道徳哲学とは

道徳哲学から「謎は存在しない」-言葉のパラドックスを紹介

おはようございます。けうです。

 

今日は「謎は存在しない」について話そうと思います。

参考にしたのはマルクス・ガブリエル新時代に生きる「道徳哲学」です。

>>新時代に生きる「道徳哲学」

その謎は存在しないことから、道徳哲学がどんなものかが見えてきます。

道徳哲学とは-言葉のパラドックス

なぜ謎は存在しないというかといえば、言葉のパラドックスからです。

私たちは言葉であらわせないと言いつつも、言葉で表しています。

何に関しても、感情でも言葉であらわせない、ということで一つの感情をあらわしているんです。

 

その論理でいえば、謎は存在しません。

謎という言葉を言ってしまっているからです。

でも、なぜ言葉のパラドックスというのかを考えます。

すると、言葉のもとになっている思想があるからです。

私たちは何かを考えていて、それを言葉にしていますよね。

その言葉にする以前の何かがある。

何かということによって存在したものがあるんです。

 

では、それは何か。

私たちの思想です。

私は何を思想の元にしているかを考えることができる。

当たり前に思っている何か、ですよね。

 

この意味において、私の中で発言をするときに、私は何かの事実に基づきながら話しています。

例えば、マルクス・ガブリエルの例でいえば、迷惑をかけてはいけないとか、人に暴力をふるってはいけないだとかいう、常識みたいなものが事実として私たちの頭にあるんです。

 

さらに細かく見ていきます。

道徳哲学とは-構築と結びつけの違い

ドゥルーズの構築という概念と比較します。

構築とは組み立てることです。

哲学を構築するものとして見ていたドゥルーズとは違う見解をガブリエルはします。

何かを材料としてそれを組み合わせていって構築するというようなこととは違う見方です。

これを哲学とドゥルーズは言うんですけど、ガブリエルは構築を哲学とはいいません。

哲学を発見するものと位置づけます。

 

イメージで言えば、構築は組み立てていって家をつくり上げること。

この行為は事実をつくりあげること、とガブリエルはいいます。

でも、事実はすでにあって、作り上げるものではないと言うんです。

 

言葉の例で説明すれば、ドゥルーズは言葉で表した「何か」を構築したものととらえる。

ガブリエルは言葉で表した「何か」はすでに存在していたものとして捉える。

道徳哲学とは-具体例

さらに細かく追っていきます。

ドゥルーズは何か名前をつけたものすらも、構築された事実として捉えると表現できるということ。

私はけうですよね。

でも、呼び名を変えることができます。

私の本名です。

そして、私の本名を口にしたときに、それはけうではない人物になる、ということなんですよ。

ここで再び構築されて、私はけうとは違う人物だと。

これも一つの見解です。

 

かえってマルクス・ガブリエルの見解を見ていきます。

私をけうと言います。

で、呼び名を変えたとしますよ。

でも、私はその指し示された人物としての私なんです。

この事実は変わることがない。

私は私、というような見解ですね。

 

どちらも納得がいきませんか?

おそらくこれが言葉のパラドックスでもあると思います。

 

発見するとは、何かあるものと何かあるものを結び付けることです。

だから、事実を作るとは違うんです。

指し示したものと指し示された他のもととが結び付けられて発見になるんですよ。

 

構築だと、事実を作ってしまうんですけど、これは名前を変えることによって簡単に脱構築できてしまいます。

事実が事実ではなくなってしまう。

道徳哲学とは-あるものとしての事実

ここにガブリエルは思想としての事実があることを示しているんです。

それは何かといえば、道徳とか倫理といった言葉です。

 

ドゥルーズは「ない」ことを主張し、マルクス・ガブリエルは「ある」ことを主張する。

 

私たちが根本的にもっているだろうこと。

先ほど挙げた例と重複しますが、人に暴力をふるってはいけないとか、人には良いことをしたいだとか。

歴史上のどんなにひどい悪人と言われる人でも、いつでもその行為をしていたわけではない、という見解にたっていて、なにか道徳とか倫理はある、という見解なんです。

だから、「道徳哲学」というように新しい用語をつけています。

 

でも、これは唯物主義ではないんですよ。

それがマルクス・ガブリエルの新しい主張でもあるんですけど、この事実はその人にとっての事実なんです。

だから、前回話した合理性というような中庸、真ん中がいいのではないかと話しているんだと思います。

事実と思想をわける

目の前に見える山は実在していると私たちは考えます。おそらくあるんです。

でも、山はきれいだとか、こうだいだとか、そういった思想は各個人にある、という見解なんです。

彼の思想で大事なのは、事実という存在するものと、思想としてあるだろうと私たちが考えているだろうものを分けることですね。

 

道徳とか倫理とかは思想だと思われますけど、思想ではなくてその中にみんなに共通しているような事実だけを取り出そうとしているのかな、と思いました。

 

最後はあいまいな表現に終わりましたが、今日は言葉のパラドックスと考え方の違いについて話してきました。

 

お聞きいただいてありがとうございました。

次回はこちら
>>新実存主義からみる間違いとは何か

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