このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第3節「民主社会と自由の実現」
4.カントと人格の尊厳
を扱っていきます。
カント(1724-1804)と言えば、「カント以前の哲学は、すべてカントに流れこみ、カント以後の哲学は、すべてカントより流れでた」といわれるほどの人物。
カントは、今までの見方をガラッと変えた(コペルニクス的転回)
ただし、その偉業の反面、哲学がとても難しいものと見なされるようになったのも、カントの影響があります。
カントは正確に伝えるために、哲学用語をたくさん使った。
例えば、法律は正確だけど、理解に時間がかかる
倫理の教科書では、全4ページにわたってカント哲学を解説しています。
(社会契約説のホッブズ、ロック、ルソーは各1ページ)
このブログでは、特にカントのポイントといわれる部分を、わかりやすさを基準にして伝えていきます。
ブログ構成
- カントの前提
- カントとコペルニクス的転回
- カントの認識の仕方
- カントの道徳論と自由論の前提
- カントと道徳論と自由論
- カントと人格の尊厳
参考文献 「自由の哲学者カント」中山元著、「道徳形而上学の基礎づけ」中山元著、「カント」小牧治著、「カントの自我論」中島義道著、「カントの「悪」論」中島義道著、新しく学ぶ西洋哲学史、哲学用語図鑑
カントの前提
まず全体的に、カント哲学で押さえておきたい前提を紹介。
内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。
(カント)
この一文の理解を、例文で紹介していきます。
「内容なき思考は空虚」
デカルトは「考えつつ存在するわたし」は疑い得ないとしたのです。
ところで、なぜ「わたし」なのでしょうか。
わたしが考えているとき、そこに「わたし」が「わたし」だとわかる根拠はありません。
ただの「考えがある」としても良いのです。
しかし、デカルトは「考える」のは「わたし」だということを疑い得ないとしています。
ここで、カントの言葉の「内容」を「わたし」と置き換えてみましょう。
つまり、わたしと関係していない思考は空虚なのです。
例えば、宇宙を仰ぎ見るイメージをしてみましょう。
広大な宇宙を見ているとき、人は自分を
一本の草でしかないような、いてもいなくても変わらないちっぽけな存在(からっぽ、空虚)のように感じます。
そのようなわたしのない世界はむなしいのです。
すごく嬉しいことがこれからある!
…あれ夢だった、というのはむなしい感じかな
デカルトは近代哲学の父と言われ、カントは近代哲学の骨格を築いたと言われる理由だね
概念なき直観は盲目
人間と動物との違いは何でしょうか。
歴史的には、ルネサンスや人文主義を通して、人は動物と人間をわけてきました。
中世文化は神様中心だったのに対して、ルネサンスでは人間中心の目線になってきたのです。
神様に対しての生き物という視点では、人間と動物はわけられない。
人中心の目線は、人間とそれ以外を区別するという視点がある
人間と動物をわけるもの。
まず、人間も動物なので、両者に共通している直観(例えば欲望)に注目します。
カントによれば直観とは感性の働きです。
感性は、印象を受け入れる能力や、感覚に伴う感情・衝動や欲望のこと。
動物的思考を前提とすれば、お腹が空いているときは食べ物のことだけを思います。
眠ければ、寝ます。
欲望だけだと食欲、睡眠欲、などといった目の前のものだけに目がいく。
つまり盲目的なのです。
それに対して、概念とは大雑把にいえば、「物事についての大まかな知識や理解」のこと。
例えば、お腹が空いて目の前にお菓子があったとしても、それが誰のものか、今食べてもいいものなのかどうかについて考え、人間ならそれを食べないかもしれません。
これはお店のケーキ。
それに、今は夕食前だから食べない!
このように全体を考えて欲望を制御することは人間らしさだと考えられているのです。
カントはホッブズの自然状態「万人の万人に対する戦い」を元に、争いをなくしていく社会を考えた。
争うのは欲望のためであって、それを理性で抑えるのが人間だと思った
「概念なき直観は盲目」という一文は、人間と動物をわけていると解釈できます。
欲望だけに従うのは盲目(動物的)なのです。
さらに、この一文はイギリス経験論を思い起こさせます。
ベーコンは「知は力なり」といって、知を人間の福祉に役立てようとしました。
ベーコンは経験や実験による事前のしくみの理解(自然の征服)から人々の生活を向上させようとしたのです。
盲目(動物的)ではなく、人びとの福祉に目を向けている(人間的)といった意味もカント哲学には含まれています。
カントの哲学は、イギリス経験論(人間、人間への福祉)、大陸合理論(「考えるわたし」)、また社会契約説(善い社会状態を目指す)をふまえています。
そしてベースに「わたし」や「人間」があり、「人格の尊厳」の哲学だと言えるのです。
「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」という文に、このような背景があります。
では、この前提からカントの哲学を教科書にそって見ていきます。
カントとコペルニクス的転回
カントの哲学は批判哲学だと言われています。
カントの批判哲学とは、理性に対する批判のこと。
といっても、この批判は否定ではありません。
カントの批判⇒物事をあらためて根本から吟味し直すという意味
カントが批判した合理論と経験論を見ていきます。
合理論の批判
カントは合理論が経験的な事実を無視して独断論におちいっていると指摘しました。
カント自身が、ヒュームの因果関係の否定を参照にして、「独断のまどろみ」から目を覚まされたと語ります。
因果関係の否定とは、例えば、人間は経験(習慣)しかないので「1+1=2」といった法則も人間の思い込みだとすることです。
それは、今までの形而上学や、自然科学など、あらゆるものの否定を含むもろ刃の剣。
「真理」なんてない!?
でも、それならどうやって私たちは真理を追究してきたのかな
因果関係の否定を取り入れたうえで、次に経験論の批判を見ていきます。
経験論の批判
経験論では、いかなる真理も確証できずに懐疑論におちいります。
すべてが習慣だとしたら、「100+1=100」という法則を持っている人々も否定できない…
「これが真理だ!」と思ったとしても、それは疑い得るのです。
「1+1=2」も疑い得る。
でも、何か正しいと思われるものがないと法則もできない
とはいえ、カントは数学や物理学の法則をどうしても疑うことができませんでした。
数学法則や物理法則はある、と考えたのです。
そこでカントはまず、「考えつつ存在する私」を疑い得ないものとして、信じることにしました。
そして、「わたし視点」、「人間視点」から人間の認識の仕方を解明していったのです。
合理論も経験論も人間の認識の仕方を理解していない、とカントは批判しました。
カントは「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っていると考えた
コペルニクス的転回
カントは真理を「われわれから独立して自然の対象がある(外の対象のうつし)」のではなく、「われわれがそういう対象を作りあげていく」のだと考えました。
‐われわれの外の自然に、われわれから独立してものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成するのである。
「カント」p141
カントは人間の認識能力の及ぶ範囲における可能性と限界を明らかにしようとしたのです。
人間である私は何を知ることができて(可能性)、何を知ることができないんだろう(限界)
ちなみに、カントの立場は
批判主義で、この可能性と限界を明らかにする試みを「批判」と呼んだ。
試み、というとモンテーニュを思い出すね。
まず、人間の認識の仕方について、カントは従来の考え方を批判しました。
今まで、コップ(対象)があったとすれば、コップをそのまま写し取ると考えていました。(外の対象のうつし)
例えば、そこに「本物のコップ」があって、そのコップを見る人間、犬、猫、ヘビにとってその見え方は一緒だとしてきたのです。
しかし、カントは逆だと説きました。
カントの考え方⇒対象が認識に従う
コップがあったとしても、それは私にとってコップに見えているものがある、ということです。
例えば、そこにあるコップは、人間にとってはコップだとしても、アリにとっては湖だと思われるかもしれないということです。
見るものの大きさや、聴覚優位だったり、視覚優位だったり、温度が見えたりと、生物によって違っている
カントはこの考え方をコペルニクス的転回と呼びました。
コペルニクス的転回⇒認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う
この見方は現代でも科学的に明らかになりました。
科学で解明される前に、カントはその見方を論理的に解明していたのです。
コペルニクス的転回からみた経験論との違い
でもこのコペルニクス的転回って経験論のヒュームも説いていたよね。
経験論とどう違うのかな
経験論は先天的なものがないとしていました。
しかし、カントは対象が認識に従うとしても、人間にとっての普遍的な法則はある、という立場です。
人間には理性がある。
その理性は「1+1=2」という法則を普遍的、一般的なものとして見いだす。
だから、「1+1=2」が法則であって、人間は理性でそうみなしているということ
カント哲学では理性によって法則があるのです。
他にも、経験論では新しい発見があるとしていました。
しかし、カントは新しい発見があるのではなくて、人間がみずからそういう対象をつくりあげているのだと考えました。(構成主義)
われわれは人間。
だから、人間にとっての法則を作り上げることができたんだね
カントの認識の仕方
カントは、人間とは理性的であり、それによって法則を見いだすものとしています。
本能と理性を区切ってよく使うように、理性は一般的な言葉。
でも、理性ってなんだろう…
カントは理性を感性(感覚)や悟性(知性)の形式を含む、認識能力だと述べました。
- カントの理性⇒広い意味では認識の能力。(狭い意味では推理の能力)
- 感性の働き⇒直観
- 悟性の働き⇒思考
- 感性や悟性の形式が人間のうちに先天的(ア・プリオリ)にそなわっている
教科書から認識の仕方を抜粋します。
カントによれば、人間の認識能力には感性(感覚)と悟性(知性)があり、感性と悟性がそれぞれの役割をはたすことで、認識が成立する。
まず、感性は時間と空間という形式に従って、認識の素材を外界から受け取る。
次に、悟性は、量・質・関係・様相という形式(カテゴリー)に従って、感性が受けとった素材を整理し、概念をつくる。
このように、感性の対象から概念をつくることによって、認識は成立するのである。
「倫理の教科書p147」
例で考えてみます。
まずここに「認識の素材」があります。
それを知覚した人間は感性の形式によって「いま」「ここ」にそれがあることを捉えます。
次に、悟性のカテゴリーがそれの概念をつくり認識します。
これは「りんご」だ、と。
現象と物自体
カントは人間が認識するものを現象とよび、現象の背後にある物自体は知り得ないと論じました。
上の例で言えば、現象はリンゴ。
「認識の素材」が物自体のことです。
そして、カントは私たちが見たり聞いたりできる世界を現象界。
物自体の世界を英知界と呼びました。
私たちの認識能力では、英知界を見ることができません。
まったく別というわけではありません。
認識に限っては別、ということ。
広大な私の表象(現象の一種)という世界の中に、針で開けたような一点がぽつんと空いている。
それは、〈いま・ここ〉で私がまったく新しいことを現に体験している場、原体験(物自体)が湧き出している場である。
‐原体験とは、そのつど私が端的に体験することである。
‐世界の開始から世界の果てまでも構成(認識)し、自分自身の内的経験も構成(認識)したあげくに‐構成したからこそ‐、やっと気がつくような〈いま・ここ〉に湧き出している原体験である。
「カントの自我論」p322
つまり、わたしたちは認識するときに物自体(原体験)に関わっています。
リンゴと認識される前のものを体験しているのです。
目の前のリンゴがネコには緑色のリンゴに見えようが、そこに物自体はあります。
そしてこのようなことから、認識に関わる能力としての理性(理論理性)よりも、実践にかかわる能力(みずから法則を定める能力)としての理性(実践理性)によって、認識できないもの(神や霊魂、自由など)は探求すべきであるとカントは考えました。
道徳法則が存在しなければ、そもそも人間は自分が自由であることすら認識できない。
人間がみずから法則を定めて、それを守ることから自由とか神とかを構成する
実践理性>理論理性
また、カントは認識できないものを理論的に説明しています。
私の不思議さ
私は私の表象(現象の一種、心で思い描いた像、観念)というとき、なぜ「私の」ということがわかるのでしょうか。
コペルニクス的転回により、私が認識しうるのは私の現象のはずです。
しかし、「私の表象」というとき、外から私を私だとみなしています。
私の表象を語っているはずなのに、すでにその言葉自体に表象を超え出た「私」を付け加えているのです。
プラトンの「洞窟の比喩」における囚人のように、私の表象という監獄から抜け出した瞬間に、私は私ではなくなっている。
表象の世界から抜け出して端的に存在する私を獲得したと思った瞬間に、私はかき消えてしまっている。
そこには、ただ端的に存在する何か、すなわち物自体が広がっているだけである。
「カントの自我論」p324
物自体って原体験なはずなのに、それは経験することができない。
経験しようとして認識したとたんに、それは原体験であることをやめてしまう。
なんか不思議な感じ
カントは、経験を越えた問題は、是と非のどちらの立場も、それぞれ理性的な証明ができると述べました。
それを理性の二律背反と呼びます。
例えば、この場合「私は存在する」「私は存在しない」の両方を理性的に証明できるということ。
(とはいえ、私は経験を越えているともいないともいえる不思議な存在)
二律背反⇒理論理性はしばしば、相反する二つの結論を導いてしまうこと。
例えば、「神は存在する、神は存在しない」「自由は存在する、自由は存在しない」という主張のどちらも証明されてしまう。
じゃあ、僕が経験してないことを語るのはむなしいこと?
経験なしでは論破はできないということかな。
でも、そうなると経験したことは語れるのかな?
またカントはある種の「経験主義」とも言われます。(経験主義はいろんな意味を含むので、ある種の、です)
この経験とは私が経験を信じているという意味。
例えば、原体験は〈いま・ここ〉に起こったことであり、それ自体を認識することは不可能です。
過去からそれを解釈して、それだったのだろうと認識します。
とすれば、経験を語るという事は、それを私が経験したと信じていることになるのです。(経験を信じているという経験主義)
ここでの「経験主義」は、人間がそのように信じているという意味で、客観的であったり科学的であったりする「経験主義」。
経験が大事、という意味とは違ってくる
カント自身は、現象と物自体を区別したうえで、現象を(理論理性がかかわる)必然の世界とし、物自体を(実践理性がかかわる)自由の世界とすることによって、必然と自由の二律背反を克服しようとしました。
このように人間が現象であるかぎりは、自然の必然性にしたがう存在であり、自由ではありませんが、物自体であるかぎりでは、叡智的な原因性をそなえていて、自由な行為をすることが可能であることになります。
「自由の哲学者カント」p130
自由と言えば、社会契約説でいろんな自由を論じていた。
カントの自由ってどんな自由を説いているんだろう…
ここまでざっとカントの認識について見てきました。
次に、カントの道徳論と自由論を見ていきます。
カントの道徳論と自由論の前提
カントは社会契約説の流れに沿って思考しました。
特に影響を受けたのはルソーだと言われています。
規則正しい生活をしていたカントなんだけど、ルソーの「エミール」を読んでいた時だけ夢中になって、いつもの習慣を忘れてしまったらしい
カントはヒュームの因果関係の否定に衝撃をうけたように、ルソーの知性や賢さは悪にもなる、という思想に衝撃を受けました。
ルソーの悪を簡単に説明します。
ルソーは人間が1人でいたときに悪(善も)はなかった(アダムの楽園イメージ)と言います。
人が群れることによって道徳性が発生し、それとともに善悪が生じたと説いたのです。
かつ、その悪はある種の賢さによっても助長されてしまったと説きます。
カントも人が群れることによって道徳性が発生し、人間それぞれの道徳法則が善悪を生じさせたと述べます。
自然の歴史は善から始まる。
それは神の業だからである。
しかし自由の歴史は悪から始まる。
それは人間の業だからである。
「自由の哲学者カント」p127 カントからの引用部分
例えば、アダムは神の掟に従うという道徳法則に従っていたけれど、それを選択できる自由が与えられた。
かつ、その選択には善悪という選択も発生していたという事
道徳法則は英知界(認識できないので見ることはできない)に存在しています。
わたしたちは現象界と英知界にまたがるもの。
なので、英知界における道徳法則は良心の声として私たちに聞こえてきます。
カントの社会契約説
カントの社会契約説を見ていきましょう。
社会契約説⇒社会(国家)が個人の契約にもとづくという考え方。
カントは人間の自然状態をホッブズの「万人の万人に対する戦い」状態だと考えました。
あの人がそれを望むなら、私もそれを望んでも良いはずという欲望によって争いが起こる状態です。
カントは人々が群れている状態を前提として、そこにおいて人は小悪魔なことを発見します。
人の素質は善であるけれど、悪になる傾向があるのが小悪魔。
悪になる傾向とは、人間が自由意志を持つことだと考えました。
聖書でアダムが果実を食べる選択をしたことで、自由であるとともに悪も手にしたのです。
神様の命令に背くことは、人類にとってとても罪深いことで、それをあがなうためにイエスが犠牲になったと言われている
>>イエスキリストの物語
なぜこれが悪なのかと言えば、「アダムが果実を食べることが悪だと知っていたから」だとカントは考えました。
アダムは善を知っていたけれど、悪を選んだのです。
(道徳法則から善悪が生じたということ)
しかし、この悪には自由という側面があります。
意図は悪だったとしても、人類は自由によって発展してきたからです。
それでも、カントはこのまま無秩序な状態(万人の万人に対する戦い)が続いていけば、やがて人類は腐敗してしまうだろうことを説きました。
ルソーは社会状態(腐敗状態)から国家状態(自由で平和な状態)に移行するのに革命を想定したけれど、カントは革命を起こさずに国家状態(平和な状態)になるように考えた。
革命における争いの悲惨さを知っていたんだね
戦争を起こさず、腐敗の極みから人類が脱出する方法。
カントが考えた脱出方法の一つは啓蒙を説くことです。
もし人々が腐敗状態になったとしても、いずれはそれに嫌気がさして、いつかはその状態から抜け出そうとみんなが思うに違いない、と。
啓蒙によって、それぞれがそれぞれの道徳法則に従う状態になることを目指しました。
それでも、革命(争い、戦争)を起こさない時代の流れはとてもゆっくりなものだとカントは推測しています。
それは、来世において実現されるだろう、来世で幸せになるだろう、と。
カントはキリスト教徒であって、キリスト教の理念が見られる
つまり、私が自分の道徳法則に従って亡くなってしまったとしても、来世があるからいいってなるんだね
カントは「永久平和は人間に課せられた使命」だと考えました。
人間が目指すのは、世界市民としての自由です。
そしてその最終目的を「目的の国」と呼びました。
目的の国⇒誰もがお互いの人格をお互いに目的として最大限に尊重しあう世界
この流れを前提として、カントのといた道徳論と自由論を見ていきます。
カントの道徳論と自由論
カントの人間の社会状態での理想は永久平和です。
永久平和を目指すために、人々が世界市民としての自由を手にすべきだと考えました。
世界市民としての自由
カントを理解するために、自由をわけて考えてみます。
自由の例
- 「万人の万人に対する戦い」での自由は、本能的であり欲望的。
そのままの自由は、なにをしてもよい自由。
- 日本人としての自由。
日本の法に従い、日本では人に迷惑をかけないのが自由
- 世界市民としての自由。
世界は宇宙といってもよいくらい際限がない。
その中で私が市民になるには、私みずからが私の法則をたてて、私がみずからの法に従うのが自由
理性的である人間の自由は、何かに従うことを言います。
カントは世界市民としての理性的な人間を想定しました。
そこでの自由は、みずからがみずからの法則を立てて、自分がそれを好ましいと思うからそれに従うのが自由になるのです。
カントはこの自己服従を意志の自律と呼んだよ。
(自律⇒自分の意志で自分の欲求や行為を規制すること)
この自由に違和感がある場合、動物的な盲目的自由と比較して理解してみます
動物的であれば目の前の食べ物に飛びつく。
しかし、これだと動物的本能に操られている、と解釈することが可能なのです。
理性が働かなければ、盲目的に食べてしまうけれど、理性が働くことによって食べないという選択ができます。
その選択ができることが自由です。
- 盲目的自由⇒本能や欲求にコントロールされている
- 理性的自由⇒本能や欲求に逆らって自分が善いと思うものに従う
視点によって、何も従うものがないことは盲目的で操られていることになる。
だからそれは一見自由に見えてそれは自由ではない、と解釈できるんだね
また他の自由の側面も一部紹介します。
カントは人間があらゆるものに美を感じることで、自分が経験に束縛された存在ではない、自由な存在であることも示しました。
これは先ほどの二律背反で見た「叡智的な原因性をそなえていて、自由な行為をすること」ということの自由を示しています。
このボーっとしているかのように見える行為も、人間に特有な行為であり、崇高なものを物自体から直接的に受け取っているとも解釈ができる。
人間は現象界だけでなく英知界にも影響を受けている自由な存在。
「コペルニクス的転回は、人間が認識するときに行使する自発性と自由のために生まれたもの」(自由の哲学者カントp83)
この自由を悪的なものとも考えることもできます。
アダムはリンゴに感動したから食べたのかもしれないのです。
そのような自由に対して、それでも善を選びうることをカントは人間の尊厳としました。
カントの道徳法則
人間は自由な世界市民として何に従ったら善いのでしょうか。
カントは道徳法則に従うのが善い、としました。
道徳法則⇒「あなたの意志の確率(行為の原則)がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
道徳法則ってよく学校に貼ってある「あいさつをしよう」とか「約束は守ろう」とかに従うこと?
これは誤解です。
道徳法則は自分が決めて自分が従い、かつ、それが相手にも私にも普遍的な法則になるようなもののことです。
もし「あいさつをしよう」とか「約束を守ろう」とかいう提示されている物が善いものだと思い込んで、それに従うのは道徳法則ではありません。
それは自分で決めていないからです。
あの人みたいになりたいから、あの人が守っている物を私も守ろうというのは道徳法則ではないんだね
例えば、私が一つの国だとします。
私は私の国の住民であり、私が決めた法則に自らが従います。(民主制と想定する)
私の国が他の国が良いからといって、他の国を真似ることは、自分の国を運営することにならないのです。(例えば独裁制になる)
ルソーは社会契約論で「自由・平等・平和」が善いものだと説きました。
その自由を実現するためには、私が好ましいと思うものにみずからが従うことに自由が現れてくるのだとカントは考えたのです。
欲望に流されれば楽。
でも、私が理性でもって好ましいものと決めたものに従うことが自由。
自由は大変
カントは善意志だけが無条件に善いものだとしました。
善意志⇒義務(人間としてなすべきこと)を義務としておこなう意志のこと。
「義務にかなう」行為ではなく、「義務にもとづく」行為
善さは行為の動機のうちにある(動機説)
人間は感情に基づいて小悪魔的なことをします。
感情は悪になりえます。
それならば、感情だけではなく自分の理性に基づいてこれが善いと道徳法則に従えば、自分の感情が悪に傾いているときに修正ができます。
それでも、「道徳法則を決めてそれに従ったからこれは善だ」と言いうる悪いことがでてくるかもしれません。
例えば、ナチスで有名なアイヒマンは、自分の道徳法則に従ってユダヤ人をガス室におくったと述べていた。
仕事での義務を道徳法則として自分に課した、と
この場合、理性が間違っていたと指摘されます。
理性もまた悪になりえるのですが、その理性を吟味すればその悪は回避できるかもしれません。
例
例えば、あなたが嘘の約束を考えているとします。
けれど、みんなが同じように「嘘の約束」をすることを考えているとしたら、お互いを信用できなくなります。
そのため、嘘の約束は成立しません。
理性的に考えることによって、嘘の約束はしない、ということが義務になってきます。
仕事を真面目に取り込むのは善いこと。
でも、他の視点から見れば、あの人だったらガス室に送っていいのだったら、自分も自分の親類もガス室に送っていいことになってしまう。
すると、社会的にも良くないのでみんなが思う普遍性はない
理性も感情も悪になる傾向を持っています。
では、どうしたらそれが正しい道徳法則だとわかるのでしょうか。
自分が道徳法則に従ったのかどうかは、「良心」という法廷でみずから裁くことになります。
私が一つの国家だとして、私の道徳法則は良心によって裁かれるんだね。
法律もいろんな解釈が法廷でされている
カントは悪について、犯罪は国によって裁かれるからと、思考の対象にはしなかった。
小悪魔とか、そのような悪を対象に考えていた
例えば、これをすれば善に見える、という目的が無意識的にあって、それが私の良心によって認識された場合に、それは悪に変わってしまうかもしれません。
道徳法則は英知界にあったから、それを認識する私は善悪がはっきりとはわからない、という批判はできる。
道徳法則は目指すもの(理想)でもある
また、カントはルソーから「人間を尊敬すること」を学んだと述べています。
たしかに尊敬は感情であるかもしれないが、これは外部から何らかの影響を感じて生まれた感情ではなく、理性概念がみずから作り出した感情である。
‐尊敬するということは、外部からわたしの感覚能力に与えられる影響の媒介なしに、わたしの意志が直接に法則に服従するという意識をもつことである。
‐そもそも尊敬とは、わたしの自己愛を排除する一つの価値の観念である。
「道徳形而上学の基礎づけ」p40
尊敬から人を愛する場合、その人が自分にとって本能欲求的に心地よいから愛しているのではなくて、理性の感情部分によって自分がそれに従うのが心地よいと感じているから愛しているということかな
カントの定言命法と仮定命法
道徳法則はその性格上、どうしても箇条書きとしてあらわすことができない特性をもっています。
自分が決めなくては自分で自分に従うという自由がなくなるからです。
定言命法としての規則が述べられていたとすれば、それに従えばいい、と思ってしまう
道徳法則は目的を達成するための手段ではなく、目的そのものでなくてはならないとカントは考えました。
なので、道徳法則は定言命法で表されます。
例題
- 定言命法⇒「ただ正直であれ」という無条件の命令
- 仮言命法⇒「幸福になりたいのなら、正直であれ」といった条件つきの命令
例えば、「どうして人を殺してはいけないのか?」と質問されたとします。
カントの定言命法でいえば、「殺してはいけないから殺してはいけないのだ」ということになります。
それは、自ら道徳法則を決めて従っているので、その理由を他に求めないからです。
もし仮言命法を取るとしたら、「法律で決まっているから、殺してはいけないのだ」と理由付けが必要になり、またその理由の根拠を述べていかなくてはなりません。
かといって、道徳法則が働くのは本人だけです。
「殺してはいけないから殺してはいけないのだ」と他人にいうのはいわゆるお説教になってしまいます。
このようなものは「まったくの道徳的熱狂そして自惚れの高度の段階」(カントの悪論p56)に到ることになるかもしれません。
カント哲学では、そんなお説教は「不誠実!」と言えてしまう
カントは道徳法則は人間のみに与えられた理性の声だと考えました。
道徳法則は英知界(認識できない)に存在しているのですが、「わたし」を通して聞こえてくる声なのです。
例えば、不幸な人と目を合わせた時にその人を救いたいとおのずから思うこと
その法則はすべての人間にとって客観的なものでなければいけません。
例えば、それは「1+1=2」「2+3=5」という数式のように、普遍性と必然性を帯びているものです。
カントの人格の尊厳
カントは意志の自律のうちに人間の尊厳を見いだし、自律的な存在としての人間を人格と呼びました。
カントはどのように尊厳を見いだしたのでしょうか。
(なぜか)容易に悪に陥るような性癖を具えたものとして創られた人間が、それにもかかわらずその性癖に逆行して道徳的に善いことを求め、それを必死に実現しようとすること、そのことのうちにしか道徳的善さはない。
言いかえると、(なぜか)容易に嘘をつくような性癖を具えたものとして創られた人間が、それにもかかわらずその性癖に逆行して真実=誠実を求め、それを必死に実現しようとすること、そのことのうちにしか道徳的善さ、いや人間としての尊厳は認められないのだ。
「カントの悪論」p292
この尊厳もその人の必死な姿を見た時に、おのずと湧き上がってくる感情かも
カントの立場は、人格に最高の価値をおく人格主義です。
これはルネサンス以降のヒューマニズムの一つの到達点と言えます。
またこの人格主義を表す言葉を抜粋。
カントは「自然は人間に次のことを望んでいる。
すなわち人間は動物としてのありかたを定める生物学的な配置に含まれないすべてのものをみずから作りだすこと、そして本能とはかかわりなく、みずからの理性によって獲得できる幸福や完璧さだけを目指すことである」と主張します。
「自由の哲学者カント」p291
カントは動物とは異なる人間のあり方をとことん追求したんだね
カント哲学は、まさに方法上からいって批判哲学であったとするなら、内容上から、人間の哲学であったといえるであろう。
「カント」p225
またこのようにも言われています。
道徳、法、社会の原理を「物件」としての存在ではなく「人格の尊厳」に置くという近代の社会思想や生命観は、カントの実践理性の思想に主要な源泉をもっているのである。
「新しく学ぶ西洋哲学史」p170
カントと人格の尊厳についてやりました。
次回はヘーゲルについて扱います。