「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
4.フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」
特にファシズムやナチズムにいたった「新たな野蛮状態」がなぜうみだされたのか考察した。
- フランクフルト学派と「新たな野蛮状態」
- フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」
- フランクフルト学派とナチズム
参考文献 「『啓蒙の弁証法』を読む」(上野成利、高幣秀知、細見和之 編)、「フランクフルト学派」(細見和之)、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム 日高六郎訳)、心理学用語大全(田中正人、斎藤勇、玉井麻由子)、「ナチスは「良いこと」もしたのか?」(小野寺拓也、田野大輔)
フランクフルト学派と「新たな野蛮状態」
フランクフルト学派のホルクハイマー(1895-1973)とアドルノ(1903-1963)は二人で『啓蒙の弁証法』という本を書きました。
その序文。
なぜ人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか。
(『啓蒙の弁証法』を読む』p vii)
マルクス視点もフランクフルト学派は取り入れている
また答えを一つにしないというようなハイデガーや後期ウィトゲンシュタインの視点、無意識を取り入れているというフロイトの視点もある
批判的理性の復権
これは悪だ!とか、善だ!という判断をしない宙に浮いた状態を維持すること
総じて、啓蒙を啓蒙すること、いわばメタレベルで啓蒙を捉え返すことによって啓蒙の自己省察を追求することがこの論文(『啓蒙の弁証法』)の目的なのである。
(『啓蒙の弁証法』を読むp4)
フランクフルト学派と『啓蒙の弁証法』
ベーコンの矛盾
「われわれは、発明にあたって自然の導きに従っていけば、それによって実践の上では、自然に命令することになろう」
(『啓蒙の弁証法』を読むp6 ベーコンからの引用)
『啓蒙の弁証法』の二つのテーゼ
- すでに神話は啓蒙である
- 啓蒙は神話に退化する
(『啓蒙の弁証法』を読むp3)
すでに神話は啓蒙である
『啓蒙の弁証法』では『オデュッセイア』(叙事詩)に登場するオデュッセウス(主人公)をみていきます。
この物語は、オデュッセウスという人間が神々や怪物と対決し、その世界を脱出していく物語です。
物語の一部
- オデュッセウスが一つ目巨人と対決したときに、私の名前は「ノーバディ(誰でもないもの)」と伝えることで、巨人から逃げた話。
巨人は仲間を呼ぼうとしたが、仲間に「ノーバディがいるわけないだろ!」と冗談だと思われた - オデュッセウスがセイレーン(美しい歌声で人間を魅了し、人間は聞く以外何もしたくなくなり身を滅ぼす)を征服した話。
仲間に耳栓をして、自分の指示に従わせた。 - オデュッセウスは神よりも人間の目的を優先させ、神の力を解消してしまう。
- オデュッセウスは性的衝動をコントロールすることによってキルケ―(魔女)を支配する
神話が人間の手によってメルヘンとして語られるとき、そこには人間の知略がはりめぐらされています。
つまり、メルヘンの伝えるような神話的なものとの対決、神話ののり越えのありようが可能になるのは、あくまで啓蒙を通過することによって、いいかえれば、神話的な暴力を引き継ぎ展開している啓蒙の主体性そのものの自己省察というかたちで、はじめてのことなのである。
『啓蒙の弁証法』を読むp60
啓蒙は神話に退化する
「すでに神話は啓蒙である」を説明してきました。
次は「啓蒙は神話に退化する」例をいくつか述べます。
- 『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の主人公ジュリエットは、自己保存への努力によって背徳的な快楽をひたすら追求した。
(カントの定言命法(内なる〇〇をすべしという命令)を自己解釈した) - マルクスは現実の後に思想がつくられるとして、唯物論を説いた
- 家父長制的な文明のもとで、弱き者としての女性は崇拝・畏敬されるとともに蔑視・憎悪される存在になる
- ニーチェは「神は死んだ」としたけれど、人間は神的なものを求めるという解釈がされる。
「権威を失墜した神がいっそう厳しい偶像となって戻って来る」(サド) - 文化産業が作りだした型通りの人間がオートマティックに再生産されていく
- 人はしばしば「自分でものを考えろ」と言っておきながら、あらかじめ規定されたパターン(道具的理性)にたどり着くことを求める
- マックス・ウェーバーは近代化を合理化としてとらえた。
例えば、近代の官僚制はかえって形式主義におちいり、不合理な結果を生みだしてしまうとした
ここで問われているのは、自然支配を目指していった啓蒙のプロセスが「ついにその行きつく所、恐るべき自然へと逆戻りする」(『啓蒙の弁証法』を読むp65)という視点です。
人間は目的に幸せや享楽をおきますが、それが一種の「恐るべき自然の復讐」となって戻ってきます。
そこには理性では語りえない神話化されたものがある
太古の神話時代の人々が、自然の圧倒的な脅威をまえに、ただひれ伏すことしかできなかったように、商品資本主義体制に暮らす現代の大衆もまた、社会システムの圧倒的な力にひたすら翻弄されるだけの無力な存在となった。
(『啓蒙の弁証法』を読むp115)
フランクフルト学派とナチズム
このような解釈から、次は現実を分析していくという試みを『啓蒙の弁証法』は行います。
なぜ反ユダヤ主義は起こったのか?
「反ユダヤ主義はナチズムの中心にある狂気」だとして、それを解析しようとしたのです。
それは、自己批判を含む文明化批判として表現されます。
「ファシストはリベラリズムの正嫡子だ」、「ナチズムは‐現代の最も洗練された政治システム」だとして、その文明化の無意識的な欲求が「破壊の欲求」として出てきたのだと考えるのです。
破壊の欲求⇒「文明化という苦痛を伴うプロセスを完全には全うすることができなかった文明人たちの抱える破壊の欲求」
(『啓蒙の弁証法』を読むp128)
- 文明化とは欲動充足(幸福)の断念だとフロイトは指摘した
- 文明化(啓蒙)という「進歩」は人間に無理を強いる
- 人間は快楽や安逸をむさぼる存在でもあるので、無理はどこかに病的なものを生じさせる、とする
ここで登場するのがフロイトの無意識。
人間は欲望をなくすのではなく、無意識下に置くという理論です。
このような前提に立った後、ナチスがとった反ユダヤ主義の政策の一つが優生思想でした。
ナチスが優遇した人々②
- ナチ党にとって政治的に信用できる人
- 「人種的」に問題がない人
- 「遺伝的に健康」な人
- 「反社会的」でもない人
ナチスは理性で人々を統制しようとしていきました。
ある規範を掲げて、これに沿えばより良くなる、というスローガンを打ち立てていったのです。
ナチスが台頭してきた背景には、第一次世界大戦によるドイツ敗北による経済不況。
経済的にわらをもすがる思いの人々が一致団結していって、ナチスは拡大していったのです。
日本の戦争論にもつながるね
戦争自体を問うことはない道具的理性は、ホロコーストのような野蛮にすら服従してしまう
- 反ユダヤ主義が起こる前、ユダヤ人は大衆と同一化していく方針をとった
- 同一化というのは理性的ではなく、誰かに憧れているから真似してしまうとか、生きるために死んだふりをするとかいうように、本能的なものだとみなされる。
同一化というのは元々人間に本能的にそなわっているものだとされる - 理性的な政策をとっていた大衆は、そのような本能的な策を気に入らない
- 本能が同化しようとすることを、理性は排除しようとしてホロコーストを引き起こす
- 支配欲によってのみ動かされる大衆は、幸せ(本能)を断念している
反ユダヤ主義の暴力の強烈さ④
- 自己保存をおびやかすものは、魅力的でもある
- 文明(啓蒙)は自然(本能)の他者ではない。
内にあるものなのに、本能を無理やり押さえつけている - パラノイア患者は世界の中に自分の見たいものしか見ない
- 反ユダヤ主義が帯びる病的な性格は投影行動(環境を自己に似せる)そのものではなく、その内に反省が欠如していることにある」(『啓蒙の弁証法』を読むp141)
- 本当に他人事ならば、それほどの憎悪が生れてくることはない
- 人はチケット思想(レッテル張り)によって、思考を省略することを好む
その葛藤は自分の外にでてくる
全体を物語化するには、多少メルヘンが必要です。
理性と本能、同一と非同一、無意識の暴走などの物語によって、反ユダヤ主義は解釈されていきます。
そして、物語化されることによって、次への反省が促されるのです。
いまたどってきた物語は現代社会でも問題視されています。
- チケット思考(レッテル思想)=反ユダヤ主義=マイノリティ迫害一般に対するレッテル張り
- 議論よりも相手をねじ伏せようとする支配欲に自分が支配されてしまっている
- 「アドルノに言わせれば、人間の尊厳や自律性というカントの概念は、動物への憎悪と表裏一体」になる(『啓蒙の弁証法』を読むp229)
といったように、なぜかいじめる、なぜか排除する、といったことへの反省が求められているのです。
著者たちによれば、このねじれを否定するのではなくそれを受容し、生の矛盾をそのままに肯定するニーチェの「超人」としての思考が必要なのである。
『啓蒙の弁証法』p167
ニーチェは、ヒトラーがそうしたように、全体主義・独裁主義のイデオロギーになりかねない。だがアドルノから見れば、「超人」とは、他者と比べて人並すぐれた超能力の持ち主ではなく、絶えず自己の限界を超えて行く自己超越・自己克服能力の持ち主のことである。
(p277)
結論づけることなく、否定をそのまま肯定するような視点を『啓蒙の弁証法』は促しています。
フロムと権威主義的性格
主著「自由からの逃走」で知られる社会心理学者のフロム(1900-1980)もまたフランクフルト学派です。
ナチズムを支えた社会的性格を権威主義的性格と名づけました。
- 近代になって縛りから解放され、現代人は自由を手にいれる
- 自由は孤独で不安
- 圧倒的な力や群れに憧れ、それに従うことで欲望(マゾヒズム)が目覚める
- 集団で弱者をいじめる欲望(サディズム)が目覚める
(心理学用語大全p243)
自由からの逃走
-思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求にこたえるかぎりにおいてである。(自由からの逃走p310)
権威主義的性格の人生にたいする態度やかれの全哲学は、かれが感情的に追求するものによって決定される。権威主義的性格は、自分の自由を束縛するものを愛する。かれは宿命に服従することを好む。宿命がなにを意味するかは、かれの社会的位置によって左右される。‐かれにとって、危機や繁栄は、人間の行動によって変更できる社会現象ではなくて、人間が服従しなければならない、優越した力のあらわれである。
(自由からの逃走p188)
つまり、理性に従っているようでいて、感情に従っている。
感情に従っているようでいて、それを理性で肯定しているという人間の様子を描きだしています。
にもかかわらず、理性の自己批判(誰にでも起こりうること)として思想を紡いでいった