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「天才」を脱構築する。

 

おはようございます。けうです。

今またkindle本をだそうとして、何者になるには、というように「私」哲学についてより具体的な例で書こうと思っています。

 

人は名づけられるという謎をいつももっているということを取り扱おうと思っています。

その中で、私はいつも天才というワードを考えてしまうんです。

今日も天才について考えようと思います。

天才とは

基本的に私は天才を私の理解を超えたものとして捉えています。

なので、哲学をしていてわかっていない不確定要素の強い私は、自分にたいしても天才性をもっていると思っています。

ここでは天才という性質ですね。

自分がうぬぼれているという意味ではなくて、その理解できないものを理解したいという意味で天才性です。

だから、誰にでもあるんですよね。

自分で自分が理解できない面はほぼみんなが持っていると思います。

これが自分が自分にたいして思う天才性。

 

でも、人が他の人に天才!というとき、また違った様相が現れてきます。

その人物を理解できない人物として見なしているということです。

私には理解できないほど、すごい。

ほとんどの意味では理解はできないけれど、ポジティブな意味ですごいという意味で人は天才と言う用語を使います。

天才⇨理解できなささ+ポジティブな面

 

人は自分が理解できないことはわかっているんですよね。

それは自分の中に天才性を持っているからです。

例えば、赤ちゃんは手品を見たときにそれを凝視するといいます。

一般的にありえないだろうことを見た方が人はそれを凝視するんです。

本能的に人は何かを理解したい、そんな本能は持っていると思います。

この理解できないものがすごいと思えるというところも天才性といえます。

 

天才を主観と客観から考える

では、ここで「天才」、といった意味を主観と客観から考えてみます。

 

私は元から自分の天才性、理解の及ばない点を知っています。

自分に対してはある程度天才と認めている。

主観で見たときに自分は自分を天才性を持っていると思う。

 

 

では、客観視するとどうなるか。

客観的にみたときに、人は自分を主観的にみなくなります。

客観的に見る。

 

客観的に人を見たときに、その人の内部はわからないので表面に現れてきたものにたいして私の理解を超えて、かつポジティブに捉えた場合に人はその人を天才と思う。

 

 

でも、人が知的好奇心を働かせる場合、その理解できないところを理解したいと思います。

この理解したいと思うところがポジティブに捉えられる点なのかもしれません。

 

では、どうしてポジティブに捉えられるのか。

それが私の理解できない点と関わってくるのではないかと感じました。

 

人は自分の中の天才性を理解したいと思う。

それが客観的にでてきている人物がいる。

そうなると、自分の中の理解できない天才性と、客観的にでてきた天才性が重なります。

そんなところに人は探求心を働かせる。

そして結果としてポジティブな面で捉える、探求したい面として捉えるのではないかと。

 

天才を脱構築する

人は二項対立な面を持っています。

善悪、音文字、天才愚者、好き嫌い、といったものが二項対立です。

これは脱構築ができると言います。

でも、脱構築とは簡単に言っても、実は私たちはなかなか脱構築をできないんですよね。

一つ一つの理論があって、それに納得できるから脱構築をする。

 

自分の中に元々持っている価値観をゆさぶることは、様々な価値観と一緒ではないとできないんです。

デリタによれば、人間は自分が知っている言葉の中から妥当なものを選んで思考しています。

私は天才という言葉を知った。

そこから私の価値観に基づいて思考している。

そして、天才という言葉を考える時に反対の用語だと愚者ということを思い浮かべる。

 

そして、自分の中での天才性を発見したとき、その発見した私はそのことをわからないからそのわからないという点で愚者になります。

 

まずは自分の中での脱構築をこの時点で起こします。

さらに、人が他人に対して天才だと思ったとき、その他人を理解しようとします。

そうしている間の自分は愚者なんですよね。

でも、ここで、ソクラテスの言葉を思い出したとします。

無知の知を知れ、と。

私はその人が天才だということがわかる。

そして、その天才だと思う原因を理解できない。

無知を知っているからその分私は賢い。

さらに言えば、またどうして私はその人を天才と思っているのかと言う明確な理解ができない。

なぜなら理解のできないことをすごいと思っているから。

そのなぞ自体が自分の理解を超えて天才性だと思う。

 

こんな風に考えていくと、脱構築が起こってくるのではないかと思います。

 

そして、自分が知っているものの中から妥当な言葉を選ぶとき、ここにも主観がかかわっていきているんですよね。

なぜだかわからないけれど、私はそれを理解したい。

他の物もわからない。

そんなことは多数あるのに、自分の中でそのことに関してポジティブな面が働いている。

知りたいと思う。

そして、また私はそれをわからない。

天才を脱構築する-まとめ

なので、私は私哲学として、自分の感情に興味がでてきているのかな、と思います。

人の感情はいろいろあると言っても、私の性質はある程度決まったものがあると感じるからです。

何かを好きだと思う性質、何かを得意だと思う性質、それが私を私だと思わせてくれている性質です。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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