意識とは

意識とは何か-狂気を考える。

 

おはようございます。けうです。

 

私が好きなものを尋ねられました。

そして実際私はおいしいものが好きといったとします。

それは同語反復になると同時に、同語反復にはならない。

ということを話していこうかな、とおもいます。

意識-おいしいとはなにか

私がおいしいと思うものがおいしい。

世間一般がおいしいとみなすものがおいしい。

 

この二つが成立するんです。

前者は私にとっての特有かもしれない。

他の人がまずいとおもっていても私にとってはおいしいのだから、他の人にとっては私の美味しいは理解されない。

ここには私の主観があるんですよ。

 

後者は人気グルメランキング一位だとか、一般化しているもの。

これら、多くの人がおいしいとみなすものをおいしいと思うんです。

これは客観を意識しつつもその客観の中での自己をみている。

ここには客観もあり、主観もある状態です。

 

近代哲学の祖-デカルトの主観と客観

では、なぜ私たちは客観性を主張できるのか。

実際はおいしいだろうことがわかるのか。

このことを近代哲学、意識をうちたてたデカルトから見ていこうと思います。

 

我思うゆえに我あり

これが通じるのは、主観と客観がでてくる態度だとデカルトは説明します。

これがなぜ哲学的に真理ではないと言うのかといえば、

おいしいものがおいしい、といったときにどうして私においしいものと言われている一般性がわかるのか、という問いが浮かび上がるから。

 

デカルトは主観だけを主張していたけれど、美味しいモノの一般性というような客観性をそこに認めている。

だから、ここに主観と客観がでてきた。

主観を思いつつも、客観性という神様を出現させたんですよね。

その場合その神様である客観も疑うことももちろんできるので、デカルト批判もできるんです。

 

我思う故に我あり。

我思うという原因から結果を言うことができないとする態度。

この場合、デカルトが主張していたのが主観だけなので、我思うだけが正解なのではないか、という態度だけ主張するなら、デカルトを否定することになるんです。

 

 

この主観に対する議論に対しては、デカルトは神という客観をたてて答えてます。

客観がなぜ出てくるのか、といったところに神がでてくる。

美味しいものが美味しいと分かるところに神がでてきて客観が成立する。

そして、意識が発見されたのがデカルトの主観と客観の発生にたいして。

なので、この意識という言葉がなりたつ。

意識があると私たちが実感しているから、意識があるということが基礎になる。

昨日の命題として、意識がある。

科学的な近代哲学である意識がここから発生しているんです。

 

昨日の命題的態度で言えば、意識と意識というものとはなにか、という問いとわけられますね。

おいしいがある。(意識)

おいしいものとはなにか(意識というもの)、という問いとわけられる。

おいしいものがわかっているという時点で神様の存在がでてくる。

 

現代哲学から

今の哲学ではどちらが主流なのかというと、スピノザが取りだたされています。

スピノザは凡神論を唱えている。

これは従来の神の捉え方とは違っているので決してスピリチュアルというわけではない。

主観と客観は一致していると説く一元論。

そして、この一致していることを美味しいで考えてみます。

 

私たちは美味しいモノが分かっている。

分かっていて、かつ美味しいものが美味しいといえる。

外から見ている神のような絶対者は存在していなくて、私がそう思うからそれがあるということになる。

おいしいと私が実際おもっているという実際の根拠を自分にしている

私を外から見ている神の存在ではなくて、神が私でもあると言う一元論の立場にたつ。

日本で言うアニミズムに近いのかなと思いますが、私がアニミズムをよくわかってはいないので、まだ不勉強です。

 

そして、この一元論でも我思うゆえに我ありを言うことができる。

客観を自分に持つことでこのことを言える。

おいしいものがおいしいから好きというのが1つの意味として捉えられる場合と考えればいいのかもしれません。

 

一元論の否定

でも、またここで思うのは私は美味しいと言うことを知っているけれど、美味しいものをまずいということもできる。

客観的には美味しいだろうけど、私は美味しいものはまずく感じるんだよね、といっても通じる。

その場合の意味としては、ジャンクフードを食べてばかりいて舌が悪いということを言っているのかもしれない。

そして、私だけがまずいと感じると言うことができる。

実際に感じる私がいる。

こうなると一元論ではすべてを説明できない。

スピノザは一元論ですが、今の新実在論なんかは多元論ですね。

 

狂人論

狂人論

 

そしてアルチュセールに言わせれば、私たちが普通においしいものと発言すること。

私たちがあなたといわれて私だと思えること。

ここには疑似意識が働いていて、そこに私たちの異常な想像力がつけ加えられている。

そして、その想像力をほんとうのものであると信じている。

それを疑わない。

おいしいものをおいしいと疑わない。

論理的に説明していくと意識という概念がわからなくなるのに、でも、私たちは普通に私があると実際感じている。

このことを狂気と呼んでいる。

だから、かえって疑うこと。

「なぜ呼ばれている私が私なのか。」

と疑うことが狂気ではなくなる。

でも、私たちは狂気のイメージとしては少数派として世間一般といっていることが違うこと、と思うかもしれないけれど、私たちの想像力、それを疑わないところに狂気が潜んでいると述べている。

 

「イデオロギー論は、『もっとも単純な身振りが』我々にとってもっとも単純なものでありうるためには、神の声が聞こえる預言者=狂人にならなくてはいけない。」

 

ちょっと混乱があるかもしれないけれど、私たちが人と普通に意志疎通しているのの元には預言者=狂人という疑似意識があるということ。

そして、狂人というのが変だったとしたら、私たちは二項対立の脱構築によって、その狂人と言うのも常識人というように変えることができるということ。

似た言葉に再構築という言葉もありますよね。

もしかしたら、これは疑似意識にさらに疑似意識を重ね合わせることになっていくのかな、なんて思いました。

心理学での応用

これを応用して考えていくと、心理学では何か理由をつけてお願いすると聞いてくれやすくなるとかいいますよね。

コピーをしたいからコピー機の順番をゆずってくれ、とか。

車から降りるから下りてくれ、とか。

何か理由があるかのようにいうけれど、理由がない。

私たちはただたんに形式としてもそういうものを受け入れているのかな、と思います。

あとがき

さらに、人は信じていることを疑われるとちょっと嫌だって思ったりしますよね。

嫌われてしまったりします。

人間の元が疑似意識、予言を信じているものだったとして、今なら先入観といったほうがいいのかな。先入観をやぶっても、また先入観がでてくるといった感じです。

信じているものを疑わせる哲学者って、やっぱり特定の人には嫌われてしまうんだろうな。そして、死なないように気をつけるのが哲学者といわれているのも、こんなことからきているのかな、なんてぼんやりと思いました。

それでも、その人のことを嫌いと思う時、思考停止が働いていると思うんですよ。

どこまでも疑いえるものなのに、嫌いと判断する。

反対に好きと判断することも。

こうやって人は考えることが嫌い、にも繋がっていくのかな、なんて思いました。

「哲学とは理論における階級闘争だ。」と、アルチュセールはいいますけど、対話による闘争がありますよね。

 

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

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