平塚らいてう

平塚らいてうと大正デモクラシー|高校倫理3章4節⑩

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
平塚らいてうと大正デモクラシー
を扱っていきます。
鎖国から開国した日本。
開国にあたり、明治維新が起こりました。
明治維新⇒江戸幕府にかわって新しい政府が誕生し、近代国家に生まれ変わるための多くの改革を発表し、年号を明治に改めて新しい時代の幕を開いた近代化革命
明治維新によって、政府が誕生。
政府は天皇をトップとした大日本帝国憲法を発布。
その頃、大正デモクラシー(1905年頃~運動が起こります。
大正デモクラシー⇒大戦(日露戦争)後を中心とする政治・経済的民主化を求める風潮のこと
大正デモクラシーでは、民衆に力がついてきました。
超然内閣(話し合わずに一部の人が決めてしまう)といった、財閥や軍による政治から、みんなで話し合う政治に移行していきます。
象徴的なのが1925年の普通選挙(満25歳以上の男子に選挙権)だね
普通選挙は、男性に選挙権が与えられました。
では、当時の女性はどのように考えられていたのでしょうか。
大正デモクラシーの中で、女性を差別や抑圧から解放しようとする動きは活発化していきます。
その中心で活躍した平塚らいてう(1886-1971)を主にみていきます。
戦後(1945)に女性選挙権が認められたよ。
でも、これってGHQの政策の一つであって、与えられた選挙権なんだね。
与えられた思想は、年月をかけて定着していく。
だから、自発的な活動があった戦前のフェミニズム運動は見ておきたいね。
ブログ内容
  • 平塚らいてうと女性解放運動
  • 平塚らいてうと大正デモクラシー

参考文献 「青鞜の時代」堀場清子著「民主主義を直感するために」國分功一朗現代語訳「貧乏物語」河上肇 佐藤優

平塚らいてうと女性解放運動

女性の自由民権運動は、岸田俊子(きしだとしこ、1863-1901)や福田英子(ふくだひでこ、1865-1927)が、男女同権や女性の独立を訴えたことにはじまりました。

世代を経て、大正デモクラシーに活躍したのが平塚らいてう(1886-1971)です。

デモとは何か。

それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。

出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。
「民主主義を直感するために」國分国一郎p19

女性の抑圧に対して、雑誌を立ち上げて訴えたのが平塚らいてう。
「女がいつまでも従っていると思うなよ」という民主化の動きの一つとしてみれば、らいてうの動きは大正デモクラシー(民主主義)的。

平塚らいてうと言えば、有名な一説。

元始(げんし)、女性は実に太陽であった。真正の人であった。

今、女性は月である。

他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。

‐隠れたるわが太陽を、潜める天才を発現せよ‐
『青鞜(せいとう)』創刊号

平塚らいてうは、1911年に若い女性たちによる文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性に人間の自由の自覚をうながしました。

なぜ自由の自覚をうながしたのか。

当時の女性意識

  • 家父長制下での女性は、自己をもたないことを第一の美徳とされてきた。
  • 「良妻賢母」が美徳とされ、妻であり、母である以外の自己は否定されてきた。
  • 「天才」は男性の専有物とみなされてきた。
  • 「家」の大切さが強調され、女は家を守るものとする道徳があった。
  • 裕福層では、家に閉じ込めておくものが女であった。
  • 結婚において妻に財産の所有権はなかった。
  • 夫の姦通は罪にならなかったが、女性の姦通は罪となった。
    (女性側の姦通とその相手となった男性のみが処罰される法。戦後になくなった)
  • 堕胎罪(だたいざい)
    1907年に中絶を禁止。
    今日もその法は残っているが、優生保護法によって中絶を許可された医師が登場した。
    (「青鞜の時代」参照)

このように、女性の抑圧意識があり、それに訴える形でらいてうは『青鞜』をたちあげました。

らいてうは哲学も学んでいたんだけど、当時はニーチェ哲学が流行っていて、ニーチェ個人に女性差別意識があった。
女性には天才がいない、と。
らいてうは社会事情によって女性の天才は潜んでいるだけだ、と主張したんだね。

新しき女

閨(けい、女の居間、寝室)に閉じこめておくものが女であり、その女が家を出て、規則だった教育を受けることも、婦人会を組織したり、社交の場で活躍することも、日本の古い習慣ではありえなかった。
「青鞜の時代」p15

女は閉じ込めておく風習がありました。

しかし、戦争の時代(日露戦争、第一次世界大戦頃)に突入し、社会的にも女が家を出る、という必要性がおきます。

男は戦争に出てしまうから、男の仕事とされていたものを女性がになうようになった

女は働いても堕落、学んでも堕落、と言いはやされる時代。

平塚らいてうはそこで「新しき女」を主張しました。

つまり、自己を持った女です。

新しき女に対して、古い女というのは「良妻賢母主義」に基づく母親像です。

良妻賢母主義

  • 古い儒教的女性観と西欧思想の折衷によって造出された思想。
  • 自己を主張してはならない、という道徳律。
  • 自己犠牲が美徳。
  • 家制度を保つ。

「良妻賢母」というのは、良い妻であり賢い母であること。

捉えどころによって、良くも悪くもなる言葉であり、対比するのが難しい言葉です。

なので、対比としてらいてうが主張した「新しき女」は、非難を浴びました。

言葉に悪いイメージがつきまとったのです。

平塚らいてうが浴びた非難

平塚らいてうの行動は多くの非難を浴びました。

  • 男の真似をしてビールを飲む
  • 妻のいる男性と駆け落ちをするという事件を起こす
  • 女性間の同性愛を主張
  • 子どもはいるけれど、結婚形式をとらなかった(後に社会制度から仕方なく婚姻)

などです。

らいてうの女性の恋人「尾竹紅吉」がらいてうのゴシップを雑誌に載せることで、『青鞜』の売り上げは伸びたと言われています。

紅吉はらいてうの恋人だったんだけど、らいてうには他にも男性の恋人がいた。
その嫉妬から紅吉はゴシップを雑誌に流したといわれているよ。

らいてうは良くも悪くも注目を浴びました。

ただ、注目を浴びたといっても雑誌の売り上げでの生活は厳しく、らいてうは親の援助で雑誌社を成り立たせていました。

らいてうが駆け落ちした男性は作家(森田草平)で、そのらいてうとの物語が大ヒットしたらしい。
でも、らいてうは事実とは違うと訴えていたよ。
森田は夏目漱石の弟子。
「事件を起こした森田は教師としての職を失ったから、作家で食べてかなきゃいけない」
そう夏目漱石がらいてうに言って、塩原事件(駆け落ち)の小説化の許可をもらったらしい。
らいてうが暗に主人公となっている小説「煤煙」は大ヒット。
主人公の「朋子」はらいてうとは違っていたけれど、自立した女性であることは同じでした。
「新しき女」は時代の波やスキャンダル、雑誌などで、各地に広がっていきました。

平塚らいてうと大正デモクラシー

大正デモクラシーというのは民主主義的な運動です。

大正デモクラシーの代表は吉野作造と美濃部達吉。

日本を維持するという政府側の目的から民主化を唱えました。
>>大正デモクラシーとは

しかし、平塚らいてうの民主主義的な運動は、それとは別の民衆側の視点を持っています。

  • 吉野作造、美濃部達吉⇒政府側から起こした民主化
  • 平塚らいてう達⇒民衆側(女性)から起こした民主化

民衆側から起こした民主化なので、他の民衆からの訴えとも結びつきます。

例えば、社会主義運動。

女性は働きにくい時代で、給料も低くて、他に頼らなければ貧困になりやすい

社会主義運動と大正デモクラシー

平塚らいてうは親に支援されながら、青鞜を運営していました。

ところが、社会主義運動と結びつくことで、親が支援をしなくなります。

らいてうは体調も悪くなってしまって、伊藤野枝(いとうのえ)に青鞜をゆずった

その頃の社会主義運動で有名なのが大杉栄(おおすぎさかえ、1885-1923)。

大杉栄は『労働新聞』などを刊行し、幸徳秋水のアナーキズム(無政府主義)を継承したと言われています。
>>幸徳秋水と大逆事件

ちなみに、大杉栄は青鞜社を受けついだ伊藤野枝(いとうのえ)と恋仲。

しかし、二人とも関東大震災の混乱の中で、憲兵隊に殺害されてしまいます。

伊藤野枝が編集していた青鞜社は、貞操論争、堕胎論争、売春論争など、今でも問題になっているものを取り上げていたよ

他にも大正デモクラシー期に有名なのが河上肇(かわかみはじめ、1879-1946)。

河上肇と貧乏物語

河上肇の貧乏物語は、「東京朝日」に掲載された文章。

庶民的にわかりやすく、なぜ貧乏が生まれるのかを説いています。

貧困を経済学的にまとめた書はベストセラーになりました。

囚人による実験も紹介していて、スコットランドのある囚人達は一日に3500カロリーの食べ物を与えると体重が減少し、3700カロリー与えると体重が増加したというのがあったよ。
こんな感じで、カロリー実験や給食を普及させたデータなど、今でも興味がわくトピックが散りばめられただった。

当時の日本は、食糧難民があふれる時代。

河上肇はこの時代の貧乏について定義しました。

  • 人々が述べる貧乏を種類分けした
  • 働いても貧乏なのは、怠惰なせいではなく、社会情勢のため
  • 貧乏線という生命維持カロリーを定義し、河上肇の「貧乏」はそこから下以下の人々
  • 貧乏になると、栄養不足で頭がまわらなくなる

つまり、国が勉学によって賢くなろうとも、食料が維持されていなければそれはかなわないと説いたのです。

では、貧乏を脱却するにはどうしたらいいのか。

「貧乏物語」では、贅沢をやめることが貧乏を失くす道だと説きました。

  1. 資本主義を前提
  2. お金持ちが贅沢品を買うと、贅沢品に需要がまわって、生活必需品が生産されなくなる
  3. お金持ちの贅沢品が経済の主になると、それが軸になって経済が発展する
  4. 結果、生活必需品は市場にでまわらずに、贅沢品ばかりが生産されるようになる
生活必需品が経済の主な商品になれば、貧乏(食べていけない)人がいなくなるという論法だね!
後に、マルクス主義者になる河上肇は、「貧乏物語」が資本主義前提で書かれていることを指摘されたので、絶版にします。
現代は資本主義前提で経済を考えようとする動きがあるから、河上肇の貧乏物語は現代の思想にいきてくる、という見解があるよ
例えば、哲学者マルクス・ガブリエルが説く倫理を資本主義に組み込もうとする動き。
「高いけど、倫理的に良いもの」をみんなが買うことで、経済を回そうという発想とか。
河上肇は日本共産党に入党。
その活動は治安維持法によって起訴されてしまい、彼は5年間刑務所にいました。
とはいえ、この時代は政府も共産党や貧困での民衆の決起を怖がっていた時代。
そのあともしばらく貧困は社会問題にならなかった。
なぜか。
東西冷戦があったからだ。
もし貧困が深刻になれば、共産主義革命が起きるという恐れがあった。
‐すなわち国家が介入することによって再分配をして、福祉国家をつくる。
‐公共事業を通じたかたちで富は再分配されたのである。
現代語訳「貧乏物語」解説部分p211
大正デモクラシーによる活動は、政府に危機意識を与えていました。
今日では共産主義の脅威が薄れたから、再分配政策は採られなくなったと解説者の佐藤優は述べているよ。
つまり、貧富の格差は広がっていくから、また貧困が社会問題になるということ。

戦後に与えられた憲法

この頃の大正デモクラシーの運動は、日本が戦争に向かうにつれて、おさまっていきました。

そして、戦後にGHQによって男女平等選挙が実施。

良くも悪くも与えられた民主化でもあります。

例えば、抑圧的に感じられることでも、運動を起こしてそれを解消するという方法が非現実的だったりするんだね。
今回は平塚らいてうと大正デモクラシーを扱いました。
次回は、西田幾多郎について取り上げます。
平塚らいてう
最新情報をチェックしよう!
>けうブログ

けうブログ

哲学を身近に