おはようございます。けうです。
脳科学から見る心と身体を統合させる一元論の科学的な立場からは、人の自由意志を否定しています。
「脳には妙なクセがある」を参考に、自由意志の否定から何ができるかを考えていこうと思います。
今は多元論の傾向がありますけど、ここでは一元論に即して考えていきます。
自由意志の否定とは
脳科学の実験では、ある特定の条件下に合わせて人はそのような行動をしやすいということがわかってきています。
例えば、私たちの行動の80%は決まっていて、普段その人が何をしているかということも当てられると言うこと。
人は習慣の行動がほとんどなんていいますし、おそらく私が今何をしているのか、ということも当てられてしまうと思います。
私はよく子どもの検診のときの調査表を書くのですが、この時間に起床、この時間頃にご飯、遊び、お昼寝、というのを書き込めることが前提になっています。
人の生態としてこのような特徴がある、というのは客観的な自己として掴めると言うことです。
そして、私は何もないとグラフに書くような人生をたどっていくんだろうな、と思いました。
何時に起きて、何をして、というように自分に把握できた人生をたどっていく。
これはこれでいいのかもしれないし、決まった道を歩むのは安全だったりしますよね。
無意識な選択が多いと言うこと
私が読んでいた「脳には妙なクセがある」では、人間は無意識な選択が多すぎて、しかもそれが経験や性質によるものが大きい。
そして、自分で左右できるのが経験なので、今まで善く生きていた場合は善い選択を選びやすくなっているのではないかと語っています。
なので、無意識な自分がよい行動をとれるように善く生きよう、と。
脳科学を研究した結果が、ソクラテスの善く生きるにつながることに私はおもしろさを感じました。
そして、この善く生きるが少し明確になりますね。
この場合は、客観的な自分が善いと思える、というような視点がはいってくるということ。
相対的ではなくて、人間種としてある特定のよく思えるようなことが自分に備わっているということ。
「善く生きる」とは
この場合は人助けをした方が善いとか、迷惑をかけないようにした方が善いとか。
なんとなく、善いと思われる行動を私たちは想定しやすいということです。
でも、と思うこととして、私は知的好奇心が旺盛だということがわかってきました。
私は自分を知りたいんですよね。
人の欲は様々と言いますから、これは私の一例ですね。
その場合、今までの経験だと決まりきったことに対してきまった行動をするということをおおよそ知っているんですよね。
おおよそ、ですよ。
しかも、こうやって判断できるようにこの行動をしておこうと決めておくと、その決めた行動を私はとりやすくなるかもしれない。
そうなると、なにかつまらなさを感じてしまう面があるということなんです。
そして、これはきっと人の性格によると思うのですが、私はまったく想像できないものが好きなのかもしれないな、とも思うんです。
私が知りたいものを実行するということ
例えば、漫画などでは展開の読めない物が好きだったりします。
決まりきった設定は多いし、童話のシンデレラとか、白雪姫とか結果が分かっているものも好きです。
けれど、この決まりきった設定の中で、少しの変化をもって先行きがわからなくなるものに、私は知的好奇心が向かうということ。
シンデレラ、白雪姫は結果が同じ物語としてあるけれど、設定の一部を変える。
現代版だったり、善悪の基準がわからないものとして書かれていたり。
そんなときに、私は自分を知ることが多いと感じます。
まったく想像ができない。
その想像ができないものに対して私がどんな反応をするのか。
そんなことが楽しみになっています。
そして、私は今の自分を振り返ってみるときに、今は活動が増えています。
自己発信で、ツイッターをやったりブログで実験したり、kindleを書いたり。
新しいものにどんどん手を出そうとしています。
その理由として、やっぱり想像ができないから、自分を知ると言う意味で知的好奇心が働くからなのかな、と思いました。
それと共に、そうやって行動することでまずは知ろうとしているんだろうな、と自分で思っていると言うこと。
行動としてはそこにあるんですけど、それに合わせて自分がどんな反応を見せるのはわからないんです。
知的好奇心を満たすとは。
自分の感情で知的好奇心を満たすような行動をとる。
というのも決められた範囲であるとは思うんですけど、このことが前提としてある行動に関しては、私は面白く思うと言うことです。
私の中で、知ろうと思うことを決めて、それに合わせて行動していくということ。
そして、思うのはある程度、本をたくさん読んで行くと予想がつくようになってきます。
これはこういうことなのかな、と予測ができる。
でも、時に自分の感情はその予測を超えて働くことがありますよね。
そんなときにどうして自分はこんな行動をとるのか知りたくなる。
客観的に自分を知りたくなる、ということです。
私は脈が薄い傾向があって、でもそんな自分の脈が高鳴っているときに、どうしてこんなことが起こっているんだろうと分析したくなります。
科学的にオキシトシンが、とかドーパミンがとかいいますけど、それが生じるときがある、ない、というのはあります。
恋とか、恐怖体験とか、人によって多様ですよね。
哲学の知を愛するという面
哲学はいろんな面があります。
常識を疑うと言う人がいたり、学問の基礎になっている人がいるといったり、区別することを哲学と言ったり。
私が哲学をやっていて強く思うのは、知を愛することなんですよね。
実は善く生きるといったソクラテス(プラトンの著書)は、知を愛することとして哲学を説いて、主知主義、知が一番善いものなんだよ、なんて言っています。
知を身につけることは自分です。
ソクラテスにとって善く生きることは知を最も愛すること。
もし既存の善く生きるということに決まりきったものを感じて、つまらなく感じる場合に、これは言い換えられると言うこと。
知を愛することが善く生きることになること。
もしかしたら、この善く生きるという善くをいろんな解釈ができることによって、人間の多様性をここで保っているのかもしれません。
そして、思うのは経験することによってまったくの無知だったものに対して、少し知ることができます。
自分が善いと思うのはこれかもしれないというヒントをその体験から得るんですよね。
すると私はそうなりたい私はこうだな、となんとなく思う。
そして、それを自分の習慣に取り入れることもできます。
私が善いと思うことを取り込んでいって善く生きるようになる。
一般的な善いものだと道徳とか、一般的というイメージを帯びてしまいますけど、私が善いと経験から思ったものを取り入れると私だけの「善く生きる」ができますよね。
私だけの「善く生きる」
人は憧れに精神力を働かせます。こんな人物になりたいという憧れ。
でも、憧れってなかなか自分が思うように動けませんよね。
具体的になっていません。
私はこの場合、こんな自分になりたくない、という想像力に移行したほうがいいのかもしれません。
全くの無知は精神力によって動き、少し知ると想像力になって動く、具体的にわかってくると習慣に落とし込める。
このように思っていけば、普段の私の行動の一つ一つにも意識が向いていって、かえって自分もわかってくるのかな、と思いました。
規則的なのが嫌といいつつ、考えることによって規則を作ろうとする、こんなこともあるのかもしれないなと思いました。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。