「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑩平塚らいてうと大正デモクラシー
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
>>②自由論と中江兆民(なかえちょうみん)
>>③内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)
>>④教育勅語(きょういくちょくご)と「戦前」の日本
>>⑤徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム
>>⑥岡倉天心「茶の本」とナショナリズム
>>⑦幸徳秋水(こうとくしゅうすい)と社会主義
>>⑧夏目漱石と文明開化批判
>>⑨大正デモクラシーと民本主義
でも、これってGHQの政策の一つであって、与えられた選挙権なんだね。
だから、自発的な活動があった戦前のフェミニズム運動は見ておきたいね。
- 平塚らいてうと女性解放運動
- 平塚らいてうと大正デモクラシー
参考文献 「青鞜の時代」堀場清子著、「民主主義を直感するために」國分功一朗、現代語訳「貧乏物語」河上肇 佐藤優
平塚らいてうと女性解放運動
女性の自由民権運動は、岸田俊子(きしだとしこ、1863-1901)や福田英子(ふくだひでこ、1865-1927)が、男女同権や女性の独立を訴えたことにはじまりました。
世代を経て、大正デモクラシーに活躍したのが平塚らいてう(1886-1971)です。
デモとは何か。
それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。
出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。
「民主主義を直感するために」國分国一郎p19
「女がいつまでも従っていると思うなよ」という民主化の動きの一つとしてみれば、らいてうの動きは大正デモクラシー(民主主義)的。
平塚らいてうと言えば、有名な一説。
元始(げんし)、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。
他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
‐隠れたるわが太陽を、潜める天才を発現せよ‐
『青鞜(せいとう)』創刊号
平塚らいてうは、1911年に若い女性たちによる文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性に人間の自由の自覚をうながしました。
なぜ自由の自覚をうながしたのか。
当時の女性意識
- 家父長制下での女性は、自己をもたないことを第一の美徳とされてきた。
- 「良妻賢母」が美徳とされ、妻であり、母である以外の自己は否定されてきた。
- 「天才」は男性の専有物とみなされてきた。
- 「家」の大切さが強調され、女は家を守るものとする道徳があった。
- 裕福層では、家に閉じ込めておくものが女であった。
- 結婚において妻に財産の所有権はなかった。
- 夫の姦通は罪にならなかったが、女性の姦通は罪となった。
(女性側の姦通とその相手となった男性のみが処罰される法。戦後になくなった) - 堕胎罪(だたいざい)
1907年に中絶を禁止。
今日もその法は残っているが、優生保護法によって中絶を許可された医師が登場した。
(「青鞜の時代」参照)
このように、女性の抑圧意識があり、それに訴える形でらいてうは『青鞜』をたちあげました。
女性には天才がいない、と。
らいてうは社会事情によって女性の天才は潜んでいるだけだ、と主張したんだね。
新しき女
閨(けい、女の居間、寝室)に閉じこめておくものが女であり、その女が家を出て、規則だった教育を受けることも、婦人会を組織したり、社交の場で活躍することも、日本の古い習慣ではありえなかった。
「青鞜の時代」p15
女は閉じ込めておく風習がありました。
しかし、戦争の時代(日露戦争、第一次世界大戦頃)に突入し、社会的にも女が家を出る、という必要性がおきます。
女は働いても堕落、学んでも堕落、と言いはやされる時代。
平塚らいてうはそこで「新しき女」を主張しました。
つまり、自己を持った女です。
新しき女に対して、古い女というのは「良妻賢母主義」に基づく母親像です。
良妻賢母主義
- 古い儒教的女性観と西欧思想の折衷によって造出された思想。
- 自己を主張してはならない、という道徳律。
- 自己犠牲が美徳。
- 家制度を保つ。
「良妻賢母」というのは、良い妻であり賢い母であること。
捉えどころによって、良くも悪くもなる言葉であり、対比するのが難しい言葉です。
なので、対比としてらいてうが主張した「新しき女」は、非難を浴びました。
言葉に悪いイメージがつきまとったのです。
平塚らいてうが浴びた非難
平塚らいてうの行動は多くの非難を浴びました。
- 男の真似をしてビールを飲む
- 妻のいる男性と駆け落ちをするという事件を起こす
- 女性間の同性愛を主張
- 子どもはいるけれど、結婚形式をとらなかった(後に社会制度から仕方なく婚姻)
などです。
らいてうの女性の恋人「尾竹紅吉」がらいてうのゴシップを雑誌に載せることで、『青鞜』の売り上げは伸びたと言われています。
その嫉妬から紅吉はゴシップを雑誌に流したといわれているよ。
らいてうは良くも悪くも注目を浴びました。
ただ、注目を浴びたといっても雑誌の売り上げでの生活は厳しく、らいてうは親の援助で雑誌社を成り立たせていました。
でも、らいてうは事実とは違うと訴えていたよ。
「事件を起こした森田は教師としての職を失ったから、作家で食べてかなきゃいけない」
そう夏目漱石がらいてうに言って、塩原事件(駆け落ち)の小説化の許可をもらったらしい。
平塚らいてうと大正デモクラシー
大正デモクラシーというのは民主主義的な運動です。
大正デモクラシーの代表は吉野作造と美濃部達吉。
日本を維持するという政府側の目的から民主化を唱えました。
>>大正デモクラシーとは
しかし、平塚らいてうの民主主義的な運動は、それとは別の民衆側の視点を持っています。
- 吉野作造、美濃部達吉⇒政府側から起こした民主化
- 平塚らいてう達⇒民衆側(女性)から起こした民主化
民衆側から起こした民主化なので、他の民衆からの訴えとも結びつきます。
例えば、社会主義運動。
社会主義運動と大正デモクラシー
平塚らいてうは親に支援されながら、青鞜を運営していました。
ところが、社会主義運動と結びつくことで、親が支援をしなくなります。
その頃の社会主義運動で有名なのが大杉栄(おおすぎさかえ、1885-1923)。
大杉栄は『労働新聞』などを刊行し、幸徳秋水のアナーキズム(無政府主義)を継承したと言われています。
>>幸徳秋水と大逆事件
ちなみに、大杉栄は青鞜社を受けついだ伊藤野枝(いとうのえ)と恋仲。
しかし、二人とも関東大震災の混乱の中で、憲兵隊に殺害されてしまいます。
他にも大正デモクラシー期に有名なのが河上肇(かわかみはじめ、1879-1946)。
河上肇と貧乏物語
河上肇の貧乏物語は、「東京朝日」に掲載された文章。
庶民的にわかりやすく、なぜ貧乏が生まれるのかを説いています。
貧困を経済学的にまとめた書はベストセラーになりました。
こんな感じで、カロリー実験や給食を普及させたデータなど、今でも興味がわくトピックが散りばめられた本だった。
当時の日本は、食糧難民があふれる時代。
河上肇はこの時代の貧乏について定義しました。
- 人々が述べる貧乏を種類分けした
- 働いても貧乏なのは、怠惰なせいではなく、社会情勢のため
- 貧乏線という生命維持カロリーを定義し、河上肇の「貧乏」はそこから下以下の人々
- 貧乏になると、栄養不足で頭がまわらなくなる
つまり、国が勉学によって賢くなろうとも、食料が維持されていなければそれはかなわないと説いたのです。
では、貧乏を脱却するにはどうしたらいいのか。
「貧乏物語」では、贅沢をやめることが貧乏を失くす道だと説きました。
- 資本主義を前提
- お金持ちが贅沢品を買うと、贅沢品に需要がまわって、生活必需品が生産されなくなる
- お金持ちの贅沢品が経済の主になると、それが軸になって経済が発展する
- 結果、生活必需品は市場にでまわらずに、贅沢品ばかりが生産されるようになる
「高いけど、倫理的に良いもの」をみんなが買うことで、経済を回そうという発想とか。
そのあともしばらく貧困は社会問題にならなかった。なぜか。東西冷戦があったからだ。もし貧困が深刻になれば、共産主義革命が起きるという恐れがあった。‐すなわち国家が介入することによって再分配をして、福祉国家をつくる。‐公共事業を通じたかたちで富は再分配されたのである。
現代語訳「貧乏物語」解説部分p211
つまり、貧富の格差は広がっていくから、また貧困が社会問題になるということ。
戦後に与えられた憲法
この頃の大正デモクラシーの運動は、日本が戦争に向かうにつれて、おさまっていきました。
そして、戦後にGHQによって男女平等選挙が実施。
良くも悪くも与えられた民主化でもあります。