「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
⑦二宮尊徳と学問的精神の展開
>>①林羅山と江戸幕府
>>②中江藤樹と日本陽明学
>>③古学が流行した理由
>>④荻生徂徠(おぎゅうそらい)と経世済民
>>⑤本居宣長と国学
>>⑥石田梅岩の石門心学とは
戦前に全国の多くの小学校に建てられたよ。
尊徳の精神を教育の象徴にしたかったみたい
- 二宮尊徳の生涯と報徳思想
- その頃の学問的精神の展開
参考文献 代表的日本人(内村鑑三著、鈴木範久訳)、歴史書図鑑(伊藤賀一 監修)
二宮尊徳の生涯と報徳思想
二宮尊徳(1787-1856)の生まれは農民です。
二宮尊徳の少年時代
二宮尊徳は幼いころに両親を亡くし、伯父さんに引き取られました。
位は農民であっても、字は読めるようでありたい、との思いから孔子の『大学』を一冊購入。
普段は家のために懸命に働き、仕事が終わると本を読みふけりました。
二宮尊徳の課題
何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を持つようになりました。
その名声も各地に広まっていきます。
それに目をつけたのが小田原藩主。
小田原藩には数年にわたって放置されていた三つの村がありました。
三村は栄えていたときは年貢を4000俵とれていたのですが、今はせいぜい800俵です。
「かような援助は、食欲と怠け癖を引き起こし、しばしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自分で立ち直らせなくてはなりません。」
「代表的日本人」p86 尊徳の言葉から抜粋
魚をあげるんじゃなくて、魚の釣り方を教える
- 「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
- 「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない」
- 「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かしうる」
- 「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」
代表的日本人p100
後には、尊徳の名と教えとにより結ばれた農民団体(報徳社)がみられるようになりました。
二宮尊徳の思想
教科書からのポイントをまとめます。
二宮尊徳は「農は万業の大本」と唱えました。
農業は万物を成長させる天道と、それに従いながら努力する人道によって成り立つと説いたのです。
だから、報徳社って名前が尊徳に由来しているんだね
尊徳自身は生涯働き続けた人だったらしい
二宮尊徳より前の学問的精神の展開
農民や町民の思想として、二宮尊徳よりも少し前の人物を紹介します。
忘れられた思想家、安藤昌益(あんどうしょうえき)
安藤昌益(1703-1763)は、農耕を天地自然の本道と考え、人間生活の基本としました。
昌益は武士の支配する世の中を法世(ほうせい、差別と搾取の世界)と非難。
すべての人が農耕に従事し(万人直耕)、差別がない自然世(しぜんせい)への復帰を説きました。
- 法世⇒差別と搾取のある世界
- 自然世⇒みんな平等
さらに、昌益は儒学・仏教などの伝統的な教えは、法世をもたらしたものとして批判。
この思想は当時において受け入れられるものではないと思った昌益は、自分の本『自然真営道』を身近の人にだけ貸し出したり、配ったりしました。
本の多くは関東大震災で焼失。
その難を逃れた本だけが残っています。
1899年に昌益の本が発見され、カナダ外交官のハーバート=ノーマンが1950年著『忘れられた思想家‐安藤昌益』で紹介したことで、広く知られるようになりました。
富永仲基(とみながなかもと)の加上説
富永仲基(とみながなかもと、1715-1746)は、後代の思想は前代の思想に新しいものをつけ加えることによって展開されるとする加上説を唱えました。
加上説⇒後代に生まれた説話はその発展の歴史過程で、先発の説話より古い時代にそのルーツを求めて取り入れ加えられていき、複雑さを増していくもの
仏教の経典も釈迦の言葉とはかぎらないと考えたのです。
合理主義思想、山片蟠桃(やまがたばんとう)
山片蟠桃(やまがたばんとう、1748-1821)は大阪の商人として卓越した経営手腕を発揮。
地動説を認め、神代史を否定するなど、合理主義思想を展開しました。
江戸の思想家であり、自然哲学者とも呼ばれる三浦梅園(みうらばいえん)
三浦梅園(みうらばいえん、1723-1789)は医者ですが、江戸の思想家、自然哲学者と言われています。
朱子学の用語を使いながら、西洋哲学に通じる批判精神や懐疑精神のもとに、自然の「条理」(構成原理)を探求。
独創的な自然哲学の体系(条理学)をつくりました。
- 条理⇒自然界の生成運動の法則
- 条⇒木の枝
- 理⇒その筋をつくっている考え方の理脈のこと