我思う

思うという感覚-主語はどこから発生するのか。

なぜ私が自分の根本となるものしか考えられないと思っているのか。

 

 

おはようございます。けうです。

 

今日からまたヒマラヤの原稿をブログにUPしたいと思います。

kindle本が出版されています。

今日は無料でダウンロードできます。

4月25日まで無料ダウンロードできますので、少しでも興味をもった方はダウンロードしていただければなと思っています。

Kindleで「考えるを考える」で検索してらってもいいし、私のツイッターの固定ツイートからいくこともできます。

 

そして、何か集中して書き上げた次の日など、私はぼーっとしてたんですけど、そろそろ回復してきたかな、といった感じです。

自分の根本-思うとは

書いた後って、私の哲学はこれでもよかったのかな、と思って何度基礎をふりかえることが私が多いんですよね。

なので、今日は「哲学入門」ボートランド・ラッセルを読んで思ったことを話していきたいと思います。

こんな一文があります。

「自分とその経験以外の物が存在していることは、ある意味では、決して証明できないと認めざるをえない。私自身とその考え、感情、感覚から世界は成り立っており、それ以外はすべて幻に過ぎないと仮に考えたとしても、そこから論理的な不都合は何も帰結しない。」

 

私はなぜ自分の根本となる疑問しか考えることができないと思うのか、そのヒントが隠されている文章だなと思いました。

 

私は自分が哲学的な問題で考えられることは自分に根差したことだと考えています。

それはもしかしたら、近代哲学の祖デカルトの「我思うゆえに我あり」に影響をうけているのかもしれません。

言葉として、というよりは、私が思うことだけがあるのだ、と。

 

けれど、この文章だと余計なことを言っているんです。

我思うだけが通じるのであって、そこから我ありという帰結は言うことができないということ。

おそらく、これを考えられる一番の基礎は、ラカンの実験だと私は思っています。

ラカンの寸断された身体

それはどういうものかというと、私たちはうまれてすぐにはラカンで言う寸断された身体といった思考をもっているだけなんですよ。

例えばこれは、赤ちゃんが6ヵ月までに思うだろうものです。

お腹が空いたとか、寒いだとか、あったかいだとか、気持ち悪いだとか、ぬれている、だとか。

ただ寸断されて主語が結びつかずに思い浮かんでくる感覚なんです。

 

この感覚が6ヵ月頃からようやく、私の感覚、ということを認識しだすと言われています。

初めは感覚だけがあって、そこから自分との結びつけが起こるんですよね。

 

となると、文章でデカルトの正しいところだけを書き起こすとなると「思う」なんですよ。

でも、プロセスとして私たちは6カ月後にはその感覚と自分を結び付けられているんですよね。

だから、思うだと、誰がおもっているの?

というときにようやく私がでてくる。

 

まず自分の感覚があって、そこから主語を結び付けているんですよ。

そして、デカルトは何でも疑った基礎に自分が思っているということをすえたから、まずここから「我思う」からスタートしているんですよね。

 

確かに、論理的に説明するならば、主語は必要です。

英語ではまず文の初めに主語がきますよね。

そこからI THINK なんて言います。

 

そして、この時点に立つならば、納得できる基礎にたつには自分の感覚なんですよね。

だから、私は私が根本にしていることしか、考えられないのかな、と思いました。

 

他の人の思想から思いついたものは、まず他の人の思想として存在している。

その場合、自分の感覚にできるのかがわからないんですよね。

それでも、他人が思考していると思っても、どこからが自分の思考になっているかという区切りもあいまいだとは思いますが。

思ったことに対して主語をつけている

それで思った事。

私は自分のことを客観視して扱うのが昔から苦手だったんです。

例えば、私は自分のことを昔、けうちゃんというようにちゃんづけして呼んでいたんです。

自分がけうと呼ばれている存在であることがわかっても、その私がけうだということが一致していなかったんですよね。

そのことをまた裏付けるかのように、実は私は主語を言うのが苦手なんです。

文章を書いていたり、または話したりするときに気がつかないうちに主語が抜けています。

 

おそらく、この一致がしっかりとできなかったんですよね。

成長段階として、この一致ができるようになるといいますけど、その一致が遅かったために主語が抜ける文章が多くなってしまったんです。

 

そして、文章を書いた後に、主語をつけることが結構あるんですけど、そうしたときに主語は私でいいんだっけ?となるんですよね。

生後6カ月くらいでなしえていることへの疑問、といった感じなんですかね。

主語をつけていくと、とたんに文章が変になったりします。

これはちゃんと文章として通じているのかな、と私は思ったりするんです。

日本語の特徴

私にとっては主語が無い文章の方が自然なんです。

そう思うと、みなさんもただ結び付けになれてしまっているだけで、何か刺激を受けたときに、痛い、と思ったり、嬉しいと思ったり言葉を発したときは主語をいいませんよね。

話し言葉ではあまり主語を使わないかもしれない。

そして、それは日本語の特徴でもあります。

英語は主語が明確に文章の初めに来ることがおおいんですけど、日本語の場合だと主語がなくても文章があって、それが通用したりするんですよ。

そう思うと、日本語の文章というのは英語より原始的なのかな、と思います。

6ヵ月未満の赤ちゃんでも使えるような形式をとっているということですよね。

 

でも、論理的な文章を書く場合はその度ごとに主語をいれなければいけない。

そうなれば、誰が思っているの?

ということが疑問になって、もしかしたらそこから哲学がはじまったりするのではないかな、と思いました。

哲学の問題の一つに、私って何?

がありますよね。

これは文字通り、文章でもここは私でいいの?

そして、私と書いた場合、この文章は正しくなるの?

といった問いが生れるかもしれないな、と思いました。

哲学のつまずきとは

感覚的に常識になっていることが出来ていないということ。

そこから哲学が始まっていて、そこにつまずいているからこそ、その哲学ができるのかな、と思いました。

もし私は私というような認識を違和感なく通過した人は、他の哲学的な問題が根本になっている場合もありますよね。

哲学はつまずいたときにその常識をあきらかにしていく。

常識だと思っていたけれど、そこでつまずく場合もたくさんあるんだよ、ということを明確にしていくんだろうなと思います。

 

そして、もっと戻って、私には感覚だけがある。

その感覚は自分が根本にしていること。

そこから躓いているのだから、その躓きは自分にとって一番考えられるものなんだろうなと思いました。

こうやって「われ思う」という前提を疑っていくと、自分の問題になっていることを発見できますね。

 

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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