ヒューム 龍樹

ヒュームと龍樹と因果関係

おはようございます。けうです。

 

私は昨日ヒュームの人間とは知覚の束というブログをリライトして載せました。

ヒュームは近代哲学の祖、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の否定をしているんです。

なぜこれを否定できているのかというと、ここに生じている因果関係の法則を否定出来ているからです。

 

我思う故にわれありをまた扱って行こうと思います。

因果関係の法則の否定

私が思うだから、私がある。

ここには因果関係の法則が働いていますよね。

私が思っているから、私と言う実体がある。

でも、ヒュームの説では因果関係の法則を否定します。

 

例えば、私たちは因果関係の法則を持っていると思っているものを見ていきます。

かっこいいからもてる。

氷だからとける。

光だから最も早い。

モノだから落下する。

 

世間一般的な常識の法則がここには存在しているかのようにあります。

けれど、論理としては前提が違ければ法則も違うのです。

かっこよくないからもてる。

氷だからとけない。

光よりブラックホールの方が早い。

宇宙の物は落下しない。

 

因果関係というのは何か法則が働いているようでいて、法則なんてないんですよね。

それは私たちが思い込んでいるものでもあるんです。

このように説いていくとヒュームは人間とは知覚の束だといいました。

過去の記憶は関係している。

でも、それは実体としてはなくてただ今に関係しているだけ。

関係は否定していないんですけど、そこに法則があることを否定している。

 

そして、この思想は大乗仏教にも似ている面があるなと思いました。

龍樹‐因果関係の法則の否定

私はちょうど龍樹(ナーガールジュナ)(中村元)を読んでいました。

 

その龍樹は中論をといているんです。

中論は両極端なものをないものとするんですよね。

ここでも因果関係の法則の否定が取られています。

そして、ここでも実体はないと説きます。

我思うゆえに我ありというような自己意識の否定も含まれているんですよ。

ちょっと読んで行くと、この龍樹の解く大乗仏教は小乗仏教を批判しています。

そして、この小乗仏教というのは自己意識である利己的な自己です。

利己的な自己意識の否定ですね。

 

そして、きっと私は本を読んでも昔の龍樹の中論は理解が難しいんですよ。

私が生きているのは、今の時代であって、昔の時代ではないからです。

この中論は両極端を否定するんですけど、時代とか影響とか、関係とかはしていると説きます。

つまり、昔にいない私は昔の環境からその中論の発生を実感することはできない。

だから、今の私の考え方で理解するしかないんですよね。

そして、今の私といいましたけど、この私は今の時代と関係している今の一瞬でもあるという見解ですね。

 

日本語はたびたび主語を抜かしても言葉を言っても通じますよね。

なんとなく、何かにかかっていると感じている。

そこに西洋のようなI(アイ)とかは主張していない。

だから、私は主語を使うのが苦手なので自己が無いということを理解しやすいのかな、とは思うんですけど、今は西洋と東洋という区分けってないですよね。

東洋思想、西洋思想というのが融合してます。

 

私も、我思うゆえに我ありから哲学が出発しているという感じは自分で受けているんです。

なので、実感として自分の実体がない、と感じることは難しい。

すぐには中論が理解できないんです。

 

そこで私が理解するとしたら、自己はある、という科学的な哲学を基礎にすると思うんです。

で、これを説いているのが新実在論だったりします。

 

私がある。そして私があるとなれば、他の物がないというのはおかしいですよね。

私は他のものと関係しながら存在しているので、他の物も存在していないとおかしくなるから他の物もあると認める。

昨日言っていた疑似意識なのかもしれないんですけど、私には私の視点でしか物事が見えないと言う哲学が根本になってきているんですよね。

私は実感として、私を認めている。

こういうような実感をもとにスタートさせるのが現象学であって、自分の体験に基づいてしか話せないという態度なんですよね。

なので、私は実体がないとするヒュームや龍樹の思想そのものは理解が難しい。

でも、そのところどころは理解ができているだろうと考えることができます。

龍樹-物語

そして、龍樹の本をみておもしろかったところを紹介したいと思います。

かれは友だち3人と世の中の道理について、究めてしまって、それでも快楽を究められていないからそれを究めることのできる隠身の術というのを身につけます。

そして、王宮にいる美女をみんな手にいれたんですよ。

でも、そのことによって王様が起こって、その犯人が殺さることになってしまったんですよ。

で、友達は死んでしまうんですけど、龍樹だけが助かります。

欲は苦しみなんだ、と彼は気づいて出家の法をさずかったんです。

そして、彼はさらにいろんな法を授かっていって、今神々の世界でなにが起こっているのかさえ、わかることができるようになっていました。

例えば、今神々と阿修羅が戦っているといって、少し待つと空中から阿修羅の体の部分が降ってきたということがあったんですよ。

それほどなんでもわかる人になっていた。

ほぼ完ぺきになっていたんですよ。

でも、この完璧さが小乗仏教の法師が気に入らないと思っていたんですよね。

そして龍樹は聞きます。

「あなたは、わたくしがこの世に永くいきながらえていることを、願っておられるのですか。」と。

すると法師は「実はあなたの長生きを願っていない」と述べたんです。

それで、龍樹はそこからこもって、とうとう死んでしまうんですよね。

実体がほんとうになくなってしまう。

でも、まぁ、人は死ぬので最後は亡くなってなにもない状態にはなりますよね。

といって、完全な無はないとするので、何かは残ってはいるんですよね。

思想として受け継がれていると思えばいいのかな、と。

 

そして読んで思ったことは龍樹はその関係において何かを受け取っているんですよね。

彼自体の思想がそこでできている。

女性を取られたことの怒りの影響を受けているし、小乗仏教の影響をうけている。

もし、最後に小乗仏教の法師の後、こもっていなかったら。

もしかして、周りに死なないで!という人が多かったとしたら、もしかして彼は死んでいないかもしれないし、もっと長生きしたかもしれないですよね。

なので、私がもし彼の思想を理解した!となって死のうとしても、それは龍樹から言わせると中論の思想の中核からはずれているかもしれないんですよね。

私はその時点で、一部の本だけの影響を受けて、周りの生きている人を見ていないかもしれないから。

龍樹の思想は大乗仏教といわれて、民衆にあわせてもつくられているそうです。

 

ヒュームも、龍樹も今は亡くなっていて、彼らの思想だけが私に影響を与えているんです。

そして、影響なんですよね。

私は今の哲学思想の影響も受けているから、それに倣うとすれば完全なヒュームや龍樹の思想が理解できない。

 

因果関係と断片的ということ

私は文章を書くときに、それでも因果関係、起承転結など結び付けて納得できるようには書いているつもりなんです。

でも、今日はちょっと断続的ですよね。

でも、その断続的なものを書いていくことによって、きっと印象の深い部分が聞いている人に意識されている。

因果関係の法則は否定していますけど、因果関係は生きているという感じです。

 

そして、ちょっと思うに。

最近の私の本の読み方は断片的な感じが多いんです。

体系全体を理解しているんじゃなくて、私にとって興味がある部分だけが私の意識に残っている。

今日も意識的な部分だけを書いている感じです。

そして、形を整えると何かをいっているような形式になる。

これも、因果関係の法則を否定して因果関係を成り立たせています。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

 

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