コナトゥス

本質とは何か‐「はじめてのスピノザ」からコナトゥスを考える。

おはようございます。けうです。

 

Kindle本の原案を書き終えて、少し考えさせられた個所があったので、今日はそれについて話そうと思います。

参考にしたのは國分功一朗著「はじめてのスピノザ」です。

 

本質についてを見ていきます。

本質とは

本質を扱った哲学者にサルトルがいます。

有名なのは「実存は本質に先立つ」です。

これは何を意味するのかと言うと、私たちは生まれた時には何ものでもありません。

イメージとしては何も肩書のない赤ん坊のような。

これが実存なんですよね。

実際に存在しているということ。

そして、この存在は何かの形という本質になろうとしている、というのが彼の論です。

 

つまり、この本質には例えば将来の夢なんかが入るんです。

先生になりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、何者かの形がはいってきます。

サルトルはよく活動をするんですよね。

自分が主体的に動いていって、社会運動なんかもやっている。

そして、かつ彼は「人は自由の刑に処せられている」とも言います。

何ものかになるのって努力したり、それに突き進もうとする意欲だったりが必要になってきます。

ただ何者かにはなれないというイメージです。

やったことに責任をもって、何者かになるというイメージなんです。

本質はコナトゥス

でも、ちょっと考えてみると、本質って形なのか?という疑問がでてきます。

本質って形ではないよね、といった哲学者にスピノザがいます。

例えば、先生と形容詞があったとしても、良い先生もいれば、悪い先生もいますよね。

生徒にとって良い先生だけが先生であって、悪い先生は先生ではない、という答えになってきます。

では、彼が何を本質としたかというとコナトゥスという言葉を本質にしました。

これは何かと言うと、「ある傾向をもった力」です。

個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。

恒常性ホメオスタンスの原理に非常に近いと本では語られています。

つまり、自分の存在を維持しようとする力です。

そして、本質をこのコナトゥスで捉えるとするならば、私たちに形はありません。

例えば、私は昨日仕事中にふと思ったことがあります。

 

私は仕事ができなくてよく叱られていたんですけど、その昔私にいろいろ言ってきた人が

今は優しい人なんですよね。

その人の何が変わったのかと言えば、私に対する態度くらいです。

昔は敵意むき出しにされていたんですけど、今は好意です。

 

でも、昔はこの人とは絶対に仲良くなることはないだろうなと思っていたのに、変わっているんです。

でも、形としてはずっと先輩という形には違いはないんですけど、内容がとても違う。

ただ単に先輩とだけなづけても、本質ではないんですよね。

 

そして、これが何を意味するのかを考えてみました。

ずっと維持しようとする力ということは、ずっとそうあろうとすることなんですよ。

 

例えば、私がブログを書いていて評価されたとします。

書いたばかりの場合は、私はなんとなくその作品と私の評価を結び付けていますよね。

でも、時間がたってくると、その結びつけは弱まります。

自分では弱くなると感じるんですけど、実際には結び付けなんてないかもしれないんですよね。

 

例えば、この表現凄いとか、この表し方がいいね、と評価されたとします。

その時点では嬉しくなりますよね。

でも、時間が経ったとします。

私は体調が悪くて、昔のような文章が書けないなと思ったり、再現できないんじゃないかなって思ったりします。

そうしたときに、その作品と自分との結びつけが弱くなったり無くなると言うこと。

 

では、その作品によってすごいと思われたい人はどうするのかといえば、また新しい作品を作るんですよね。

そして、今の評価をもらおうとする。

そうすることがコナトゥスなんじゃないかなって私は思うんです。

私の場合は記事かもしれないんですけど、人によっては何かものをつくったり、社会関係を円滑にしたりだとか、元をいえば捉えにくい形だったりするかもしれないんです。

教えるのが上手だとか。

本質であろうとする力とは

すると、私がその評価であろうといつも努力を強いられることにもなるんです。

或る意味、本質はいつもあって、いつもないんですよね。

あると思う時は、自分がそういうものだという自分の思い込みかもしれないし、ないと思う時も結びつけができないときの思いこみかもしれない。

 

そして、これは、精神的な力を必要とすると思います。

なぜなら、人は承認欲求があるから。

もし、結びつけがなくなったり、もうその名称で呼ばれないと思ったら自分の承認欲求を満たそうとしますよね。

そうなるとずっと努力をしなくてはいけなくなる。

一度すごいことをしたからといって、それがずっと継続するわけではない。

逆も言えます。

悪いことをしたとしても、ずっと悪人なわけではない。

 

そう思ったときに、では何を努力したらいいのか、という話にもなります。

それが私が形としてなりたいという欲望だったりします。

 

私たちがその肩書だったり自分がなりたい形を維持しようとするときに働く力は、自分が望んでいるものであろうとします。

かつ、場面やそのときに感じ方によって考えなければいけないんですけど、そうやって環境によって左右させられても、そのあり方でいようとすることは、力を必要としますよね。

だから、コナトゥスとは努力とも訳されます。

 

そして、自分はどんな自分でいるのが自分にとって幸せなのか、自分の性質にあっているのかを考えることができます。

 

「スピノザのいうコナトゥスとは自分の存在に固執する力」このように本では書かれています。

 

確かに私が何者かでなろうとして、それを維持しようとしている時にはベクトルが自分に向いているのかもしれないですよね。

かといって、捉え方によっては自己本位ではなくなります。

それを維持しようとしているときに他者がでてくるからです。

自分に固執しているけれど、自分は何ものだときっぱりと継続的に言うことはできない。

そして、私の性質がそのようなものかもしれないので、私は何か作ろうとしたりやろうとすることを大事にするのかな、とも思いました。

人によっては違う性質なんですけどね。

自分の性質を知ることが幸福や、自分が何者であろうか望む努力する力に関わってきます。

 

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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