新実在論

新実在論を、多元論からみる-「ランプの魔人の物語」で紹介。

新実在論を多元論から理解する。

おはようございます。けうです。

マルクス・ガブリエルから新実在論の話をしていこうと思います。

>>新時代に生きる「道徳哲学」

前回扱った道徳哲学のリンクはこちら。
>>議論の価値とは何か

今日は物語仕立てでいこうと思います。

 

マルクス・ガブリエルの新実在論はある種の多元論にたっています。

世界は存在しないけれど、他の物が存在すると言う。

ここが新という新しいがつく所以です。

私たちは今まで、一元論と二元論という立場をとる場合ばかりでした。

まず、こちらから説明してみます。

一元論と二元論とは

 

一元論と二元論で主に問題にされるのが心と身体です。

一元論はすべてを一つで説明しようとします。

二元論は心も体もあるという見解。

一元論とは

例でいうと、ドラえもんがいいかもしれません。

一元論の立場にとると、人間の心があるようにしているドラえもんですが、心がありません。

モノと一緒です。

私たちはモノに心がないと思うと、心を通わせようとは思いませんよね。

話し合ったとしても、その心に通じることはないと思います。

だから、ドラえもんをモノ扱いしても心が痛むということはない。

そして、一元論ですのでそれは人間側にも適応されるということ。

私もモノなので、どんな扱いをされようが人と人とで心を通わせるというような表現が難しくなる。

よく言われているのが哲学ゾンビですね。

外観は人だけど、中身はない。

でも、心があるような仕草や表現をしているので、それを証明することができない。

合っているか合っていないかはわからない。

でも、一元論に立つとすれば、その哲学ゾンビがどんなことを語ろうと、私に共感してくれようと、そこには心がないことになります。

二元論とは

このように一元論を話すと、人間には心がある!

という主張になりますよね。

ここで出てくるのが二元論です。

人間には心も体もある、と。

それがドラえもんにも適応されるとするならば、ドラえもんが泣いたり笑ったりすることに私たちは共感します。

表現では心を通わせられることができる。

多くの人はこの二元論をとると思います。

これは自分にも当てはまって、自分には心があると思うからです。

何かをされたら嫌だと思うし、嬉しくも思う。

こんな人間なんだって思います。

 

二元論を否定する

今までの哲学はこの一元論と二元論が主だったんですよ。

でも、歴史を振り返ると何もない論とか、多元論があった。

その多元論を取り出したのがマルクス・ガブリエルの新実在論です。

まずガブリエルは二元論を否定します。

一元論は感覚的に私たちが否定しているからいいとして、いったん二元論に行きますね。

この感覚的がたくさん議論されているわけですけど、ここでは二元論の否定を見ていきます。

 

どうして心と身体があるという二つだけで私たちは納得しているのでしょう、と言う立場です。

言葉としては、私は心と身体といいましたけど、心と脳と身体と精神と、肉体というように表現を変えて多種多様なものは生み出せます。

いや、脳と身体とか、心と精神とかは言い換えているだけでどちらかに包括されているよという反論をうけそうですけど、ここに言葉があるという時点で何かしらのニュアンスがちがうということなんです。

ランプの魔人から多元論を説明する

ここで私は思考実験を思い浮かべました。

ランプの魔人です。

物語ではアラジンがランプの魔人に出会います。

ランプから出るのを助けるんです。

すると、ランプの魔人は言います。

「あなたの願いを3つだけ叶えてやろう」と。

 

私はよく何を頼んだら支障がないんだろう、ということを思い浮かべます。

もし痩せたい!とか、頭がよくなりたい!とか身体的なことに関していったとします。

すると、もしかしたらただ体重がなくなる呪文を唱えられるかもしれない。
何か攻撃を受けて身体の一部が減るかもしれない。
頭に何か操作されたりするかもしれない。
身体に何かをくっつけられるかもしれない。

こんなことが思い浮かびます。

 

だから、私は3つの願いに関して身体に関わる問題を言うことはできないと思うんです。

 

そしたら、次に物理的な欲求を叶えてもらおうとします。

お金が欲しいとか、ごちそうを食べたいとか。

 

物語ではアラジンが宮殿やお姫様をねがったときに、ランプの魔人はどこからかそれを持ってきました。

何か呪文を使ってつくり出すのではなくて、おそらく持ってきたと思います。
呪文だったらなにか立ち現れることをイメージしますけど、そこは現実的な物語だった気がします。

 

そして、考えてみればもしお金を頼んだとして、それが現実と繋がっていないとお金にならないんですよね。

それは偽札でもある。

そして、つかえないこともある。

さらに、お姫様で言えば、急に魔人が生命体をつくるなどは考えるのが難しいです。

そして、魔人がつくる人間がちゃんと人間かどうかというのはわからないんです。

 

思うに、この3つの願いは魔人ではなくても、他人にしたとしても私たちは相当な思い違いをすると思うんです。

私はあるイメージをしてお願いをします。

人間という共通しているという思いから、ある程度は一緒の願いことにはなるし、叶えてくれると思うんですけど、でも、そこに違いがある。

多元論も正誤ではない

一元論とか、二元論、多元論、存在がないとする論の難点は証明が出来ないと言う点にあります。

物理的な証拠をだせない。

といっても、量子力学では人間の見方、視線があるないによって現実が変わると言うことが示されたりはしていますよね。

こういったものを集めて証拠とすることは何かでは可能なのかもしれないですけど、今のところは真実というような正しいことは言うことが出来ないんです。

 

となると、お願い事をして叶えてもらう。

私はあるイメージに従う。

相手もあるイメージに従う。

そして、それが実行されたとしてそこに間違いはないんですよね。

 

私はきっと相手が間違っている解釈をしたとしても、私の伝え方が悪かったのだと思うでしょう。

そして、言葉を重ねて私の真実を伝えようとはするんですよ。

でも、それがどこまで可能かというのはあるんです。

 

もし魔人に対して、人間の知識で伝えようとしても私が考えられていないところで価値観の違いが発生しているかもしれないんですよね。

魔人にとっての願いの叶え方と私にとって叶えて欲しい願いが違っている。

 

そして、多元論で言えばどちらも存在しているという話になります。

あっているか、あっていないは他の論でも立証できません。

それぞれの立場があって、それぞれが真実だと思っていることがあるということ。

 

そして、今まで言われてきた多元論と違う点は、世界はない、ですね。

包括する一つの常識とか、枠組みがない。

 

魔人と私でどちらがあっていると主張することは難しいという話です。

ここに大きな枠組みがない多元論が存在しているという話になります。

 

では、今日も聞いていただいてありがとうございました。

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