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おはようございます。けうです。

昨日は「善く生きる」について考えてみました。

 

脳科学とソクラテスを用いたんですけど、考えてみるとソクラテスの時代の頃の人は個人主義的傾向があまりなかったんです。

真実は一つという考え方

ソクラテスは主知主義だったんですけど、知識という一つの真実があると思っていた。

だから、一つに向かう考え方なんですよね。

そう考えていくと、脳科学的な回答とソクラテス的な回答は一致するかもしれない。

 

ある一つの真実があって、それが回答という考え方です。

 

だから、もしかしたらそれにそった「善く生きる」も一般的な意味の要素が強くなる。

 

一番印象的なのは、ソクラテスの死刑裁判ですね。

ソクラテスは自分に非がないことを裁判でとうとうと述べていくんですが、民衆には受け入れられなくて死刑判決を受けてしまうんです。

国家が決めたことなので、ソクラテスはこれを受け入れて死んでしまうんですよね。

ここでは、国家が決めたことに対して絶対的なものであると見ている。

その裁判が決まる前までは、ソクラテスが青少年を堕落させた罪なんてない、というのを説いていたにもかかわらず、です。

結局国家という主知主義、一番上に国家をおいてそれに従ったと言うことなんですよね。

 

この間に弟子たちがソクラテスを説得します。

ここで出てくる弟子たちはおそらく人の気持ちの方に焦点が当たっているんです。

でも、ソクラテスは国家の知に重きを置いた。

ストア派とは

ここから時がながれてストア派が出てきます。

私が以前とりあげたエピクテトスというのもストア派の思想ですね。

 

この思想としては、自分で選択できることと、自分で選択できないことの課題の分離が大事だと説いていました。

自分でどうにもできないことは考えても仕方がないという思想。

自分でどうにかできることに対しては考えていこうという態度です。

 

ここでは、感情が取りだたされているんですよ。

感情がある。

でも、人間には様々な感情があるけれど、これは理性で抑制して禁欲的に生きようと心がけたんです。

そして、欲望から解き放たれた境地であるアパテイアにいくことが最高の幸せだとゼノンは考えたんです。

 

ソクラテスがなぜ私たちにかわいそうと感じられるかと言えば、この感情ですよね。

 

感情を取り払ったら逆に、これが幸せなんだと言う思想です。

 

恐らく感情がない自然と一体になった状態にゼノンは幸福を感じたと言うことができます。

ここでのストア派は、自分の感情を認識しつつも、その感情を抑制する、どうにもできないことは考えても仕方がないと言う態度があります。

 

個人的なものを認めつつ、その様々な感情に流されてはいけない。

流されないことで道徳的・倫理的幸福を追求することに「善く生きる」生き方がある。

 

まだちょっと現代的でないかもしれないですよね。

自分を押さえたらそこに幸せと善く生きるがあったという考え方に対立する考え方。

エピクロス派

現代の考え方は、個人主義的な傾向をおびてきています。

そこで考えたいのはエピクロス派です。

この教派も「善く生きる」をといているんですけど、個人の欲望も大切にはするんです。

 

エピクロス派快楽の肯定

心が平安でない状態になるために最小限の欲を満たす。

・飢えない

・渇かない

・寒くない

自分の感情のこの3つは肯定してそれを満たす。

死んでしまったら恐怖を感じないので、死を恐れても仕方がないと思う。

友情を大切にすること。

個人主義的。

 

そして、エピクロスは隠れていきよ、といいました。

エピクロス園にいる人々は世間とはちがった価値観にいるから、その世間から隠れて生きればその中の価値観にいられるという考え方です。

友だち同士での価値観の中で暮らすことが幸せだと感じる。

ささいなことでも喜びを感じることのできる平安な心の境地であるアタラクシアに達する。

隠れていきよ。

全体的な意見の統合というのは難しいので、小規模なグループに属しようという考え方です。

 

個人主義的な要素がさらに強くなっていきます。

 

今は私たちは私たちの体を通してしか、物事を把握できないことが前提となっていたりしますよね。

個人が基本になってきています。

その思想からみれば、欲を肯定して非難を浴びた昔のエピクロス派すらとても禁欲的に思えます。

時代によって私たちの知や善いという捉え方も変わっているんだということを感じました。

近代哲学は個人主義的

私は哲学において、自分の感情から自分を知りたいと思っています。

これは、昔の考えにはなかった考え方で、近代哲学なんですよね。

この近代哲学で善く生きるを考える場合にはカントがでてくるのかな、と思いました。

 

そのカントは自分できめたことに従うことが自由だと説きます。

でも、これもまだまだ議論の余地があります。

なぜなら、絶対的なこととして死刑制度を認めていたり、嘘をつくのは絶対にだめだという価値観がそこにはあるから。

 

今の世の中にとって、絶対的なものは何なのか。

そういったことも議論されます。

昔の哲学者であっても、その時代による価値観の上に思想はなりたっています。

その時代において、有名になった思想だから取りだたされたとか、画期的だったから取りだたされたということがあるからです。

 

 

そして、知の普遍性を思うのならば、今の私たちがそれを間違いだと思うのならば、間違いになってくるんですよね。

 

なので、自分にとっての「善く生きる」を追求してもいいのではないかと私は思いました。

時代によって知識が移り変わるエピステーメーという考え方が、一つの「善く生きる」という考え方についても言えると言うこと。

知を愛するという言葉すら、ソクラテスの解いた意味と私の解く意味とはちがってくるということ。

同じ意味だと私は違和感を感じる、ということです。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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