「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑥岡倉天心「茶の本」とナショナリズム
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
>>②自由論と中江兆民(なかえちょうみん)
>>③内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)
>>④教育勅語(きょういくちょくご)と「戦前」の日本
>>⑤徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム
この頃に、「日本人」という概念が出来上がっていった
- 1894年日清戦争
- 1904年日露戦争
- 1914年第一次世界大戦
- 1926年〜1946年第二次世界大戦
この時代の方針は2つあったと徳富蘇峰は述べました。
>>徳富蘇峰とジャーナリズム
時代の方針2つ
- 「脱亜論」⇒中国と日本が同一視されるかぎり、日本は欧米から自己にふさわしい認知を得られないので、アジアを脱するという考え方
- アジア盟主論⇒「東洋の平和の番人としての日本」として、自尊心を表明。東西文明の融合者に日本がなる
>>ビゴーの風刺画
- 「武士道」新渡戸稲造(1899年)
- 「代表的日本人」内村鑑三(1894年《改正版1908年》)
- 「茶の本」岡倉天心(1906年)
- 岡倉天心「茶の本」
- 岡倉天心とナショナリズム
参考文献 茶の本(岡倉覚三著、村岡博訳)
岡倉天心「茶の本」
英語で本が出版された背景をまずは見ていきます。
日清戦争(1894年)。
日清戦争には大義があったと、多くの著名人が考えていたそうです。
しかし、日露戦争(1904年)になると反対派が増えました。
内村鑑三は非戦論(戦争絶対的廃止論)を説いています。
>>内村鑑三と二つのJ
開戦論の主張の一つとして、日本が戦争しなければ植民地にされてしまうという危惧がありました。
黄的悪寒(こうてきおかん)というように、西洋では黄色人種(日本人や東洋人の皮膚の色によって分別された人種の総称)を野蛮人として見る風潮があったからです。
自分とは別の物、という価値観は敵対視されやすい
二十世紀の初めに、もしロシアがへりくだって日本をよく了解していたら、血なまぐさい戦争の光景は見ないで済んだであろうに。東洋の問題をさげすんで度外視すれば、なんという恐ろしい結果が人類に及ぶことであろう。‐諸君(西洋人に向けて)は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!
「茶の本」岡倉覚三著 村岡博訳p26
皮肉の聞いた文章がこちら。
西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。
しかるに満州の戦場に大々的殺戮(さつりく)を行い始めてから文明国と呼んでいる。
「茶の本」p23
岡倉天心はものごとの表面構造(文明国と野蛮国)だけでなく、その矛盾(戦争をする文明国は野蛮)も的確につかんでいました。
日本の文化を紹介する
岡倉天心著「茶の本」は、茶道の本ではありません。
この本を茶の専門家がみれば怒るかもしれない、と断りが入っています。
専門家ではない視点から、日本文化の良さを伝えています。
- 茶道は日常生活の俗事の中に存する美しいものを崇拝する儀式
- 茶道は「不完全なもの」を崇拝する
>>無常観と日本文化 - 茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である
- 茶の儀式は仏教徒の間で組み立てられた
>>日本仏教 - 茶道は道教の仮りの姿
>>老子の教え - 茶道の理想は禅の考え方からでてきた
>>道元と禅 - 道教は浮世をこんなものだとあきらめて、この憂き世の中にも美を見いだそうと努めている。
- 道教徒における美は、何者かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる
- 美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできる
「茶の本」は海外でとても好評でした。
その背景には、19世紀後半に日本の美術工芸品(特に浮世絵)がヨーロッパを中心に広まり、高い評価を受けたムーブメント(ジョポニスム)があったからです。
日本の工芸品の思想を、西洋は知りたがりました。
「茶の本」と現代批判
ちなみに、「茶の本」は時代を先取りしていたかのように、現代批判をしています。
「偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。」
傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。
– 名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。
「茶の本」p69、p70
「映画を早送りで観る人たち」という本が売れているよね
他にも現代に当てはまる批判に関して。
われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。
高雅なものではなく、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。
「茶の本」p74
(民本主義⇒吉野作造(1878-1933)が唱えた民主主義思想。
政治の目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべきと主張。
民主主義との違いは、主権が天皇にある点。)
岡倉天心は現代社会を見越していたかのようです。
岡倉天心とナショナリズム
岡倉天心の説いた有名な一文。
「アジアは一つ」(Asia is one)
『東洋の理想』
『東洋の理想』の次に米国で出版されたのが『日本の目覚め』。
『日本の目覚め』では、近代日本の興起を語って黄禍よりも白禍を唱え、「亜細亜(アジア)の夜は明けはなれた。しかし世界はなお薄明の中にある。平和の福音を学び得るの日は何時であらう」となげくのである。
「茶の本」解説個所p104
(黄禍⇒黄色人種の勢いが盛んになって、他人種、特に白色人種に及ぼすという災禍のこと。)
『日本の目覚め』の次が『茶の本』です。
天心は東洋精神の独立や、東洋芸術のすばらしさを伝え、明治以降における日本美術概念の成立に貢献しました。
しかし、ナショナリズムは逆に作用することもあります。
ナショナリズム(自分たち国民、民族を重視するという考え)
- 国家主義(国民に国家への奉仕を求める)
- 国粋主義(その国に固有の文化的価値を尊ぶ。教科書では国粋主義の注釈で岡倉天心が紹介されていた)
- 国民主義(ナショナリズムとデモクラシー〈民主主義、民主政体〉の総合を意図)
戦争に使われた標語
天心の「アジアは一つ」という言葉は、後に大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)を支える政治的なスローガンとし て利用されることにもなりました。
アジアは一つの共同体であり、欧米の支配から抜け出して自立して繁栄することを意図。
実態は日本の軍国主義を維持するための新たな植民地支配が行われた。
GHQが大東亜戦争という呼び方を禁止してからは、太平洋戦争が一般的になった
岡倉天心とナショナリズムをやりました。
次回は社会主義を取り扱います。