フランクフルト学派

フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」|高校倫理1章5節4

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
4.フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」
を扱っていきます。
前回は「言葉への反省」から、ウィトゲンシュタインの哲学を見てきました。
今回から、「理性の働きへの反省」を見ていきます。
科学技術が発達したことにより、それが世界を滅ぼしうることがわかってきました。
世界を滅ぼしうるのは、一つに理性の働きです。
第一次大戦後(1914-1918)、大二次世界大戦(1939-1945)の頃。
1904年日露戦争で、初めて機関銃が本格的に用いられました。
戦車が第一次大戦。
大二次大戦では空爆が一般化。
1945年に二度の核実験。
1952年には水爆実験の成功。
このように20世紀前半は、戦争や殺戮の規模の拡大や、飛躍的な技術発展があったのです。(フランクフルト学派p108参照)
半世紀で人類は世界を滅ぼせるようになってしまった
1930年にドイツのフランクフルト大学に創設された社会研究所の所長にホルクハイマーが就任しました。
それ以降、そこから紡ぎ出された思想が戦後に「フランクフルト学派」と呼ばれるようになります。
フランクフルト学派⇒ヨーロッパ文明をさまざまな角度から鋭く批判する思想家の集団。
特にファシズムやナチズムにいたった「新たな野蛮状態」がなぜうみだされたのか考察した。
ブログ内容
  • フランクフルト学派と「新たな野蛮状態」
  • フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」
  • フランクフルト学派とナチズム

参考文献 「『啓蒙の弁証法』を読む」(上野成利、高幣秀知、細見和之 編)、「フランクフルト学派」(細見和之)、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム 日高六郎訳)、心理学用語大全(田中正人、斎藤勇、玉井麻由子)、「ナチスは「良いこと」もしたのか?」(小野寺拓也、田野大輔)

フランクフルト学派と「新たな野蛮状態」

フランクフルト学派のホルクハイマー(1895-1973)とアドルノ(1903-1963)は二人で『啓蒙の弁証法』という本を書きました。

その序文。

なぜ人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか。
(『啓蒙の弁証法』を読む』p vii)

野蛮状態?ってどこかで聞いたような響き…
アドルノとホルクハイマーは哲学の歴史を追っています。
例えば、倫理の教科書ではホッブズにはじまる「自然状態」から社会契約説を見てきました。
社会契約説はホッブズ、ロックルソーの三人が有名。
そのルソーは啓蒙はかならずしも人間を良くするわけではない、と説きました。
このルソーの考えに影響を受けたのかカント
理性を持つ人間は小悪魔的な側面があるとカントは説くのですが、啓蒙の力を信じます。
いずれの日にか、ゆっくりゆっくりではあるけれど、啓蒙の力によって永久平和が実現するだろうと説きました。
年代的に、カント(1724-1804)は20世紀には科学の力による地球が滅亡しうることを予知できなかったのではないかと予想ができます。
新たな野蛮状態とは、自然状態から思想を紡いできた哲学の歴史に、新たに地球が滅亡しうるという前提を加えた議論です。
そういえば、晩年のマルクスは資本主義が移行する前に地球が持たないという視点にたっていた。
マルクス視点もフランクフルト学派は取り入れている
他にもニーチェの「力への意志」視点もあるし、ヘーゲルの「弁証法」視点もある。
また答えを一つにしないというようなハイデガー後期ウィトゲンシュタインの視点、無意識を取り入れているというフロイトの視点もある
『啓蒙の弁証法』は難しいと言われている理由は、これらの知識を必要とするからかもしれません。

批判的理性の復権

とはいえ、フランクフルト学派の内容は理性を批判するもの(批判的理性の復権)です。
たくさん知識を前提とするのに、内容は理性批判!?
哲学の批判とは、一つに判断停止(エポケー)のこと。
これは悪だ!とか、善だ!という判断をしない宙に浮いた状態を維持すること
知識は前提としつつも、その前提を揺るがすような本が『啓蒙の弁証法』なのです。
理性は良いものだとする一方で、悪いものだとする、といったような揺さぶりをかけてきます。
『啓蒙の弁証法』は、明確な答えを出しません。
われわれに「反省」や、現状を認識することや、矛盾を見据えることを促してきます。
総じて、啓蒙を啓蒙すること、いわばメタレベルで啓蒙を捉え返すことによって啓蒙の自己省察を追求することがこの論文(『啓蒙の弁証法』)の目的なのである。
(『啓蒙の弁証法』を読むp4)
では、どのような内容なのでしょうか?

フランクフルト学派と『啓蒙の弁証法』

まず、哲学者ベーコンを引用して本の大まかな内容を探ってみます。

ベーコンの矛盾

ベーコンと言えば「知は力なり」
科学的知識を実生活に役立てると良い、ということをベーコンは説きました。
ベーコンより以前は、科学的知識と実生活というのは離れていたのです。
例えば、奴隷が体を動かして貴族が思考をする、というように。
しかし、ベーコンは人間同士の階級は無視しました。
代わりに、人間は自然を支配できる、という考え方がでてきたのです。
「われわれは、発明にあたって自然の導きに従っていけば、それによって実践の上では、自然に命令することになろう」
(『啓蒙の弁証法』を読むp6 ベーコンからの引用)
人間が最終的に自然に命令するために、自然の導きに従っていくことをベーコンは説いています。
では、最終的にベーコンの目的は何だったのでしょうか?
一つに人類の福祉(幸せ)です。
貧困にあえいでいた現実を、科学技術によって克服することが人類の福祉だと考えました。
この頃はまだ魔女裁判だってあったし、お肉は腐らせないようにするじゃなくて腐らせる前に食べるだった
けれど、人が感じる幸せとは、自然的なもの。
自然(脅威な部分)を支配しつつ、その結果としては自然(幸福な部分)を求めるというような矛盾状態に人類はいるのです。
『啓蒙の弁証法』では、その矛盾によって戦争やナチズムのような破壊活動がでてきてしまったのではないか、と説きます。

『啓蒙の弁証法』の二つのテーゼ

いきなりベーコンの思想が戦争やナチズムにいくなんて、論理の飛躍だ、と思った方もいるかもしれません。
その指摘を見据えるような2つのテーゼを『啓蒙の弁証法』はかかげます。
  1. すでに神話は啓蒙である
  2. 啓蒙は神話に退化する
    (『啓蒙の弁証法』を読むp3)
『啓蒙の弁証法』は一つのメルヘン(空想的な物語)として読まれることも望んでいるのです。
例えば、「昔々あるところに」という童話が子どもの心に影響を与えると言われているようなもので、メルヘンは大人にもさまざまな側面を見せるのです。
メルヘンは、善悪じゃなくてその中間や矛盾を感じさせるものを意図している
実際に物語を参照にしていきましょう。

すでに神話は啓蒙である

『啓蒙の弁証法』では『オデュッセイア』(叙事詩)に登場するオデュッセウス(主人公)をみていきます。

この物語は、オデュッセウスという人間が神々や怪物と対決し、その世界を脱出していく物語です。

物語の一部

  • オデュッセウスが一つ目巨人と対決したときに、私の名前は「ノーバディ(誰でもないもの)」と伝えることで、巨人から逃げた話。
    巨人は仲間を呼ぼうとしたが、仲間に「ノーバディがいるわけないだろ!」と冗談だと思われた
  • オデュッセウスがセイレーン(美しい歌声で人間を魅了し、人間は聞く以外何もしたくなくなり身を滅ぼす)を征服した話。
    仲間に耳栓をして、自分の指示に従わせた。
  • オデュッセウスは神よりも人間の目的を優先させ、神の力を解消してしまう。
  • オデュッセウスは性的衝動をコントロールすることによってキルケ―(魔女)を支配する

神話が人間の手によってメルヘンとして語られるとき、そこには人間の知略がはりめぐらされています。

つまり、メルヘンの伝えるような神話的なものとの対決、神話ののり越えのありようが可能になるのは、あくまで啓蒙を通過することによって、いいかえれば、神話的な暴力を引き継ぎ展開している啓蒙の主体性そのものの自己省察というかたちで、はじめてのことなのである。
『啓蒙の弁証法』を読むp60

つまり、物語において人間を他のものと分けるのは理性だということが語られるのです。
「すでに神話は啓蒙である」というのは、人間の理性的側面の強調でもあり、そのようにしてしか人間の物語にならないということが語られます。
だますとか、罠を張るとかいうのは、何か物悲しいものがある
多くの哲学者が人間を動物と分けるのは理性だと述べてきました。
『啓蒙の弁証法』ではそれも批判(判断保留)します。
オデュッセウスが困難を乗り越えた時、そこには歓喜だけではない何かもやもやしたものが残されるのです。
おいしくて安いお肉がたくさん食べられる!という背景を見ることを気が付かせるんだね

啓蒙は神話に退化する

「すでに神話は啓蒙である」を説明してきました。

次は「啓蒙は神話に退化する」例をいくつか述べます。

  • 『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の主人公ジュリエットは、自己保存への努力によって背徳的な快楽をひたすら追求した。
    (カントの定言命法(内なる〇〇をすべしという命令)を自己解釈した)
  • マルクスは現実の後に思想がつくられるとして、唯物論を説いた
  • 家父長制的な文明のもとで、弱き者としての女性は崇拝・畏敬されるとともに蔑視・憎悪される存在になる
  • ニーチェは「神は死んだ」としたけれど、人間は神的なものを求めるという解釈がされる。
    「権威を失墜した神がいっそう厳しい偶像となって戻って来る」(サド)
  • 文化産業が作りだした型通りの人間がオートマティックに再生産されていく
  • 人はしばしば「自分でものを考えろ」と言っておきながら、あらかじめ規定されたパターン(道具的理性)にたどり着くことを求める
  • マックス・ウェーバーは近代化を合理化としてとらえた。
    例えば、近代の官僚制はかえって形式主義におちいり、不合理な結果を生みだしてしまうとした

ここで問われているのは、自然支配を目指していった啓蒙のプロセスが「ついにその行きつく所、恐るべき自然へと逆戻りする」(『啓蒙の弁証法』を読むp65)という視点です。

人間は目的に幸せや享楽をおきますが、それが一種の「恐るべき自然の復讐」となって戻ってきます。

僕は幸せになってはいけない気がする…
自然を支配してきた人間の理性的側面が、最終目標すら支配しようとしてしまう。
そこには理性では語りえない神話化されたものがある
『啓蒙の弁証法』は啓蒙そのものに潜む問題を意識化することに取り組みました。
太古の神話時代の人々が、自然の圧倒的な脅威をまえに、ただひれ伏すことしかできなかったように、商品資本主義体制に暮らす現代の大衆もまた、社会システムの圧倒的な力にひたすら翻弄されるだけの無力な存在となった。
(『啓蒙の弁証法』を読むp115)
そして、「啓蒙が神話に退化する」というメルヘンによって、今日の権威主義的ポピュリズムやシニシズムの蔓延というような「新たな野蛮状態」が語られていきます。

フランクフルト学派とナチズム

このような解釈から、次は現実を分析していくという試みを『啓蒙の弁証法』は行います。

なぜ反ユダヤ主義は起こったのか?

「反ユダヤ主義はナチズムの中心にある狂気」だとして、それを解析しようとしたのです。

それは、自己批判を含む文明化批判として表現されます。

「ファシストはリベラリズムの正嫡子だ」、「ナチズムは‐現代の最も洗練された政治システム」だとして、その文明化の無意識的な欲求が「破壊の欲求」として出てきたのだと考えるのです。

破壊の欲求⇒「文明化という苦痛を伴うプロセスを完全には全うすることができなかった文明人たちの抱える破壊の欲求」
(『啓蒙の弁証法』を読むp128)

反ユダヤ主義問題を順を追ってみていきましょう。
前提①
  • 文明化とは欲動充足(幸福)の断念だとフロイトは指摘した
  • 文明化(啓蒙)という「進歩」は人間に無理を強いる
  • 人間は快楽や安逸をむさぼる存在でもあるので、無理はどこかに病的なものを生じさせる、とする

ここで登場するのがフロイトの無意識

人間は欲望をなくすのではなく、無意識下に置くという理論です。

このような前提に立った後、ナチスがとった反ユダヤ主義の政策の一つが優生思想でした。

ナチスが優遇した人々②

  • ナチ党にとって政治的に信用できる人
  • 「人種的」に問題がない人
  • 「遺伝的に健康」な人
  • 「反社会的」でもない人

ナチスは理性で人々を統制しようとしていきました。

ある規範を掲げて、これに沿えばより良くなる、というスローガンを打ち立てていったのです。

ナチスが台頭してきた背景には、第一次世界大戦によるドイツ敗北による経済不況。

経済的にわらをもすがる思いの人々が一致団結していって、ナチスは拡大していったのです。

人間は敵・味方を作ると一致団結して強くなる。
日本の戦争論にもつながるね
「ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本には、ナチスは基本的には戦争に勝つための政策を推し進めたとあった。
戦争自体を問うことはない道具的理性は、ホロコーストのような野蛮にすら服従してしまう
一致団結するには、スケープゴート(生贄)が必要とされ、それがユダヤ人になっていきます。
ユダヤ人の同一化と非同一化③
  • 反ユダヤ主義が起こる前、ユダヤ人は大衆と同一化していく方針をとった
  • 同一化というのは理性的ではなく、誰かに憧れているから真似してしまうとか、生きるために死んだふりをするとかいうように、本能的なものだとみなされる。
    同一化というのは元々人間に本能的にそなわっているものだとされる
  • 理性的な政策をとっていた大衆は、そのような本能的な策を気に入らない
  • 本能が同化しようとすることを、理性は排除しようとしてホロコーストを引き起こす
  • 支配欲によってのみ動かされる大衆は、幸せ(本能)を断念している
本来は「自分の中にある理性と本能との対立」を、「自分は理性で相手が本能」だとして支配しようとしてしまっている
例えば、なぜあの人が嫌いなのかといえば自分と似ているから。
実は羨ましいから嫌い、という理由なこともよくあるのです。

反ユダヤ主義の暴力の強烈さ④

  • 自己保存をおびやかすものは、魅力的でもある
  • 文明(啓蒙)は自然(本能)の他者ではない。
    内にあるものなのに、本能を無理やり押さえつけている
  • パラノイア患者は世界の中に自分の見たいものしか見ない
  • 反ユダヤ主義が帯びる病的な性格は投影行動(環境を自己に似せる)そのものではなく、その内に反省が欠如していることにある」(『啓蒙の弁証法』を読むp141)
  • 本当に他人事ならば、それほどの憎悪が生れてくることはない
  • 人はチケット思想(レッテル張り)によって、思考を省略することを好む
自分の葛藤が苦しくて、それを見ないようにすることはよくある。
その葛藤は自分の外にでてくる

全体を物語化するには、多少メルヘンが必要です。

理性と本能、同一と非同一、無意識の暴走などの物語によって、反ユダヤ主義は解釈されていきます。

そして、物語化されることによって、次への反省が促されるのです。

現実よりも物語としてなら捉えられることはよくある

いまたどってきた物語は現代社会でも問題視されています。

  • チケット思考(レッテル思想)=反ユダヤ主義=マイノリティ迫害一般に対するレッテル張り
  • 議論よりも相手をねじ伏せようとする支配欲に自分が支配されてしまっている
  • 「アドルノに言わせれば、人間の尊厳や自律性というカントの概念は、動物への憎悪と表裏一体」になる(『啓蒙の弁証法』を読むp229)

といったように、なぜかいじめる、なぜか排除する、といったことへの反省が求められているのです。

著者たちによれば、このねじれを否定するのではなくそれを受容し、生の矛盾をそのままに肯定するニーチェの「超人」としての思考が必要なのである。
『啓蒙の弁証法』p167

ニーチェの思想って一方でナチスに利用されたって言われているよね?
そこを想定して「『啓蒙の弁証法』を読む」ではこのように述べられています。
ニーチェは、ヒトラーがそうしたように、全体主義・独裁主義のイデオロギーになりかねない。
だがアドルノから見れば、「超人」とは、他者と比べて人並すぐれた超能力の持ち主ではなく、絶えず自己の限界を超えて行く自己超越・自己克服能力の持ち主のことである。
(p277)

結論づけることなく、否定をそのまま肯定するような視点を『啓蒙の弁証法』は促しています。

フロムと権威主義的性格

主著「自由からの逃走」で知られる社会心理学者のフロム(1900-1980)もまたフランクフルト学派です。

ナチズムを支えた社会的性格を権威主義的性格と名づけました。

権威主義的性格⇒多数派や権威を受け入れ、少数派を排除する社会的性格
現代人は魔術的な縛りから自由を手にいれたのですが、その自由は孤独で不安になるものでした。
そこから圧倒的な力に憧れてそれに従うという欲望(マゾヒズム)が目覚る。
そして、集団で弱者をいじめるという欲望(サディズム)に変化すると説くのです。
  • 近代になって縛りから解放され、現代人は自由を手にいれる
  • 自由は孤独で不安
  • 圧倒的な力や群れに憧れ、それに従うことで欲望(マゾヒズム)が目覚める
  • 集団で弱者をいじめる欲望(サディズム)が目覚める
    (心理学用語大全p243)
「自由からの逃走」では、人は自由よりも権威・絆・組織・集団・規則といった不自由を好むということを述べます。
とはいえ、「自由からの逃走」ではまた抑圧や強制からの解放という消極的な自由にとどまらず、主体的に自己の行為を選択する積極的自由の重要性も説いています。(教科書p174)

自由からの逃走

「自由からの逃走」からの引用。
-思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求にこたえるかぎりにおいてである。(自由からの逃走p310)
そして、その思想は反ユダヤ主義という理性的に見せかけた思想によって遂行されていきます。
権威主義的性格の人生にたいする態度やかれの全哲学は、かれが感情的に追求するものによって決定される。
権威主義的性格は、自分の自由を束縛するものを愛する。
かれは宿命に服従することを好む。
宿命がなにを意味するかは、かれの社会的位置によって左右される。
‐かれにとって、危機や繁栄は、人間の行動によって変更できる社会現象ではなくて、人間が服従しなければならない、優越した力のあらわれである。
(自由からの逃走p188)

つまり、理性に従っているようでいて、感情に従っている。

感情に従っているようでいて、それを理性で肯定しているという人間の様子を描きだしています。

フランクフルト学派の人々の多くは反ユダヤ主義の被害者だった。
にもかかわらず、理性の自己批判(誰にでも起こりうること)として思想を紡いでいった
今回はフランクフルト学派と『啓蒙の弁証法』をやりました。
次回はフランクフルト学派の一人ハーバーマスについて取り扱います。
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