おはようございます。けうです。
「責任の生成」を読んで考えたことを述べていきます。
分けるとは
言葉をわけるとそのものごとについて深く考えられるということがあります。
一つのに日本語について、英語やドイツ語だとわかれていて概念が2つになっていたり、また逆に英語だと1つの物なのに、日本語だと複数ということがあります。
そういうものの区別を知っていくことは、そのものごとについてよく考えることができます。
これは哲学にかぎらす、他の学問でもよくされることです。
なので、日本語以外にも他の言語を勉強した方がいいよ、なんていいます。
私は日本語しか話せていないんですけど、哲学用語で気になったのを他の言葉でも考えると言うことをようやくときどきするようになりました。
障害をわける-インペアメントとディスアビリティ
そして今回はその言葉の区切りについて、障害について考えてみたいと思います。
「責任の生成」という國分功一朗さんの本を読んでいました。
その中で、日本語では障害と言う言葉一つで語られてしまうけれど、英語ではインペアメントとディスアビリティという語に分けられるそうです。
あえて言葉で区切るとしたら、皮膚の内側にあるか皮膚の外側にあるかという違いらしいんです。詳しくいいますね。
インペアメントとは
まずはインペアメントから説明します。
インペアメントは皮膚の内側にあって、足が動かないとか、手が曲がっているとか、どんな環境においてもかわらず私の身体の特徴として存在し続けている障害で、環境からは独立して存在している障害のことをインペアメントといいます。
一般的に建前としては病気の診断基準として記載するはずの文章です。
カルテに足が動かないとか、手が曲がっているとか書き込めるんですよね。
そして、どんなバリアフリーの環境であっても、その障害は残るんですよね。
足が動かないからとエスカレーターを設けたとしても、その負担は軽くなりますけど依然としてその歩くことに困難は生じていますよね。
ディスアビリティとは
それに対して、ディスアビリティというのは環境によって障害じゃなくなることをいいます。
例えば、足が動かないから、ということではなく、移動に困難が生じる障害があったとします。
でも、エスカレーターで移動が困難じゃなくなったとしますね。するとその障害って取り払われるんですよ。
足が動かないという障害の細分化かもしれないですよね。足が動かないということは、移動に困難をきたす、乗り降りができない、歩くのがゆっくりといった障害を一括しますけど、その中の一つの障害を障害ではなくすという考え方をすればいいかと思います。
インペアメントの中にはディスアビリティがあるんですよね。
そして逆もあります。ディスアビリティのなかにインペアメントがある状態。
何か本人が歩くのに困難を生じてディスアビリティになっていたとして、その見えない原因に皮膚の中の不調があるということです。
足動かないから移動が困難。
移動が困難の原因に足がうごかない。その両方があるということです。
もうすこしディスアビリティをおっていきます。
ディスアビリティの具体例
例えば、目に見えない障害としてASD、自閉スペクトラム症がありますよね。
一般的にコミュニケーションに支障が生じる障害だと言われています。
でも、これを病名として診断書にかいていいのかどうか、という問題がでてくるんですよ。
これって、ディスアビリティの問題に含まれていて、環境が変われば障害ではなくなる障害だからです。
コミュニケーションがそこまで働かなくても障害にならない環境にすればいいんですよね。
こうなれば、個人が責任感を感じることもないんですよね。
社会がそれに合わせられないから、障害になっているだけなんだって。
でも、実際にはそのディスアビリティが診断書にかかれるようになっている。
本の中では「ディスアビリティのインペアメント化」が問題だと言われていました。
環境次第では障害ではなくなるものが、そのまま症状として、インペアメントとして書かれているからです。
でも、困るということは一致していますよね。
診断として書かなければ、その障害を一般的に把握することはできない。
ではどうするのかというと、個人個人をよく見ていくことが解決をはかる行動だっていっていました。
どういうことかと言うと、例えばASDでは「想像力の欠如」ともいわれる特徴があると一般的に言われていますが、これもディスアビリティなんですよね。
論理的に説明することに長けている場合はあります。
では、なんで障害として書かなければいけないかというと、身近な危険にたいしての想像力が働かない場合があるからです。
身近な想像力というと、例えば前から車が来ることの予測とか、今、子どもの目を離すのは危ないのに話してしまうことだとか。
それを欠くと身近な身の危険にさらされるような想像力の欠如があるので、その場合に危ないと言うことなんです。
全体的な想像力はあるんですけど、限定された生活に困るような想像力の欠如が一つある、といったことです。
そのばあいに、もし症状として書き込むとすれば、身近な身の危険に迫った危機回避能力が低い、といったことをインペアメントで書く必要があるということです。
といってもこれもまだディスアビリティですよね。
車を急停止できるようにすればいいとか、子どもの目を少しはなしてもよい環境を作るとか。
なのでまだインペアメント化に踏み込むとすれば、脳のシナプスの結合のここの一部が欠けているとか繋がりが弱いだとか、皮膚の中にあるところまで詳しくしていかないといけないかもしれません。
例えば、尿意、おしっことかの感覚が弱いからときどきおもらしをしてしまう。
そういうような感覚にまでインペアメントを見ていくという考え方です。
この結合が弱いために、一部の想像力の欠如やコミュニケーション能力の障害だとかが言われてしまうということです。
病院のカルテに細分化して書くことができていない、ということです。
この場合には総合としてコミュニケーソンの障害と書くのではなくて、尿意の感じ方の問題というインペアメントを書き込むといいということですよね。
もちろん、義足をつければその問題が解消したということがあるように、またそれも技術的な介入でディスアビリティになるということもあるかもしれないですけどね。
このインペアメントとディスアビリティの境界線ははっきりとしていません。
でも、問題が環境にあると出来るとするならば、本人が責任を負うのではなくて、社会でも責任を負うという発想になれますよね。
ディスアビリティとインペアメントーまとめ
そして実際にASDというのは、個人個人によって特性がバラバラなんですよね。
そのコミュニケーションの障害についても一つ一つみていかなくてはいけない。
障害ということを考える時に、ディスアビリティとインペアメントという言葉を意識したいな、と思ったので今日はその話をしました。
お聞きいただいてありがとうございました。