「人間としての自覚」
第5節「中国思想」
⑤荘子の教え
- 荘子の道
- 胡蝶(こちょう)の夢
- 万物斉同(ばんぶつせいどう)
- 無用の用
- 逍遥遊(しょうようゆう)
- 心斎坐忘(しんさいざぼう)
荘子の道とは
荘子は老子と同様に道を説いています。
老子と荘子の道の解釈はこちら。
- 老子の道⇒作用・反作用、因果律、経年変化などの自然法則。
道に従うとは、自然の法則に逆らわずに生きること - 荘子の道⇒善悪、優劣、美醜、大小などの人為的な区別のない場所。
道に従うとは、人為的な区別を取り除いて、道と一体化すること
老子は無為自然を説いたのに対し、荘子は万物の差異を否定しました。
>>老子の教え
二人の思想を合わせて老荘思想と呼びます。
荘子の「胡蝶の夢」
「胡蝶(こちょう)の夢」
ある日、わたしは寝ていました。
そこで楽しく飛びまわるチョウになる夢を見ていたのです。
ところが、目がさめるとわたしは荘子でした。
いったい荘子が夢でチョウになっていたのか、それともチョウが荘子になる夢を見ているのか、わたしにはわかりません。
>>脳の中の水槽
荘子の物化
荘子の主張の中で最も根源的な主張は「物化」である。
物化とはある物が他の物に変化するというだけでなく、そのものが作り上げていた世界が、まったく別の世界に変容するということである。
-物化には定められた方向がない。
「中国哲学史」(p81)
つまり、荘子はチョウにただ変化するだけでなく、その物が属している世界そのものが変容する(チョウの世界観)ということまでを見ていました。
荘子ならば荘子の世界。
チョウならばチョウの世界を肯定しています。
例えば、荘子の「暴力の忘却」として麗姫という物語。
麗姫
麗姫は王様に暴力的に連れ去られて泣き暮らしていたのですが、王の寵愛を受けて楽しく暮らすうちに新しい境遇を受け入れます。
受け入れると、麗姫は自分の子どもを王にしようとして、他の子どもを次々に殺害。
しかし、結局は家臣に子ども共々殺されてしまうという物語。
麗姫が初めに暴力をうけ、それに対し暴力を返し、最後には暴力によって亡くなってしまうという一般的に見れば切なくなる物語。
しかし、荘子はこの暴力に対して道徳的に反問も、関心を示すこともありません。
麗姫はただその境遇を受け入れている。
自分の置かれた境遇に自己充足すればよいという考え方です。
一切の束縛からの解放
他の物語も紹介します。
あるとき子輿(しよ)という人物が病気になりました。
背中が曲がり、五臓が上に上がり、あごがへその下に隠れ、肩が頭のてっぺんより高くなる病気です。
お見舞いに来た子祀(しし)が「君はそれが憎いか」と聞きます。
すると子輿は「憎くない」と言うのです。
「もし私の左手が鶏になるのならば、わたしは時を告げることにしよう。
もし私の右手が弾になるなら、フクロウでも撃ってあぶりものにしよう。
尻が車輪になるなら、心が馬になるなら、わたしはそれに乗っていこう。
‐そもそも物が天に勝てないこと久しいのであって、わたしがこれを憎むはずもない。」
「中国哲学史」(p85)参照
すべてを受け入れることで起こるのは、一切の束縛からの解放です。
善や悪の忘却を突きつめています。
荘子の「万物斉同」(ばんぶつせいどう)
荘子は善悪、美醜、優劣、真偽などの区別(差異)は人間特有の感覚や思考の産物だと説きます。
人間が存在しなければ、なんの区別もありません。
区別を取り除くと、万物は一つだという思想が万物斉同。
真の世界(万物斉同の世界)では、あらゆる価値に優劣はありません。
よく議論で差別と区別は違うと言うけど、この区別すら否定する。
つまり、好き嫌いもない
朝三暮四
人が区切って作り出した差異を気にしてしまう例を、「朝三暮四」で荘子は説明しました。
「朝三暮四」
あるサルにドングリを朝3つ、夕方に4つあげると、サルは怒りました。
なので、ドングリを朝4つ、夕方に3つあげることにします。
すると、サルは喜びました。
差異など本当はないのに、差異にこだわってしまうのは人も同じだという物語。
>>ゲーム理論の思考法
荘子の「無用の用」
荘子は無用の用を説くことで、無用のものの価値を説きました。
有用なものは無用なものがあってこそ成り立ちます。
例
- 仕事場で役に立たない人と思われている人でも、その立場にいることで重要な役目をになっている
- 学校教育で役に立たないと思われている教科が、のちのち役に立った
- 雨が降らないときの折りたたみ傘
万物は、有用か無用かなど、他のものと比較されるべきではなく、一つ一つが絶対的な価値を持っていると荘子は考えました。
また人生に起こる出来事にも価値の優劣はないので、出来事すべてを運命だと受け入れて楽しむべきだと荘子は述べました。(運命随順)
どんな出来事でもそれはそれで価値があり、無駄な経験などない、ということです。
荘子の「逍遥遊」(しょうようゆう)
優劣、美醜、強弱、大小などの人間が作った差異にとらわれず、自由気ままに生きることを逍遥遊(しょうようゆう)と言います。
寓話(簡略化)を引用します。
「曳尾(えいび)」(尾を泥中に曳く)
荘子が川で釣りをしていました。
そこに役人が来て言います。
役人「国内の政治をお任せしたい」
荘子はある亀の話をしました。
荘子「楚には占いに使われる神聖な亀の甲羅が大切に保管されています。
その甲羅は死んでからすでに三千年が経っているそうです。
この亀は、死んで甲羅が貴ばれるのと、生きてその尾を泥の中に引きずるのと、どちらがよいと思いますか?」
役人「生きて尾を泥の中で引きずるのがよいでしょう」
荘子「私も尾を泥の中で引こうと思います」
荘子自身が自由な生き方をしていたようです。
他にも、荘子の寓話では、とても大きな怪魚(日本からアメリカ位の大きさイメージ)が鵬(ほう)というとても大きな(一度は羽ばたくだけで地球8周分の距離になる)鳥になるなど、とてもスケールの大きな話を持ち出します。
荘子の「心斎坐忘」(しんさいざぼう)
荘子はすべての区別を忘れると、ありのままの世界を見ることができ、道と一体化できると説きました。(心斎坐忘)
(明鏡止水⇒区別の波を取り除いたありのままの世界にいて、邪念のない落ち着いた静かな心境)
心斎坐忘によって明鏡止水の境地に至った人物を荘子は真人と呼びました。
真人の境地は難解。
仏教の「空の思想」と通じるところがあったり、禅宗に影響を与えました。
例えば、どのように難しいのかと言えば、無だから有であるという思想です。
「忘象得意」(象を忘れて意を得る)という言葉があります。
言は象を明らかにする手段であって、象を得れば言を忘れるという意味。
そして知る(有)と満足してそれを忘れていく(無)。
忘れている方がそれをわかっていたりするんだね