ルイ・アルチュセール

ルイ・アルチュセール

 

今日は「ルイ・アルチュセール」について話そうと思います。

哲学者ルイ・アルチュセールについて

この哲学者は私の本でも少し触れています。

 

でも、彼にふれるとき、いつも触れるべきか触れないべきか、困ることがあったんです。

それは、アルチュセールが奥さんを自らの手で殺しているということ。

でも、そこまで刑はなく出てきていると言うこと。

道徳的にいけないのかな、とか、哲学がもっと偏見の目で見られたらよくないかな、とかそんな思いから私はアルチュセールを扱う時はそのことには触れていないんです。

 

でも、「ルイ・アルチュセール‐行方不明の哲学者」市田良彦さんの本を読んで、実践哲学をしていた彼にとって、この事実は哲学に加えるべきだと話していたんですよ。

そうしないと、彼を本当に理解したことにはならない、と。

 

なので、このことを踏まえつつ、彼の思想を見ていきたいと思います。

国家のイデオロギー装置とは

有名なのは国家のイデオロギー装置です。

人はみんな国家がつくり出した疑似意識の装置の中に生きていると言う説です。

時代が変わればその時代の装置の中に取り込まれます。

イデオロギーは疑似意識と訳すと意味がしっくりと入ってくるのではないかと思います。

 

私たちは時代ごとの疑似意識の中に住んでいますよね。

ファッションを意識していただければ、わかりやすいと思います。

ルーズソックスが流行っていた時代ではそれが最先端だったわけだし、へそ出しとかだって、昔にしてはよかったんですよね。

でも、時代が変わるとそれがダサいとなったり、今は特に移り変わりが激しいときですよね。

前までは外にいくのがいいよ!と言っていたのが、引きこもっているのがいい、に換わったりします。

 

そんな時代で見ていくと、私たちが国家のイデオロギー装置の中にいるというのは、納得します。客観的にみると、それは正しいようにみられますよね。

認識論的切断とは

でも、アルチュセールはこの国家のイデオロギー装置を説くとともに、認識論的切断ということがあるというんです。

これは何かと言うと、個人個人の中における問いの変化とか、成長を表すような言葉だと私は捉えているんですよ。

時代は切断するように、あるとき急に移り変わったりします。

ノーベル賞ものの発明が突如として現れるように。

でも、その事実を前にして私が考えてそこで閃いて、そこで問いをもって進化する。

あるとき、りんごが落ちると認識していたものが、リンゴが万有引力の法則に従っていると認識しなおすようなものなんです。

それが認識論的切断。

 

これって、ただ自分が国家のイデオロギー装置にいる、となれば意識できませんよね。

アルチュセールの哲学には二つの自己がいるんです。

アルチュセールにおける二つの自己

本の中でアルチュセールは「私は4歳でうまれた」といっていたそうです。

理由は名前が変わったんです。

今のルイ・アルチュセールという名前に4歳のときになった。

でも、実はその名前は母親のかつての恋人の名前だったそうです。

子どもに恋人の面影を重ねている。

だから、この頃からアルチュセールは2人の自分が同居するようにはなっているんです。

生まれながらの彼と、名づけられた彼と。

どっちもいるようでいてどちらもいない彼ですね。

 

自分には二人の自分がいる、というのを端的に表すのはこの殺人という行為かもしれせん。

アルチュセールが実行してしまった行為。

これはそのまま存在している。

アルチュセールが裁判を受ける行為。

そして、釈放になってそのこと自体に名前が付けられる行為。

この二つがあるんです。

 

そして、この名前がつけられる行為のほうが国家のイデオロギー装置に属します。

これは理論とも言えます。

犯罪名が何か、今の法ではこのように位置付けられる、とか。

本を抜粋します。

「実践するとはどういうことか。『理論』には説明できないと示すことだ。『権力-知』としての『理論』には『私』の個体性は捕まえられない、と示して見せれば、『空虚』のなかの『私』の存在は保たれるだろう。」

実際の行動は客観的に見られることによって事件になる。

でも、その中には個体性としての彼が存在している。

理論武装にしてみれば、今の裁判によって善い悪い、裁かれるとか、裁かれないは国家やその人々の客観的な妥当性によって決められます。

でも、彼自身は存在しているんですよね。

 

そして、私はそれに触れなければ彼を実感できないかもしれない。

しかも、亡くなってしまった今になってはもっとそうですよね。

私が判断するとき、主観と客観が存在すると私は思っています。

これがでてきたのが近代哲学ともいわれますよね。

 

普段でも実感することがありませんか?

私は功績としてはこんなことをしたし、こんな肩書を持っている。

自己紹介するときはその用語を駆使してかたります。

でも、そこは国家のイデオロギー装置によって形成された自己であって、二つ目の自己ではない。

かつ、私の中でも主観客観があって、私は客観からしか認識ができない。

そうなると、私は私の中においても私がよくわからなくなってしまうということはあります。

主観と客観と

主観と客観を一致させることは出来るのか、哲学では未分状態というのはありますけど、私は実感できていないんですよね。

 

そして、これは良い悪い、の判断を超えるんですよね。

イデオロギー装置の中にいるから、良い悪い判断ができているだけで、それを取り払われると犯罪といった概念もなくなります。

 

アルチュセールは哲学を線をひく行為といったそうです。

でも、線って見えませんよね。

 

そして、哲学は考えて理論を立てて文章を書いていく行為も含まれますよね。

主観をもっているのに、客観を強くしていく行為。

主観の方が強いはずなのに、客観を強くする行為ともいえます。

言葉として言及するからですね。

 

 

だから、考えすぎない方がいい、というのも一理あります。

客観が強くなりすぎて、あるはずの主観がわからなくなってしまうからです。

そして、文章を書く元としては主観に従っている。

私は私の経験なしには書けない。

しかも、アルチュセールも言います。

「僕は理論において自分と直接関係しないものはなにも理解できない。」

 

二つの自分がいるけれど、その二つを統合させないと理解ができないんです。

 

今日はちょっとまとまらない回になりました。

ときどき、私は自分の客観性が高まる時に自分がわからなくなったりします。

そんなときは散歩とか、身体を動かすといったことが主観を感じられるいいことかもしれませよね。

 

疑似意識から私は外れることはできないからこそ、アルチュセールは苦しんだし、多くの哲学者も苦しんだのかな、とも思います。

ただ、この苦しいという言葉や判断、もしくは精神疾患となづけられてそう思うこと、こういうこともイデオロギーなのかもしれないですね。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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