「日本人としての自覚」
第4節「西洋思想の受容と展開」
⑤徳富蘇峰(とくとみそほう)とジャーナリズム
>>①文明開化と福沢諭吉の「学問のすすめ」
>>②自由論と中江兆民(なかえちょうみん)
>>③内村鑑三(うちむらかんぞう)と二つのJ(イエスキリストと日本)
>>④教育勅語(きょういくちょくご)と「戦前」の日本
- 徳富蘇峰と平民主義
- 徳富蘇峰と国家主義
- 徳富蘇峰の思想遍歴
参考文献 「徳富蘇峰‐日本ナショナリズムの軌道」(米原謙)、「徳富蘇峰:日本の生める最大の新聞記者」(中野目徹)
徳富蘇峰と平民主義
徳富蘇峰(1863-1957)といえば、日本史の教科書ではこのように紹介されています。
- 明治20年(1887年)に民友社(みんゆうしゃ)を結成して雑誌『国民の友』を創刊
- 当初は「平民主義」を唱えた
- その後、『国民新聞』を創刊
- 遍歴の中で、「平民主義」から「国家主義」に転換したジャーナリスト
山崎‐前に「主義は病気である」という言葉を紹介しましたが、抽象的な話をしている場合は徹底して矛盾なく話を組み立てる「主義」が可能なのですが、現実の地域では完璧な「主義」を組み立てて、そこからしか発現できない人は「あいつは病気じゃないか」と言われてしまうことがあります。國分‐それに常に主義を参照しながらしか話さないのだったら、何も考えてないってことですしね。
内容が首尾一貫しているわけじゃないってのは当たり前ですよ。「僕らの社会主義 國分功一朗/山崎亮」p192
徳富蘇峰は現実を見ながら主義を変えていきました。
まずは平民主義から見ていきます。
徳富蘇峰の平民主義
自由主義、平等主義、平和主義が特徴。
人民の政治参加と民権の伸張が国権の重視につながるという基本原理。
- 富国強兵
- 鹿鳴館(ろくめいかん、外交官の接待)
- 徴兵制
- 国会開設
蘇峰の思想は、この頃の日本社会にとって警報を鳴らすものとして注目を浴びました。
特に徳富蘇峰が参考にしたものが英国T・マコーリーに代表される「ホイッグ史観」だと言われています。
雑誌『日本人』も翌年創刊。
三宅雪嶺(みやけせつれい)や志賀重昇(しがしげたか)は『日本人』で国粋主義(その国に固有の文化的価値を尊ぶナショナリズム)を唱えた
平民主義の遍歴
徳富蘇峰の平民主義は、特に中等階級に向けて説いたものでした。
中等階級に向けて「剛健、勤倹、純粋、簡質の徳」などを説き、仕事での成功をふるい立たせたのです。
「明治の青年」が仕事に成功することで、選挙権を持てるように促しました。
しかし、府県会の選挙権資格を有する地租5円以上を納付する人口は、10年間で180万人から140万人に減少。
- 農工商による中等社会の成長
- 蘇峰が企画した進歩党連合の結成
しかし、ここでも亀裂が生じます。
農民の味方になるのと同時に商民の味方になることができなかったのです。
「日本を拡張する」という発想は、英国をモデルとする近代化を構想していた蘇峰にとって、必ずしもめずらしい考え方ではない。‐平民主義的な社会の現実(閥族打破)と国家の拡張は、かれら(蘇峰と民友社の人々)にとって矛盾するものではなかった。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p178
日清戦争と主義の転換
日清戦争が勃発したとき言論人は、ほとんど例外なくこの戦争に大義があると考えた。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p201
- 個人と同じように国家も世界から尊重される存在でなければならないという当時の意識
- 福沢諭吉(「脱亜論」)は朝鮮や中国との差異を強調して、日本の優越を力説した
- 日本人口は増える計算なのに、このままでは日本は狭くて、どこかに移民先を見つけなければ日本は滅亡するしかないという強迫観念が当時の日本にあった。
(実際は人口が倍になってもその土地面積でやっていけた)
つまり、植民地獲得、日本の領土拡張、自尊心の回復という目的によって、多くの言論人に日清戦争に大義があると考えられていました。
それによって国家主義に移ったらしい
徳富蘇峰と国家主義
徳富蘇峰が明確に国家主義に転換したのは、三国干渉の影響によると言われています。
日清戦争の日本の勝利による下関条約の変更を勧告。
条約で日本に割譲された遼東半島を清国に返還することを要求する内容。
日本は戦争で清には勝ったものの、列強各国によってその利権を干渉されました。
例えば、二人の子供がおもちゃで喧嘩をして、片方が勝利しておもちゃを得たとします。
すると、親がやってきて、喧嘩をしたことがいけないからとそのおもちゃを奪う、というようなもの。
つまり、もっと強大な存在がいるので、日本は自尊心を保つことができないことを思い知らされたのです。
薪にふせて痛い思いをしたり、肝をなめて苦い思いをしたりして、復讐の為に苦労に耐えることをいうよ
蘇峰のいわゆる「転向」は多分に自伝によって作為されたナラティブ(語り)のように思われる。もちろん、「平民主義」のなかには「平和主義」を奉じていた蘇峰が、対外論においてこれ以後「力」(軍事力)による「帝国主義」へとその主張を変じていくことは事実である。‐「余(蘇峰)が意見の平和主義より帝国主義に進化したるはこうちょ(はっきりとした)なる事実なり」
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p38
三国干渉の雪辱という国家目標達成が、言論人としての自身の使命だと信じていたと言われているよ
日英同盟が有効であるのは、日本がそれにふさわしい実力をもっている限りにおいてであり、日本をたのむに足りぬ相手と英国が判断するとき、同盟の内実が失われる。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p259
ただし賠償金が得られなくて、戦費を補う負担が増えていった
脱亜論とアジア盟主義
日本には2つ道しかないと、徳富蘇峰は語っています。
アジア人が劣等人種とみなされている状況で、日本が世界に処する道はふたつしかない。
ひとつは「白人万能」の状況に順応して、「保護色」によって「白化」し、「擬白人」になる方法であり、他方は黄色人種たることを恥とせず、その資格を白人に承認させる道である。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p326
2つをまとめます。
- 「脱亜論」⇒中国と日本が同一視されるかぎり、日本は欧米から自己にふさわしい認知を得られないので、アジアを脱するという考え方
- アジア盟主論⇒「東洋の平和の番人としての日本」として、自尊心を表明。東西文明の融合者に日本がなる。
「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬような貧乏くじ」を(アメリカは)引いただけではないか。「勝ったアメリカざまを見ろ」。これが冷戦下の米国に対する蘇峰の偽らざる感想だった。ここでかれは米国を罵倒して溜飲を下げているのではない。『勝者の悲哀』は、米国の対日政策の誤りを指摘し、日米提携こそあるべき姿だと切言したものである。
「徳富蘇峰-日本ナショナリズムの軌道」p386
アメリカと対等な交渉をしていこうとする思想が、今の日本にはあるよね
徳富蘇峰の思想遍歴
徳富蘇峰は、雑誌を立ち上げた「国民の友」の頃の思想は間違っていた、と後年になって語っています。
この時期(『国民の友』1893年)の蘇峰は、「思想は社会の生活の源也、思想によりて社会養われ、思想によりて社会動く」と述べ、「思想」が「社会(生活)」を規定するという立場をとっていた。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p102
後年はこのように語ります。
‐太平洋戦争の直前になると「言葉の奥には思想があり、思想の奥には現実がある」(『皇国日本の大道』)と発言している‐
蘇峰の言論活動は、当然「現実」に引きずられていくことになり、戦時中の「言論報告」の言動はそれを証している。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p104
思想が社会(生活、現実)を規定するのではなく、社会が思想を規定するという考え方にかわったのです。
要するに蘇峰は、体系的な思想を有する思想家として評価するよりも、「現実」から「思想」を築き上げ、それを「言葉」として「現実」に投げ返すという言論活動を生涯にわたって行った「日本の生める最大の新聞記者」として評価すべきであろう。
「徳富蘇峰‐日本の生める最大の新聞記者」p105
>>明治維新の思想