を迫られたのです。

中江藤樹は出世を捨てて、生涯を母にささげることにしました。

聖人となること、完全な人となることは、藤樹の目には、学者、思想家であるよりも偉大なことでした。
「代表的日本人」p121

仏教だと出家のために家族と縁を切るけど、儒学は孝を大切にするんだね。
中江藤樹は仏教が好きになれなかったみたい
この選択は母を想うのはもちろんなんだけど、孝を大事にしないと聖人になれないと思った。
例えば、孟子はみんなに仁の芽ばえ(端)があって、それを伸ばしていくと仁になるとしていたから、孝ができなければ端を広げることができない、という理論になる。
>>性善説とは
本来の儒学で説かれていた孝は両親や祖先への敬愛ですが、中江藤樹はそこから人を愛し敬う根本原理(全孝)を説きました。
つまり、時・処(場所)・位(身分)を考慮して、みずからの心にもとづいて実践することに道徳の実現を求めたのです。
ただのマザコンではないってことだね。
母への愛は応用を効かせることで、聖人への道になる

学校を開く

中江藤樹は母とひっそりと暮らしていました。

28歳になったとき、行商をやめて村に学校を開きます。

田舎に住み一生を安泰にくらす、という中江藤樹はなぜ有名になったのでしょうか?

今だと田舎の私塾なんて普通なのに…
そういえば、林羅山も儒学の学校を開こうとしていた!
儒学の学校というだけで、注目は浴びるよね
>>林羅山と江戸幕府

江戸幕府が開かれたころというのは、儒学が広まり始めた時代。

まだ儒学の普及は低く、しかも、幕府に登用されていた朱子学は身分秩序を大事にしていました。

そして、勉強というのも身分の高い人だけがやればよいものとされていたのです。

農民から武士まで、いくらがんばって学んだとしても身分階級は変わらない世の中
しかし、中江藤樹は身分をこえて平等に教えました。
「将来のために勉強」じゃなくて、「(心の)聖人になるために勉強」を教えた
なので、逆説にも聞こえますが、中江藤樹は弟子の徳と人格をとても重視して、学問と知識とを軽んじたそうです。
”学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。
学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。
しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。
学識があるだけではただの人である。
無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。
学識はないが学者である。
「代表的日本人」p123
つまり、教師なのに勉強よりも行動(実践道徳)を重視した”変わった”学校の教師です。
中江藤樹は先生としての役割の他に、役人に苦しめられていた村人を助けたり、「人の道」を説いたりしていたので、自然に「近江聖人」と呼ばれるようになりました。
このような田舎生活をおくる中江藤樹の元にある日、一人の男が現れます。

中江藤樹と熊沢蕃山

熊沢蕃山(くまざわばんざん 1619-1691)は聖人に出会うための旅をしていました。

ある日、立ち寄った宿で旅人のこんな話をききます。

主君の命令で、数百両のお金を託されて帰宅途中。

道中で馬に乗るときに、そのお金を馬の鞍に結び付けておきました。

そして、それを忘れたまま、馬を返してしまったのです。

大変な忘れ物をしたことを、宿について思い出しました。

「これは切腹しかない」

家老や親族に、最後を迎える決意を手紙にしたためました。

そんな真夜中、誰かが宿を訪ねてきたのです。

その男は私を乗せた馬子本人でした。

馬子「鞍に大事なものを忘れていきましたよ」

その場所から宿までは16キロほど離れた場所だったのですが、馬子はわらじをダメにしながらも渡しにきてくれたのです。

お礼に4分の1を謝礼として渡そうとしましたが、断られました。

わらじ代だけ受け取ってもらえたのです。

どうしてそんなに無欲で正直で誠実なのかと聞くと、馬子の先生が中江藤樹という人で、先生は「利益をあげることが人生の目的ではなく、正直で正しい道に従うことが目的なのだ」と教えているからだと言うのです。

日本人は他国よりも落とし物を届けると言われているけど、関係あるのかな
旅人からその話をきいた熊沢蕃山は、すぐに中江藤樹に会いに行きました。
そして、弟子にしてくれるように願うのですが、中江藤樹は「私はそんなに立派な人物ではない」と強く断ります。
しかし、熊沢蕃山も譲りません。
結局は中江藤樹の母が仲立ちをしてくれて、熊沢蕃山は弟子になりました。
孝は強い
熊沢蕃山は後に岡山藩の家臣となり、出世します。
その藩主に師である中江藤樹の話をすると、藩主の池田光政も彼を訪問しました。
中江藤樹は会った人がことごとく聖人と認めるような人だったと言われています。

熊沢蕃山のその後

熊沢蕃山は中江藤樹が説いた陽明学を継ぎました。

「治国平天下」という儒教の理念を、現実とのかかわりで「治山治水」として展開して、環境問題も論じているそうです。

例えば、山々の木を切りつくすと保水力が乏しくなるなど。

洪水や大飢饉に対して、災害対策や農業政策の充実などをしたといわれています。

幕末の有名人勝海舟は、蕃山を「儒服を着た英雄」と述べているみたい
しかし、熊沢蕃山は朱子学者や仏教学派などの反感をかい、隠棲を余儀なくされたと言われています。

中江藤樹と日本陽明学

中江藤樹は万人に共通する道徳の原理を孝に求めました。

親孝行だけではなく、孝はあらゆる人間関係に及ぶことだとして人倫を成立させる原理だとしたのです。

さらに発展させて、宇宙万物を存在させる根本原理(全孝)であるとしました。

「あらゆる事物には孝の道理がそなわっている」
(中江藤樹の言葉)倫理の教科書p94

当時の朱子学は身分の上の人に徳を求めたけど、陽明学は万人に道徳の原理である孝を求めたんだね。
身分によって差別をしなかった
晩年になって中江藤樹は陽明学の考え方を取り入れ、人間の本性にそなわる良知(善悪を判断する能力)を発揮すべきだと説きました。

中江藤樹の思想

中江藤樹は実践を大事にしたり、儒学全体や陽明学を学んで本を書いたことから、日本陽明学者として有名です。
陽明学の祖、王陽明は真の知識は行動をともなう(知行合一〈ちこうごういつ〉)と述べていました。
>>陽明学とは
中江藤樹の知行合一の発想はこの言葉に表れています。
徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。
一善をすると一悪が去る。
日々善をなせば、日々悪は去る。
昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならばすべての悪は消え去る。
「代表的日本人」p135
なにが善でなにが悪なの?
元の陽明学では、生まれつき良知が人には備わっているから、例えば「人に親切だ」と思ったことが善かな。
ただし藤樹の場合、時・場所・身分を考えて不正や煩悩を除いてから実践することが善みたい
こうして、中江藤樹の思想は行動を通して、各地に広まっていきました。
藤樹の村の近くの人々は感化され、人々はお互いにやさしく、平和的だったと言われています。
村の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。
ただ、その人々は自分を現わさないから、世に知られない。
それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない
「代表的日本人」藤樹の言葉p139
中江藤樹は黙した人生を送りましたが、後の人々が語り継ぐことで有名になりました。
こんなことを言いつつも、世に名が鳴り渡ってしまった
黙した人生だったとしても、本人は有名になることを知らなくても、後の世の人々は中江藤樹に影響を受けています。

今回は中江藤樹と日本陽明学をやりました。

次回は古学について取り扱います。

近世日本の思想全9回
>>①林羅山と江戸幕府
>>②中江藤樹と日本陽明学(今回)
>>③古学が流行した理由
>>④荻生徂徠(おぎゅうそらい)と経世済民
>>⑤本居宣長と国学
>>⑥石田梅岩の石門心学とは
>>⑦二宮尊徳と学問的精神の展開
>>⑧蘭学と幕末
>>⑨明治維新の思想

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