徳富蘇峰

徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム|高校倫理3章4節⑤

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム
を扱っていきます。
鎖国していた日本。
そこから西洋の文化が輸入され、日本は「文明開化」をスローガンにかかげます。
文明開化では、人には権利(権理)や自由がある、という考え方が導入されました。
西洋に負けない(植民地にされない)ようにしたいという考え方と、西洋の思想(自由、平和、人権)の二つがある状態
二つの思想の中にいたジャーナリストの巨匠である徳富蘇峰(とくとみそほう)にスポットを当ててみていきます。
この二つの思想を見事に表した本は中江兆民の『三酔人経綸問答』
>>自由論と中江兆民
思想の遍歴が個人に起こっていたのが徳富蘇峰だともいえる
ブログ内容
  • 徳富蘇峰と平民主義
  • 徳富蘇峰と国家主義
  • 徳富蘇峰の思想遍歴

参考文献 「徳富蘇峰‐日本ナショナリズムの軌道」(米原謙)「徳富蘇峰:日本の生める最大の新聞記者」(中野目徹)

徳富蘇峰と平民主義

徳富蘇峰(1863-1957)といえば、日本史の教科書ではこのように紹介されています。

  • 明治20年(1887年)に民友社(みんゆうしゃ)を結成して雑誌『国民の友』を創刊
  • 当初は「平民主義」を唱えた
  • その後、『国民新聞』を創刊
  • 遍歴の中で、「平民主義」から「国家主義」に転換したジャーナリスト
なんで主義を転換したんだろう…
主義が一貫しているほうが学ぶ私たちにとっては、「わかりやすい」ということはあります。
しかし、現実と主義を考えるとき、以下のような考え方もできます。
山崎‐前に「主義は病気である」という言葉を紹介しましたが、抽象的な話をしている場合は徹底して矛盾なく話を組み立てる「主義」が可能なのですが、現実の地域では完璧な「主義」を組み立てて、そこからしか発現できない人は「あいつは病気じゃないか」と言われてしまうことがあります。
國分‐それに常に主義を参照しながらしか話さないのだったら、何も考えてないってことですしね。
内容が首尾一貫しているわけじゃないってのは当たり前ですよ。

「僕らの社会主義 國分功一朗/山崎亮」p192

徳富蘇峰は現実を見ながら主義を変えていきました。

まずは平民主義から見ていきます。

徳富蘇峰の平民主義

平民主義⇒日本は、平民の側からの西洋文明を受容して、近代化を推し進めるべきだと説いた論。
自由主義、平等主義、平和主義が特徴。
人民の政治参加と民権の伸張が国権の重視につながるという基本原理。
徳富蘇峰が平民主義を主張した時期(1885年頃)に日本で流行っていた思想はこちら。
  • 富国強兵
  • 鹿鳴館(ろくめいかん、外交官の接待)
  • 徴兵制
  • 国会開設

蘇峰の思想は、この頃の日本社会にとって警報を鳴らすものとして注目を浴びました。

ジャーナリストの本質は空気に水をさせること、なんて考え方もあるよね

特に徳富蘇峰が参考にしたものが英国T・マコーリーに代表される「ホイッグ史観」だと言われています。

ホイッグ史観⇒ホイッグ(自由)党の立場からトーリー(保守)党の政策を批判し、専制から自由へ、国王から議会へという過程を歴史の道筋として是認する世界観
「平民主義」を唱えた雑誌『国民の友』は、日本第一の雑誌と自称されるほど成功をおさめました。
徳富蘇峰は「放火犯人のうち最も危険なる人」と言われるくらい、同世代の読者に大きな影響を与え、心に火をつけたと言われています。
心の放火犯!
なぜ同世代の読者かといえば、雑誌の中で彼は「明治の青年」vs「天保の老人」という対比を作って、新しい日本は「明治の青年」がつくるべきだと主張したのです。
対立構造は、人に意欲を注ぎます。
徳富蘇峰は「青年は大人の父なり」というミルトンの語を引用し、社会の未来を決定するのはむしろ青年だと説きました。
「天保の老人」には暗に伊藤博文や福沢諭吉が入っています。
徳富蘇峰は「福沢流」は虫が好かないといいながらも、ジャーナリストとして福沢の高名に憧れていたみたい
徳富蘇峰は著書『吉田松陰』で吉田松陰の生涯に見られる革命心を「明治の青年」にたきつけ、「第二の維新」の必要性を強調していました。
みんなが雑誌の波に乗って、明治20年(1887年)代には雑誌創刊ブームが起こるよ。
雑誌『日本人』も翌年創刊。
三宅雪嶺(みやけせつれい)や志賀重昇(しがしげたか)は『日本人』で国粋主義(その国に固有の文化的価値を尊ぶナショナリズム)を唱えた

平民主義の遍歴

徳富蘇峰の平民主義は、特に中等階級に向けて説いたものでした。

中等階級に向けて「剛健、勤倹、純粋、簡質の徳」などを説き、仕事での成功をふるい立たせたのです。

「明治の青年」が仕事に成功することで、選挙権を持てるように促しました。

しかし、府県会の選挙権資格を有する地租5円以上を納付する人口は、10年間で180万人から140万人に減少。

社会的理由はあるけど、減少について徳富蘇峰は中級階級の人々が都市化して堕落したことからくる「自業自得」だと断罪したらしい
平民主義実現のためには、二つの要素が必要だと蘇峰は考えていました。
  1. 農工商による中等社会の成長
  2. 蘇峰が企画した進歩党連合の結成

しかし、ここでも亀裂が生じます。

農民の味方になるのと同時に商民の味方になることができなかったのです。

地租軽減とか、政策によってどちらかが利するとどちらかが損するというような感じ
平民主義を実現させるために、徳富蘇峰の思想は国家主義に傾いていきます。
藩閥打破による平民主義の現実という主張は、対外強硬論に解決策をみいだすようになったのです。
「日本を拡張する」という発想は、英国をモデルとする近代化を構想していた蘇峰にとって、必ずしもめずらしい考え方ではない。
‐平民主義的な社会の現実(閥族打破)と国家の拡張は、かれら(蘇峰と民友社の人々)にとって矛盾するものではなかった。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p178
外交面では、日清戦争(1894年)を契機に日本は帝国主義国家への道を歩むことになります。
東アジアで欧米列強と対立・妥協をくり返しながら、朝鮮・中国での利権獲得に血道をあげていくのです。
そして、この戦争への道は、蘇峰の思想とも反してはいませんでした。
蘇峰は自分の思想には「平民主義的趣味」が一生にわたり貫いていた、と述べているよ

日清戦争と主義の転換

日清戦争が勃発したとき言論人は、ほとんど例外なくこの戦争に大義があると考えた。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p201
なぜ大義があると考えたのか。
  • 個人と同じように国家も世界から尊重される存在でなければならないという当時の意識
  • 福沢諭吉(「脱亜論」)は朝鮮や中国との差異を強調して、日本の優越を力説した
  • 日本人口は増える計算なのに、このままでは日本は狭くて、どこかに移民先を見つけなければ日本は滅亡するしかないという強迫観念が当時の日本にあった。
    (実際は人口が倍になってもその土地面積でやっていけた)

つまり、植民地獲得、日本の領土拡張、自尊心の回復という目的によって、多くの言論人に日清戦争に大義があると考えられていました。

日清戦争後に蘇峰にとって「一大回転機」(三国干渉)があったと言われているよ。
それによって国家主義に移ったらしい

徳富蘇峰と国家主義

徳富蘇峰が明確に国家主義に転換したのは、三国干渉の影響によると言われています。

三国干渉⇒1895年にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の3国が日本に対して行った勧告。
日清戦争の日本の勝利による下関条約の変更を勧告。
条約で日本に割譲された遼東半島を清国に返還することを要求する内容。

日本は戦争で清には勝ったものの、列強各国によってその利権を干渉されました。

例えば、二人の子供がおもちゃで喧嘩をして、片方が勝利しておもちゃを得たとします。

すると、親がやってきて、喧嘩をしたことがいけないからとそのおもちゃを奪う、というようなもの。

つまり、もっと強大な存在がいるので、日本は自尊心を保つことができないことを思い知らされたのです。

日本国内では臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の標語が流行。
薪にふせて痛い思いをしたり、肝をなめて苦い思いをしたりして、復讐の為に苦労に耐えることをいうよ
蘇峰のいわゆる「転向」は多分に自伝によって作為されたナラティブ(語り)のように思われる。
もちろん、「平民主義」のなかには「平和主義」を奉じていた蘇峰が、対外論においてこれ以後「力」(軍事力)による「帝国主義」へとその主張を変じていくことは事実である。
‐「余(蘇峰)が意見の平和主義より帝国主義に進化したるはこうちょ(はっきりとした)なる事実なり」
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p38
世間的には、蘇峰が財閥と結びついて援助を受けたり、内閣に都合の良いような記事を書いたりすることで、国家主義に転じたと言われるようになりました。
小説家の夏目漱石は、蘇峰の新聞に対して「国民は此度の事件(1912年明治天皇崩御)にて最もオベッカを使う新聞に候。」など、批判しています。
蘇峰は特に桂内閣に協力していた。
三国干渉の雪辱という国家目標達成が、言論人としての自身の使命だと信じていたと言われているよ
日清戦争後、次に日本は日露戦争(1904)に向かいます。
その背景には、列強各国に「黄的悪寒(こうてきおかん)」という黄色人種が下にみられているという背景があったと言われています。
キリスト教を信条とする列強各国は、その平和主義を白人人種に区切って適応させていたので、そこから外れる黄色人種として日本は不利な立場にいたのです。
白人には平和主義が適応されても、黄色人種は別という思想的区切り。
つまり、日本は列強に対して弱腰をみせると、植民地にされてしまう、という危機感がさらにつのっていました。
日本は強国のロシア(白人)と戦っても危ないし、戦わないとそれはそれで国際社会で生き延びることができないと感じていた
日本は日英同盟(1902年)により、なんとかロシアと戦うことができると信じていました。
それでも、蘇峰は危機感を表しています。
日英同盟が有効であるのは、日本がそれにふさわしい実力をもっている限りにおいてであり、日本をたのむに足りぬ相手と英国が判断するとき、同盟の内実が失われる。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p259
同盟によって日本は後ろ盾を得たとはいえ、弱腰を見せれば同盟破棄されてしまうのではないかという恐怖と隣り合わせでした。
日英同盟のおかげもあって、日露戦争は日本が勝てたよ。
ただし賠償金が得られなくて、戦費を補う負担が増えていった

脱亜論とアジア盟主義

日本には2つ道しかないと、徳富蘇峰は語っています。

アジア人が劣等人種とみなされている状況で、日本が世界に処する道はふたつしかない。

ひとつは「白人万能」の状況に順応して、「保護色」によって「白化」し、「擬白人」になる方法であり、他方は黄色人種たることを恥とせず、その資格を白人に承認させる道である。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p326

2つをまとめます。

  • 「脱亜論」⇒中国と日本が同一視されるかぎり、日本は欧米から自己にふさわしい認知を得られないので、アジアを脱するという考え方
  • アジア盟主論⇒「東洋の平和の番人としての日本」として、自尊心を表明。東西文明の融合者に日本がなる。
結局、日本はどっちつかずになり「孤立援なき国」になりました。
歴史的には第二次世界大戦が起こり、その間の蘇峰の評判はよくありません。
しかし、戦後はまたその鋭さを取り戻していったと評価されています。
蘇峰の印象的な戦後のセリフ「勝ったアメリカざまを見ろ」というのがあるよ
「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬような貧乏くじ」を(アメリカは)引いただけではないか。
「勝ったアメリカざまを見ろ」。
これが冷戦下の米国に対する蘇峰の偽らざる感想だった。
ここでかれは米国を罵倒して溜飲を下げているのではない。
『勝者の悲哀』は、米国の対日政策の誤りを指摘し、日米提携こそあるべき姿だと切言したものである。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p386
蘇峰は米国と友好関係を構築し、共産主義に対抗するのが両国にとって「最も良策」だと主張していたよ。
アメリカと対等な交渉をしていこうとする思想が、今の日本にはあるよね

徳富蘇峰の思想遍歴

徳富蘇峰は、雑誌を立ち上げた「国民の友」の頃の思想は間違っていた、と後年になって語っています。

この時期(『国民の友』1893年)の蘇峰は、「思想は社会の生活の源也、思想によりて社会養われ、思想によりて社会動く」と述べ、「思想」が「社会(生活)」を規定するという立場をとっていた。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p102

後年はこのように語ります。

‐太平洋戦争の直前になると「言葉の奥には思想があり、思想の奥には現実がある」(『皇国日本の大道』)と発言している‐

蘇峰の言論活動は、当然「現実」に引きずられていくことになり、戦時中の「言論報告」の言動はそれを証している。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p104

思想が社会(生活、現実)を規定するのではなく、社会が思想を規定するという考え方にかわったのです。

思考の変化が個人に起こることを哲学者アルチュセールは認識論的切断といっていたよ
>>認識論的切断とは
蘇峰に認識論的切断が起こったから、彼は自分の思考を進化と述べていたのかもしれない
また哲学思想で比較するならば、サルトルの実存主義的なのが蘇峰の前年。
構造主義的なのが後年かな。
>>サルトルの実存主義
>>構造主義
と、あれこれ哲学的思想ができるように、「その知識(蘇峰の知識)は無体系または無体系的であることが本質なのかもしれない」(「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p105)とあります。
要するに蘇峰は、体系的な思想を有する思想家として評価するよりも、「現実」から「思想」を築き上げ、それを「言葉」として「現実」に投げ返すという言論活動を生涯にわたって行った「日本の生める最大の新聞記者」として評価すべきであろう。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p105
蘇峰は横井小楠と関わりがあるんだけど、小楠も思想のない思想家と言われている面があるね
>>明治維新の思想
今回は徳富蘇峰とジャーナリズムについてやりました。
次回はアジア盟主論の思想を持ち、日本の文化を海外に紹介した岡倉天心『茶の本』を取り扱います。
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