命題的態度

命題的態度とは何か-区分けるということ。

おはようございます。けうです。

 

言葉の区分けについて話そうと思います。

人間、理性、自由意志、これって言葉が存在しているからあるんですよね。

では、なぜないと言う場合があるのかに関して話していこうと思います。

「意識がある」と「意識とは何か」を分ける

マルクス・ガブリエルさんの言葉を引用します。

「意識があることを知ることと、意識とは何かを知ることは、別物なのです。
だからこそ科学には意識と取り組む分野があり、その一つが哲学なのです。」

 

なぜ哲学が科学といわれるかの理由の一つに、私たちは意識がある、これが明確だからです。

そして意識はある、だから、その意識とは何かを哲学は説いています。

 

・意識がある

・意識とは何かを問う

この2つがあるということです。

 

おそらく、哲学をこの部分で規定した場合に、意識はない、とした結論を出すときに科学としての哲学を否定することになるのかもしれません。

 

科学的な哲学では、意識があるを前提にしているからです。

 

すると、多くの哲学書の解説に書かれているように、彼の哲学は思想だとか、哲学を超えているとか、哲学ではない、という態度となって現れるのではないかなと思います。

科学的な哲学の否定が前提に入ってくるので、その意味で哲学ではないんです。

 

まず根底にある哲学が教科としてできた理由として、意識とは何かが1つある。

その前提がないものだとしたときに、それは哲学ではなくなるということ。

 

哲学は他の学問の根本にもなると言われていますが、意識があるとして追究していく哲学はもしかしたら他の学問の基礎にならないのかもしれません。

 

その場合、名づけられていないけれど、まだ名づけられていない学問だからそれは哲学だと言う場合は、哲学を分けた方が理解がしやすいのではないかと思います。

 

そして、意識がある、それと意識とはなにか、二つを別物としたとき、意識とは何かについて詳しく見ていきます。

 

命題的態度とは

マルクス・ガブリエルは言います。

・・・ということというような文法をとり、それにたいして様々な態度をとることを命題的態度というそうです。

 

「命題的態度とは、ある事実に対してとる精神の態度のこと」

これは真か偽か、どちらかになるようなメッセージの内容が命題と呼ばれていて、精神状態、つまり知っている、期待する、信じる、恐れると結び付けられます。

 

これがいわゆる意識であり、科学的な哲学があるとするものです。

 

命題的態度によって正誤を判断する。

 

でも、哲学って真理がないといわれていますよね。

 

とすれば、真理が無いから、正誤がない、から命題的態度がない、という誤った推論がされてしまうと言われているんです。

 

命題的態度がある。

このことは意識があると同様に正しい。

 

でも、命題的態度があるということ

になると正誤の判断になってしまう。

 

ここでは何をいってもよくなる。

この場合に、人間に意識なんてないんだよ、なんて言えてしまう。

 

でも、この命題的態度があるということとは何か、という問いをたてるときに疑いと言う命題的態度が出現しているということ。

 

こうやって考えていくと、意識は存在しているということは言える。

 

「意識がある」は何を意味するのか

ただ意識とは何かに対しては議論の余地がある。

前提として意識があるとして、そこから議論ができるけれど、その中で正解は一つあって、それは意識があること。

 

 

具体例でいきます。

 

私はよく人に自由意志はあるのか、という哲学的問いを見ます。

その中で自由意志はないよ、というのはショーペンハウアーなんですが、この自由意志という言葉をつかっていますよね。

それはどういうことかと言うと、みんなが思い描いている自由意志はないよ、ということの言い換えだと私は考えています。

 

主体的に決めるとか、能動的に、自分で決めるという態度を持ち合わせた自由意志はない、ということで、自由意志という言葉なのか、枠組みなのか、そのものに対してはその言葉を使うんですよね。

 

自由意志はある。

ただ自由意志と昔から言われてきたものを否定する。

論理的に言えばそうなるのかなと思います。

 

カントの言う理性はみんなが思う理性とは違う。

フーコーの言う人間という意味は、みんなが思う人間とは違う。

 

このように区分けをすることで、哲学ができるのかなと思っています。

 

そして、哲学といえば前提を疑いますよね。

 

意識がある。

 

この事実は感覚に基づくので基礎にしたいことなんですが、この意識とは何かについての議論は、様々な捉えようがあるということです。

 

具体例-個性とは

例えば、個性という言葉。

人間の外見を個性というならば、みんなに特有の個性が備わっています。

でも、No1にならなくていい、だとかそういったものと個性がくっつきます。

すると、その個性は元からの意味とは外れてきます。

 

私が個性的でいたい、といったとき、元から個性を持っていたのに変ですよね。

だから、それが変だといわれたとき、個性とは何かについて議論が始まります。

きっと、私の言う個性と他の人がいう個性というイメージには開きがあるんですよ。

 

だから私のいう個性はこれ。

あなたのいう個性はこれ。

 

このような区分けが開始される。

普遍性とは-哲学は区分け

哲学は線をひくこととアルチュセールが言ったと昨日いいました。

私にとっての個性、あなたにとっての個性、線引きをして、それでも共通できる真理を探していくことが哲学でもあります。

ここに真理なんてない、という視点が加わってはいますけど、そうした場合になればその時代時代の普遍性を求めていくといったことで見てもいいのかもしれません。

私の言う個性とあなたの言う個性との共通点を普遍性としてみていくというような。

 

 

自由意志なんてない、心なんてない、意識なんてない、この言葉には矛盾をはらみます。

ただ、矛盾した上でいえることがあるとしたら、今まで思っていた自由意志なんてない、今まで定説に思われていた心なんてない、というように限定させることによって矛盾はなくなります。だから、一人一人の多様性があると言われるし、その分議論がでてくるんですよね。

 

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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