「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
8.キルケゴールと質的弁証法
>>1.アダム=スミスと「見えざる手」
>>2.ベンサムと「最大多数の最大幸福」
>>3.ミルと功利主義の修正
>>4.社会学とベルクソン
>>5.プラグマティズムとは何か
>>6.空想的社会主義とは何か
>>7.科学的社会主義とマルクス
キルケゴールとマルクスは、ほとんど同じ時期にヘーゲル批判の活動をはじめたのであるが、相互にその思想を知りあう機会はなかった。しかしこの二人は、危機の時代・変革の時代といわれる現代の人間の運命を、するどく予言してその処方箋を書いた巨人である。マルクスは人間の外的・客観的条件を科学的に分析し、キルケゴールは人間の内的・主体的条件を文学的・宗教的に分析したのではあったが。
(キルケゴールp34)
この語は、「人間」一般のような本質的な存在ではなく、この「わたし」のような現実的な存在をさす。
- キルケゴールと質的弁証法
- キルケゴールと実存主義
参考文献 「キルケゴール 人と思想」工藤綏夫、「永遠の単独者 S.キルケゴールの生涯と思想」小副川幸福孝、「哲学用語図鑑」田中正人著、斎藤哲也監修
キルケゴールと質的弁証法
キルケゴール(1813-1855)は「私にとって真理である真理」が大事だとする立場をとりました。
そこに至るには論理的な弁証法をとっています。
このより恐ろしい危険、絶対にうしなってはならない人生の高い目標の喪失、これが、精神としての自己、人格としての自己をうしなうということである。これこそが、人格にとっての真の死を意味する。そして、これが絶望なのだ。絶望においては、死を死ぬことすらもできない。人間の死にたいする不安などとはくらべものにならないほどの苦悩が、この絶望というものなのだ。
(キルケゴールp180)
実存の第一段階「美的実存」
第一段階の「美的実存」は、快楽を追求することで人生を充実させようとするあり方です。
この段階をAさんとします。
Aさんは「人生は無に満ちているのだから、せめて、生きているうちに楽しもう!」という立場。
その時その時を楽しく過ごすことに全力をそそぎます。
(アダムは人間の意味も持つ)
動物は絶望しないからといって、動物であることをねがう者があろうか。無知者ならば奴隷状態に満足できるからといって、教養のない人間の自由なき幸福をうらやむ者があろうか。絶望としたしみ、絶望に鍛えられ、絶望を跳躍台としてのみ、精神としての自己の高貴さが実現されていくのである。
(キルケゴールp184)
そこで、Bさんが登場してAさんにこう告げます。
Bさん「絶望せよ!」
Aさんが自己を持っているのにも関わらず、その自己が本来的自己でないことをBさんは批判しているのです。
Aさんの状態は平均化・画一化された自己であり、「あれも、これも」とりこむような個物と化した自己だ、と。
つまり、Aさんは絶望の状態にあるのだから、「その絶望に気づけ!その満足は欺瞞だ!」とBさんは訴えているのです。
言葉によってものごとを思考する人間は、本質的に対話的存在である。人は自分自身、あるいは他者との対話によって、その精神的行為を行う。対話のない精神は、何も考えていないか、死滅しているかのどちらかである。
(永遠の単独者S.キルケゴールp4343の3820)
絶望の第二段階「倫理的実存」
第二段階は絶望した状態からスタートします。
そう、Bさんは絶望した第二段階の「倫理的実存」からAさんに呼びかけていたのです。
人生において肝要なことは、「選択されるものの真実性などではなくて、実際に選択するという現実性なのであって、これこそが決定的なことなのである。」「正統なものを選ぶことが問題なのではなく、むしろ選択のために用いられる意力(エネルギー)、その情熱(パトス)、その真剣さが問題なのである。」自分じしんがそれを自分の課題として選びとろうとする態度なしには、いかなる理念も、倫理的な善悪という意味をもつことはできない。‐自分の意志の刻印をおし、これをわがものとする。だから、倫理的人生こそ最善のものであり、審美的人生(美的実存)よりもはるかに高く、かつ内容ゆたかなものであるといわねばならない。
(キルケゴールp111)
弱さの絶望
自己があるものに憧れた時、そのものにどうしてもなれないことに気がつきます。
何をやってもうまくいく気がしない…
強さの絶望
絶望して、自分自身であろうと欲することも絶望です。
ここでの自己は、永遠者へと自己を結びあわせるべきであることを意識していながら、この永遠者が本来の自己を恵み与えてくれるかどうかが不確実であることと、このような不確実なものとのかかわりのために現実の自己を否定しなければならないということに腹を立てて、反抗的に自我を固執し、自我を絶対視してその上に傲慢(ごうまん)に居直るのである。
(キルケゴールp186)
「きっちりと錠のおろされた内面性」とか、「悪魔的な狂乱」とか名づけられる絶望状態が、これである。
(キルケゴールp187)
ソクラテスの限界
ソクラテスは偉大な思想家であったが、絶望が神の前で罪となることを知らなかった。だからかれは、無知が最大の悪徳であるということができた。
(キルケゴールp187)
ソクラテスは、罪が、知性の立場から意志の立場への飛躍によって成立するものであることを、自覚することができなかったのである。
(キルケゴールp188)
人間は自分が罪のなかにいるのであるから、自分自身の力で、自分自身の口から、罪がなんであるかを明言することはできない。‐それゆえにキリスト教はまた、それとは違った仕方で、すなわち、罪がなんであるかを人間に解き明かすためには神からの啓示がなくてはならないということをもって、始めるのである。つまり、罪は、人間が正しいことを理解しなかったということにあるのではなく、人間がそれを理解しようと欲しないことに、人間がそれを欲しないことにある、というのである。
(キルケゴールp188)
正しさとは何かといえば、神からの啓示によってしか示されない
絶望の第三段階「宗教的実存」
アブラハムにとって最大限の絶望だと思われても、それは善の行為でもある
倫理と宗教
キルケゴールは「倫理的実存」と「宗教的実存」において、倫理を2つに分けています。
「倫理的実存」段階は第一の倫理。
これが普段私たちが使うようなルール的な良いとされるような行動です。
例えば、ゴミを捨ててはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、などです。
個別者は普遍的なもののうちに自己の目的をもつものであって、かれの倫理的課題は、自分自身をつねに普遍的なもののうちに表現し、自己の個別性を捨てて普遍的なものとなることである。
(キルケゴールp115)
でも、許せないのは一般的な道徳では悪いことだから、許すしかない…
宗教
宗教は罪の自覚から出発して、罪の救済を、人間を超越した絶対者(神)の力によって成就する。このような宗教によって基礎づけられることによって、第二の倫理学が可能となる。第二の倫理学は、現実の救済をめざして下から上へと動く。‐第二の倫理学では、我執の根をあらわにしてこれを絶対者の力によってたちきることを決断することによって、罪なる自己の我執から完全に自己を解放し、自由なる自己を絶対者から受けとりなおすことが課題となる。
(キルケゴールp123)
人間は、不安にうながされ、不安を跳躍のバネとして、我執の自己から罪の自覚へ、罪の自覚から信仰の決断へと飛躍するのである。
(キルケゴールp123)
例えば、この「不安」はアダムが知恵の実を食べるように選択させた神の意図からも見ることができます。
神は知恵の実を食べてはいけないと言いながら、それを食べられる状態にしておきました。
このように人を不安にさせる自由や選択にこそ、神が求めているものがあるとも解釈ができるのです。
(宗教的実存段階における)善とは、罪なる現実をはっきりと自覚して、この罪なる自己を救済してくれる神の愛を信じ、神にいっさいをゆだねて生きようとすることであり、悪とは、不信仰によって神にそむいて、罪の不自由にますます深くはまりこんでいくことである。
(キルケゴールp125)
キルケゴールは各段階ごとに、偉人を例にだしています。
ヘーゲルよりもソクラテスを学ぶべきであり、さらにソクラテスよりもイエスに倣ぶ(まなぶ)べきである、と。
ちなみに、絶望のバイブルは彼の主著『死に至る病』と言われています。
「死に至る病」という題名は、イエスの言葉「この病は死に至らず」からきています。
イエスが病気で肉体的に死んでいたラザロを復活させる。
つまり、肉体的なものでは死に至らないけれど、精神的な絶望によって死に至ることを意味します。
この著はキルケゴールが肉体的に死ぬと思っていた33歳(イエスが死んだ年齢)を越えてから書かれました。
キルケゴールと実存主義
キルケゴールは実存哲学の祖と言われています。
この絶望状態を抜け出す思想が実存主義。
キルケゴールの「実存宣言」といわれている手記を紹介します。
私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきかということについて、私じしんに決心がつかないでいることなのだ。
私の使命を理解することが問題なのだ。
私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生きそして死ぬことをねがうようなイデーを発見することが必要なのだ。
いわゆる客観的な真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役にたつだろう。
‐真理とは、イデーのために生きること以外の何であろう。
私に欠けているものはまさしくこれなのだ。
だから私はそれを求めて努力しよう。
(キルケゴールp54)
この宣言は1835年に書かれたと言われています。
キルケゴールはその頃ソクラテスに憧れていたので、このイデーはプラトンの述べたイデア(理想像)と解釈できます。
けれど、彼の著書で『実存』という語がつかわれたのは、それから10年ほどたった1846年キルケゴール33歳で自分が死ぬと思っていた年齢で出された著作。
彼の著書『哲学的断片への完結的、非学問的なあとがき‐演技的、情熱的、弁証法的雑録、実存的陳述』の中で、実存という言葉が初めて使われました。
「実存」という翻訳語は、もともと、現実の真実の存在という意味でつくられたものである。
実存とは、まず第一に、現実の存在を意味する。
現実の存在は、いつでも、どこでも、だれでもそれでありうるような、普遍的な妥当性をもって通用する「本質」とはちがって、特定の限定された時・空において実存在する具体的な存在である。
「いま、ここに、こうして在る」ということが、現実の存在にとっての第一次的な特徴である。
(キルケゴールp145)
題名にある『非学問的』というのは「自己が真の自己となる」ことを意味する「自己生成」の真理(自分だけの真理)であることを意味します。
実存と思考の関係
実存と思考の関係について、本から抜粋します。
時間のうちにありながら永遠なものに達しようと無限の努力をするところに、実存の本質がある。
ところで人間は実存者であるとともに思惟(思考)する存在者である。
みずから永遠である神は実存することも思惟することもない。
しかるに人間は実存し、かつ思惟する。
この実存と思惟とがはなればなれになるとき、思惟するものがみずから実存者であることが忘れられてしまう。
そこに思弁と呼ばれる抽象的な思惟がはじまる。
しかし思惟するものがみずからの実存を忘れることなく、むしろ実存しながらその実存を思惟のうちに表現するとき、その思惟は実存的となる。
(キルケゴールp147桝田啓三郎氏の要点抜粋)
「人間は考える葦(草)」を思い出すね
実存哲学
キルケゴールは愛するレギーネという女性に向けて本を書いていました。
レギーネを真のキリスト者(宗教的実存段階)へと覚醒させようとしたのです。
キルケゴールは偽名を使い、その偽名の書物が有名になっても自分の名前を公表しませんでした。
キルケゴールいわく、彼は人々を「真理のなかへとだましこもうとした」のです。
自発的、自覚的な真理にはならない
二人とも自身の神への崇拝はすごいものがあっただろうに、表現としては軽い
パスカルの「神がいる方に賭ける」とか、「君が怪物だということがわかるまで、褒めたり卑しめたりしよう」というのは印象的だよね