「日本人としての自覚」
第3節「近世日本の思想」
⑤本居宣長と国学
- 国学大成までの経緯
- 本居宣長の国学大成
- その後の国学の流れ
本居宣長以前の国学
契沖は『万葉集』のなかに「古(いにしえ)の人の心」をたずね、注釈書『万葉代匠記』をあらわして、国学の基礎をきずいた。
倫理の教科書p98
契沖が国学の基礎をきずく
契沖(1640-1701)は古代の歴史的仮名遣いを発見した人物です。
それまでは藤原定家(1162-1241、公家・歌人)が定めていた定家仮名遣(ていかかなづかい)がありました。
なぜ定家は定家仮名遣いを定めたのか。
歌詠みの現場で困らないように、藤原定家は独自に規則を打ち立て、当時の人々にとって困らないようにしたのです。
その独自の規則を、古代の歴史的仮名遣いから正式に学問としたのが契沖です。
契沖は徹底的に文献に基づいて、実証的な研究を行いました。
それは日本古学のように、日本に歌が成立した頃の時代から文学を読み取るという手法であり、本居宣長に影響を与えました。
近代難波の契沖師此道の学問に通じ、すべて古書を引証し、中古以来の妄説をやぶり、云々」
「本居宣長とは誰か」p37 『排蘆小船』における宣長の言葉
契沖が出した数多くの本は、本居宣長を歌が盛りとなった古典文芸の世界へと導きました。
荷田春満(かだのあずままろ)
荷田春満(かだのあずままろ、1669-1736)は『日本書紀』神代巻の研究を通じて、古代の神の教えを明らかにしようとしました。
契沖より30歳ほど年下で、契沖が打ち立てた古書を読み解くという学問方法をとります。
ふみ分けよ大和にはあらぬ唐鳥の跡をみるのみ人の道かは
(荷田春満のよんだ和歌)「間違わないようにしなければならない。
大和のものではない唐鳥(中国由来の漢籍、漢字)の足跡ばかりを見るのは、人の道ではない。
(日本の書籍を学び理解することが大切ではないか)」
当時流行っていた仏教や儒学に対して、国学を尊重するべきだとする歌です。
荷田春満は国学の学校を建てることを進言した文書『創学校啓』を幕府(徳川吉宗の時代)に献じています。
賀茂真淵(かものまぶち)
賀茂真淵(かものまぶち、1697-1769)は荷田春満から学んだと言われています。
『万葉集』研究を主にやり、その歌風を男性的でおおらかな「ますらをぶり」と捉えました。
「ますらを」を漢字で書くと益荒男であり、立派な男子のことを意味します。
反対に女性的なことを「たをやめ(手弱女)」と表しました。
- ますらをぶり⇒男性的でおおらかな歌風
- たをやめぶり⇒女性的で優雅な歌風
賀茂真淵は「ますらをぶり」が良いとして、そこに「高く直き心」という理想的精神をとらえました。
さらに、古代の歌に漢字を仮名として表記されている言葉こそ、わが古語やまとことばである、と述べます。
賀茂真淵は一度、本居宣長と対面しています。
その物語は「松阪の一夜」と言い、以前は教科書に載っていました。
「松阪の一夜」内容まとめ
本居宣長が松阪の町はずれで、思いがけずに賀茂真淵と対面する機会があった。
宣長(当時34才)は30才以上年上の真淵に対して、「古事記を研究したい」という気持ちを伝える。
真淵は古事記を研究したいと思っていたけれど、万葉集を調べている間に年をとってしまったと述べ、
真淵「あなたはまだお若いから、しっかり努力したらきっとこの研究を大成できるでしょう」
と、いろいろとアドバイスを宣長に与える。
宣長は真淵の志を受けつぎ、35年の間努力しつづけて、古事記の研究を大成した。
本居宣長の国学大成
本居宣長(1730-1801)は国学を大成したと言われています。
なにをもって大成したと捉えられているのでしょうか。
賀茂真淵との会話からすれば、真淵は古事記を研究したかったけれどできなかった。
古事記研究を完成させたのが本居宣長であり、その意味で大成させた(完成させた、確立した)と捉えられます。
真淵はまず、『古事記』などの神典を正しく解こうとするには古の心(古意、いにしえごころ)をえなければならない、その古意をえるためには漢ごころ(漢意)を除き去らなければならないと教えます。この教えは宣長において「漢意批判」として体系化される国学の思考方法論です。『古事記』の伝承における古の心は、漢意を取り除くことによってはじめて明らかにされるというのです。
「本居宣長とは誰か」p56
でも『古事記』って全部漢字で書かれている書物だよね?
- 古事記原文「天地初発之時、」
- 古事記訓読「天地(あめつち)の初めて発(ひら)くるの時、」(渡会延佳訳)
- 古事記宣長訳「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、」
宣長以前は、訓読されるものとみなされた漢文テキストとしての『古事記』がありました。
訓読は漢字(漢意)優位です。
しかし、宣長は『古事記』のテキストは「古語のまま」に書かれたものだと言います。
「あめつち」がさきにあって、それに漢字「天地」が用いられたと解釈したのです。
- 訓読「天地⇒あめつち」と訳す
- 宣長訳「あめつち⇒天地」という漢字が当てられた
宣長は口誦(こうしょう、声を上げて読むこと)の話し言葉こそが日本固有の言語「やまとことば」だとしました。
つまり、口誦の古言(やまとことば)を表記するために借りた文字が漢字だと考えたのです。
『古事記』が「古語のまま」であることは、漢文テキストの訓みのレベルから、意味の読みのレベルまで貫徹されねばならないのです。これは『古事記』のよみの大きな転換です。このよみの転換こそ宣長の古学であり、国学であるといえます。
「本居宣長とは誰か」p145
「あめつち」を漢字で表すと「天地」って訳があっていたみたい。
「天地」から意味を解釈すると「漢意」になっちゃうから、あくまでも、「あめつち」から意味を推測する。
だから、後の尊王攘夷で天皇を尊敬しよう、とつながるのかな
>>神と古事記
もののあはれ
当時の江戸では、「もののあはれ」という人情概念が共有されていました。
江戸社会で一般的に使われていた言葉です。
この「もののあはれ」を宣長はとらえなおし、人に歌をもたらす根本的で、普遍的な心情概念としました。
神代から今に至り、末世の無窮に及ぶまで、よみ出づる和歌みな、あはれの一言より他なし。
伊勢源氏その他あらゆる物語までも、又その本意をたずぬれば、あはれの一言にてこれをおおふべし。
「本居宣長とは誰か」p82『安波礼弁(あはれべん)』より
つまり、歌物語は「あはれの一言」に帰すると宣長は考えました。
「物のあはれを知る心」というのは、者に触れることの多い人間生活においてさまざまに動く心のあり方です。
それは、まだ子どもは人間の感情経験の世界に織り込まれていないとみることが出来ます。
江戸で「あはれ」が流行っていたとすれば、古から今にいたるまでそのような感情経験の世界が日本に織り込まれているともとれます。
宣長は「もの」(客観)にふれたときにわきおこる、しみじみとした感情こそが文学や、人間性の本質であると主張しました。
本居宣長のその後
平田篤胤(ひらたあつたね、1776-1843)は宣長の「没後の門人(弟子)」を自称。
篤胤は神代史解釈にもとづいて復古神道を唱え、人の魂は死後もこの世にとどまり、人々を見守り続けるという独自の霊魂観を展開(『霊の真柱』)。
篤胤が説いた日本中心主義の主張は、民間にも支持され、幕末の尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に影響を与えました。
尊王攘夷とは
- 尊王⇒天皇を尊び政治の中心とする
- 攘夷⇒外国を追い払う。夷は外国、攘は追い払うこと。
その結果、尊王攘夷にもつながったんだね