ルソーと社会契約論

ルソーと社会契約論|高校倫理1章3節3

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第3節「民主社会と自由の実現」
3.ルソーと社会契約論
を扱っていきます。
前回はロックと抵抗権を見てきました。
>>1.ホッブズと社会契約説
>>2.ロックと抵抗権
社会契約説は、ホッブズ(1588-1679)、ロック(1632-1704)、ルソー(1712-1778)が主な思想家です。
社会契約説⇒社会(国家)が個人の契約にもとづくという考え方
まずホッブズ。
ホッブズは、人間の自然状態を「万人の万人に対する戦い」(「我々は平等である、故に争う」)と考察しました。
その争いを避けるため、それぞれがお互いに契約をして、トップに「リヴァイアサン」(聖書にでてくる海獣、無数の人民からなる人造人間)を置き、みんながそれに絶対服従するのがよいと説きました。
あの人があれを持っているなら、私もあれを望んでもいいはず!という考えから争いがおこる
次にロック。
ロックは、人間の自然状態を自由・平等・平和な状態だと説きました。
自然状態を啓蒙された(教育を受けた)人間としたので、知性が高い状態ではホッブズの想定した戦いのような状態になりにくいと考察したのです。
ただ、所有権が不安定なのでそれを安定させるために国家が必要だと説きました。
知性が高いと、争いでものを得ても、また取り返されてしまうことを想像する。
永遠の争いは無益だから、所有権を安定させる道を人々は選んだと説く
かつ、理不尽な支配に人々は抵抗してきたことを肯定した。
(ロックは革命後の政府の役人)
そして、今回はルソーです。
まとめから言えば、ルソーは人間の自然状態を自由・平等・平和な状態と説きました。
しかし、人は群れ、群れることから支配と服従にいたります。
なので、自然状態(自由・平等・平和状態)に戻る状態を作り出すことが必要だと述べました。
その状態が一般意志に従う人民主権共和国です。
では、ルソーの思想を詳しく見ていきます。
ブログ構成
  • ルソーの自然状態
  • ルソーの一般意志

参考文献 「ルソー文明批判の出発点」kindle版(中山元著)、「人間不平等起源論」(ルソー著、中山元訳)「社会契約論」(ルソー著、中山元訳)「近代政治哲学」(國分功一朗著)「エミール(上)」(ルソー著、今野一雄訳)、「新エロイーズ(一)」(ルソー著、安士正夫訳)

ルソーの自然状態

ルソーの自然状態は自由・平等・平和であり、理想的な状態です。

けれど、これはフィクションです。

えっ
まず、この自然状態というのは、人が一人でいる状態。
基本的に一人で生活できる。
群れないし、人とあってもその場の交流だけを楽しむ。
言葉を必要としない。
この自然状態の人のことを、ルソーは野生人と呼びます。
ルソーは自然状態の根拠を聖書においた。
アダムを想像すればいいのかな

ルソーのホッブズとロック批判

野生人が他の人と出会ったとき、その人が不快であれば野生人はただ離れていきます。
ホッブズのいうような争いはしない、と述べるのです。
「人間は生まれつき善なる存在であること、人間が悪くなるのはその制度のためである」
(ルソー文明批判の出発点p7)
ルソーのいう人間は生まれつき善なる存在。
聖書だと、果実を食べる前の人間像かな
一人でいる状態では嫉妬や欲望による争いは起きません。
善なる存在というのは、例えば、窓から落ちそうな赤ちゃんを見た時に、とっさに助けようとする傾向を持つ存在のこと。
ルソーはこの人間特有なものを「あわれみ」と述べています。
>>性善説とは
じゃあ、自分の育てた作物を守るためとか、どうしても戦わなければいけないときは?
一人でいるときはそのような闘争をしませんが、人はどうしても群れてしまい、そのために自然状態ではいられません。
離れるだけでは解決しないときに、争い状態になります。
そして、そのときは知識によっても争い状態になります。
知識のある人は、勝てない相手にはまず逃げる。
でも、どうしても勝ちたいときに策略を巡らせてから、また戦いを仕掛けていく
賢さは争いを大きくすることにもつながるのです。
‐芸術と学問は、文明の象徴のように見えるが、実は人間のうちに不平等をもたらし、習俗を堕落させるものなのである。
「これらの弊害が生まれてくるのは、才能の違いと徳の堕落のために人間のうちに発生した有害な不平等からでしかないのです。」
(ルソー文明批判の出発点p44)
学問って悪いの!?
ルソーは学問を批判もしますが、重視もします。
ああ徳よ、素朴な魂の持つ崇高なる学問よ。
あなたについて知るために、多くの努力と道具が必要だというのでしょうか。
あなたの原則はすべての人の心のうちに刻み込まれているのではないでしょうか。
あなたの掟を学ぶためには自分自身のうちに戻り、情念を鎮めて、自分の良心の声に耳を傾ければ良いのではないでしょうか。
それこそが真の哲学なのです。
(ルソー文明批判の出発点p134)
賢さには善になるもの、悪になるものがあると考えているんだね
批判をまとめます。
  • ホッブズの争い状態に対して、一人でいるときには争わないし、人はあわれみの特性がある。
  • ロックの賢いから平和に対して、学問が争いを生むこともある。

ルソーの社会状態

ルソーは自然状態を善いものとしました。

フィクションとしての理想状態です。

そのフィクションとしての自然状態を自由・平等・平和があり、最も善いとしているのです。

でも、赤ちゃんは人に育ててもらっていて、人は初めから群れている
そこから、自然ではない状態に人々は投げ込まれます。
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
(エミール(上)p23)
ルソーの文明批判では、人間が文明に触れることによって悪くなるという面を語るのです。
じゃあ、自然のままにしておけばいいの?
これも違います。
ルソーの「自然に帰れ」は有名ですが、ルソーは人間を自然がつくったままにしておくと「もっと悪くなる」と言います。
自然状態は善いけれど、社会に投げ込まれないと人は生きていけなくて、その投げ込まれたままに放置しておけば人はもっと悪くなってしまうのです。
例えば、盆栽は手入れをすれば綺麗な盆栽になるのですが、何もしなければただの木です。
時間を考えると、いつも変化がある。
その変化の中で変わっていないように見えたものは、変化を加えられて変わっていないように見えるということ。
放っておけば、なんでも変わってしまう
ルソーは人々がいる社会状態は「堕落した文明」であり「利己的な人間」(他人より自分を優先する)がいるのだと述べます。
ホッブズの自然状態がルソーでいう社会状態に似てる
まとめます。
  • ルソーの自然状態⇒人間がもっとも善い状態であり、基本的に一人。
    人々は自分の生存を求める自己愛と他人を気づかうあわれみに基づいて生きている。
  • ルソーの社会状態⇒ホッブズの自然状態と似ている。「万人の万人に対する戦い」が起こる。
    自己愛が利己心(他人よりも自分を優先する)にかわる。

ルソーの国家状態

もっとも善いのが自然状態。

そこから、現実の群れる人々と照らし合わせると堕落した社会状態になります。

社会状態は自由・平等・平和がない状態。

この状態を元の自然状態(自然に帰れ)にするにはどうしたらいいのでしょうか。

自然状態はフィクションとしての理想なのに、帰ることなんてできるのかな
ルソーはここで新しく国家状態を想定しました。
人々が群れていても自由・平等・平和である状態の国家状態です。
ここで登場するのが社会契約。
ルソーによれば社会契約とは、人民各自が人民全体と締結するものである。
やや不正確に言い直せば、自分で自分たちと契約するのだ。
ルソーのこの理論は、人民が誰か/何かと契約するというそれまでのロジックを打ち破るものであり、近代政治哲学における一つのブレイクスルーとなった。
そしてこれが後の人民主権の基礎となる。
(近代政治哲学p150)
ルソーは各個人が主権者(人民主権)であり国家の構成員でもある存在として、自由・平和・平等が実現される国家状態を説きました。
ここで出てくるのが一般意志
一般意志とは、契約によって成立した集合である主権者の意志のことであり、その行使こそが主権の行使と言われる。
「主権とは一般意志の行使に他ならない」
(近代政治哲学p153)
ルソーは一般意志を法と同一視する表現を残していたり、一般的な正しさの基準として用いたりしています。
解釈によって一般意志はAI統治のような、公平さや正しさを十分に配慮したものとして解釈されています。
>>一般意志とは
ルソーは一般意志に人々が従う共同体を共和国と呼びました。
共和国⇒人民を主権とする国家
ルソーはたびたび民主主義の祖と言われます。
人民主権という発想が今までなかったんだね
ルソーの社会契約論は現代哲学でもよく取り上げられているので、詳しく見ていきます。

ルソーの社会契約論

まずまとめてみます。

  • ルソーの自然状態⇒聖書に依拠した、人が一人で暮らす善い状態
  • ルソーの社会状態⇒人が群れている状態で、万人の万人に対する闘争状態
  • ルソーの国家状態⇒理想的な一般意志を置いた善い状態

この関係性から見えてくることを考察していきます。

状態の移行は書かれていない

ルソーは各々の自然・社会・国家状態を考察しました。

その各状態が時間とともにその中で変わっていくことも説いています。

しかし、状態移行には触れませんでした。

野生人が文明人になるのに時間は関係ない
例えば、ルソーは社会状態において王の支配が続いていった場合(時間が経過した場合)、「王と奴隷」といった奴隷の中での平等が実現されると説いています。
そして、それは新しい自然状態でもあり、腐敗の極みでもある、と述べるのです。
人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原始的な状態からたえず遠ざけつづけているのだ。
わたしたちが新しい知識を獲得すればするほど、もっとも重要な知識を獲得するための手段がますます失われていくのである。
こう言ってもいいだろう、人間を研究すればするほど、人間を知りえなくなるのだ、と。
「人間不平等起源論」p27
社会状態にある人間は不平等です。
社会的に役立つ才能・能力・身体の差。
社会的に与えられている身分や所有物。
それらのものによって不平等な状態にあり、社会状態は腐敗するばかりだとルソーは説くのです。
この状態を移行する手段として革命が想定できる。
革命を起こしたロベスピエールはルソーの思想を胸に抱いていた
社会状態はどれだけ時間がたっても腐敗の極みである自然状態。
しかし、何らかの形で移行されたとします。
一般意志を上におく国家状態では、みんなが法の下に平等です。
社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。
「社会契約論」p29
みんな平等だけど、自分を譲渡するのって奴隷状態じゃないの?
人々が従うのは人々の理想的なものである一般意志です。
自らが従いたいと思うものに従うことは、奴隷というよりも自由になる
つまり、各人がすべての者にみずからを与えるのだから、みずからをいかなる個人に与えることもないので、特定の奴隷状態にはなりません。
さらに、すべての成員は、譲渡したのと同じ権利を契約によってうけとるので、自分が失ったものと同じ価値を手に入れることになります。
例えば、法によって盗みをしないことを契約します。
盗みをする自由は失いますが、自分も盗みによる被害を受けにくくなります。
さらに、盗みからの保護を国家がしてくれるようになるので、各人はより大きな力を手にいれることにもなります。
ルソーは国家状態も「第二の自然状態」として想定している。
ルソーの自然状態は平等・平和・自由のどれかが成立している状態を述べているみたい
‐社会契約は、人間が自分の生命と自由を維持できるようになることを目的としている
「社会契約論」p345
自由・平等・平和が善いものという設定が民主主義
ルソーは腐敗した自然状態も想定している。
そして、自然状態は善いもの。
とすると、腐敗だけれど平等が実現されている「善い状態」があったりする

ルソーの善悪

ルソーは自然状態では人々に善悪がなかったと説きます。

ところで自然状態のうちで生きていた人々は、たがいにいかなる意味でも道徳的な関係を結んでいないし、義務も知られていないのだから、善人でも悪人でもなく、悪徳も美徳も知らなかったと考えられる。
「人間不平等起源論」p72

では、どのように善悪が作られたのか。

二度目の引用をします。

「人間は生まれつき善なる存在であること、人間が悪くなるのはその制度のためである」
(ルソー文明批判の出発点p7)

人間は社会的な制度によって、また、社会的に伴う自己改善能力によって悪くなってきたのだとルソーは述べます。
善くなろうとするのに悪くなっちゃうの!?
具体的にみていきます。
まず自然状態の野生人は、他者を必要とせずに自分一人で生活することができました。
野生人は事物には依存していたけれど、他者に依存することも隷属することもありません。
事物への依存とは、寝るためのベットとか食料とか、生活必需品への依存です。
野生人ってたくましい
事物への依存はなんら道徳性をもたないものであり、自由を妨げることなく、悪を生みだすことはない
「社会契約論」解説部分p346
しかし、社会の成立とともに、人間は他者にも依存するようになります。
人間への依存は、無秩序なものとして、あらゆる悪を生みだし、これによって支配者と奴隷はたがいに相手を堕落させる
「社会契約論」解説部分p346
人への依存って悪なのかな…
人への依存が争いや不平等を生みだす元だからです。
けれど、その悪は善も生みだします。
しかし人間が道徳的な存在になるためには、社会というものがどうしても必要である。
「社会契約論」p330
道徳的な存在になるには他者を必要とするのです。
人間の自然状態を善いとすれば、時間とともに悪くなっていくし、手を加えなければもっと悪くなっていく。
しかし、野生人による自然状態は他者がいないのであり、他者を必要とする道徳性は社会において発生します。
人間の自然状態を善いものとすれば、悪くなるのは避けられない。
だけど、他者との関係性の中での善悪は、社会の中で作られていく
ルソーは文明人である人々を善くするものとして国家状態を想定しました。
何が善悪なのか混乱しちゃうけど、「自由・平等・平和が善いもの」という前提があって、そこから離れることを悪くなるって言ってるみたいだね
余談になりますが、ルソーの小説「新エロイーズ」から社会契約論について述べているだろう部分を抜粋します。

ルソーの本音

力強い話し方を教わるのは社交界の中だけだ。
それはまず第一に、常に他人とは違った、他人よりは上手な言い方をしなければならないからであり、次ぎに、自分が信じてもいない事をしょっちゅう断言したり、自分が持ってもいない感情を表現したりせざるを得ないために、自分の言う事に内心の確信に代る説得的な表現を与えようと努めるからだ。
「新エロイーズ(一)」序章p19
社会契約論は説得力がある
でもルソーは社交界に悪い印象も抱いていた
これとは反対に、恋愛におけるラブレターは支離滅裂なことが多くても、感情が伝わる詩みたいなよいものだと述べています。
自分の言いたいと思う事を有効にするには、それを必らず利用する人々に耳を傾けさせることが先ず必要なのだ。
「新エロイーズ(一)」序章p23
革命を利用するものへの書物…
自分たちの話の結果は大して気にしないで、我々に向って「善良なれ、賢明なれ」と叫ぶのが教説家の商売なのだ。
いやしくもそれを気にする公民たる者は我々に向って愚かにも「善良なれ」と叫ぶべきではない、我々をそうなるように導く状態を愛させるべきなのだ。
「新エロイーズ」p28
ルソーは今の時代を「善良であることが何人にもできない時代」だと語ります。
つまり、社会状態で話題になった本、社会状態で読まれるために書いた本としての社会契約論とも解釈できます。
社会状態では、人は自分の改善能力によって悪くなる、とルソーは説いていた
社会における名声を得ようとする行為、例えば熱意から作られた作品が、社会を悪くする状態を生みだす可能性はある
象徴的なのが、ルソーの本に感銘をうけた革命家ロベスピエールの大虐殺。
ロベスピエールは革命を遂行するために、手段を問いませんでした。
社会における改善が悪いものになるとき、社会的な善は自然的な善とは異なっている。
善悪という言葉はあるけれど、文脈ごとに善悪を読み取らなければルソーの思考を誤解してしまう
かといってルソーは、人々は本当に望むものがわかっていない(無意識がある)と説いていて、無意識を自分にも当てはめている
わたしはほかの人と同じようなものの見方をしない。
すでに久しいまえからわたしはそれを非難されている。
「エミール」p19
ルソーは人々の中でイメージが定まる傾向がある善悪のことをたびたび話題に出すから、誤解されやすそう…

ルソーの自由論

ルソーは自然状態における自由と、国家状態における自由があると述べます。

社会状態と自然状態での善悪が異なっているように、自由も状態によって主張が異なる

ルソーは自然状態の自由を、人間が自由な行為者であるということから、動物と区分けができる人間の特性として主張しています。

それに対し、国家状態の自由は一般意志に従うのが自由だと主張します。

自由の解釈
  • 自然状態での自由⇒人間が自由な行為者であるという特性こそが、動物と違うところという主張
  • 国家状態での自由⇒「意志はみずからの意志でなければ、意志であることをやめる」
    つまり、意志は譲渡できないので、みずからの意志(一般意志、人民主権)に従うことが自由になる。
    道徳的な自由。
主張が異なっていても、国家状態でも第二の自然状態といったりするから、明確に区分けはできない
例えば、国家状態での自由は、愛するものに自分から進んで服する状態と言える。
人が愛するものに従っているときは幸福を感じたりする。
愛する人だったり、趣味だったり、そういうものに人は進んで服している

ルソーの一般意志

‐一般意志がまず確認されてから法が制定されるわけではない。

法の領域であれこれの法律が制定され、それが後から、一般意志の実現あるいはその行使と見なされるのである。

だから、我々が実際に手にしているのは、法律の文面だけである。

その意味で、一般意志は常に過去にある。

一般意志は、過去を振り返って、「そのようなものがあったはずだ」という仕方でしか確認することのできないものなのだ。
「近代政治哲学」p161

ルソーは自然状態をフィクションとしての善いものとして設定しました。

それと同じように、一般意志もフィクションとして善いものだと設定したとも言えます。

一般意志は常に正しいからです。

一般意志⇒公共の利益をめざす意志(共同の自我)のことであり、個人の利益をめざす特殊意志や、その総和である全体意志とは区別される。
(倫理の教科書p146)

常に正しい一般意志をAIによって実現しようという動きが現代でも出ているので、議論は続いています。
>>一般意志とは

今回はルソーと社会契約論についてやりました。

次回はカントについて扱います。

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