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意志と責任は対義語になる。

おはようございます。けうです。

 

「<責任>の生成」を読み終えました。

その中で気になった言葉。

意志とは

アーレント、意志とは過去の切断である。

ハイデガー、意志するとは「考えまいとすること」「忘れようとすること」「憎むこと」

ASDのあややさんからいえば「意志とは皮膚の内側からやってくる数多の情報と、皮膚の外側から入ってくる数多の情報を無理やりまとめ上げたもの」

意志をこのイメージで捉えます。

 

すると本では意志を「薬物的」と捉えています。

つまり、薬物やアルコールなどは過去を思い出さないようにします。

すべて未来志向につなげる。

過去を忘れることは、ハイデッガー的に言えば「考えるな考えるな」と言っているような物。

細分化することでたくさんの考え方や違いが分子的に私にやってきて、それを無理やり一つのモル的なものに変化させるのが意志。

意志と責任は対義語

そして、過去を断絶するという意味からいうと、意志とは責任とは対義語にあるのだといいます。

つまり意志するときには、何かをするぞ!とか、配信を毎日する!とか、過去を切り離す。

そうしたときに責任があるのはそもそもどんなとき?と考える。

責任はやった行動に対してとるもの。

未来のやっていないことに関して、責任はとれない。

だから、対義語になるといえる。

 

では、この対義語になるということを考える。

こうしないようにしないとダメ!だとか、倫理観や人格を塗り替えようとする意志によるプログラムが教育などでおこなわれることがある。

でも、意志という概念を過去の遮断と考えるならば、反省ができない。

だから、反省をして自分を変えようとすることは意志によってはできない。

 

 

そして、未来にばかり目をむけている現在は、責任を取らせない方向に人を向かわせているのではないか、と述べています。

意志の尊重や、発言の尊重や、行き当たりばったりを乗り切る能力の重視などからです。

 

けれど、意志して宣言したときに、その責任はないし、その責任は意識できないということ。

そもそもこの本では、意識とはトラウマによってしか意識できないと言います。

意識とはトラウマである

それはどういうことかと言えば、私たちは普段何気ない行動をしているとき、その行動が意識にのぼらないのだと言うこと。

車の道路で走る側が決まっている。

キーボードを早く打つ。

息を吸うだとか、無意識的に何かをできるときは意識しない。

でも、キーボードを間違える、外国にいって反対車線に出会う、こういった違和感のあるときに意識が立ち上ってくるのだと言うこと。

そして、失敗や間違いを私は強く意識するからトラウマになるのだということ。

言葉の誤をずっと謝るようなものかもしれません。

この言葉は普通に使っていたけれど、他人からそれは差別的だと指摘される。

ここには、何か責めるものがでてくるのかもしれませんね。

 

だから、意識とはトラウマであり、反省であり、これも責任と重なってくる。

未来の体験していないことに関しては、意識も働かない。

そういう意味で、責任を引き受けられない。

意識と意志の区別。

 

次にどういったものが責任を引き受けることになるのか。

責任を引き受けるとは

本の中では、能動でもなく受動でもない中動態、そのものを持ち歩いている状態にこそ反省があってそこから責任が生じると述べます。

つまり、未来志向だけではなくて、過去を「前にして」それにこたえようとするときに、はじめて責任の気持ちが生まれてくる。

例えば、Becomingというように〇〇になるときに、責任をとらなきゃというように考えるのではないか、と語っていました。

 

〇〇になるというのも未来の話なのですけど、ここには責められるというニュアンスではなくて、レスポンシビリティのレスポンス応答と関係しているのではないかと本では話しています。

 

〇〇になる!と決めるのは意志っぽいですよね。

でも、この〇〇に対して、過去を当てはめる。

過去を断絶する意志ではなくする。

過去からの期待に応答するように〇〇になる、といったニュアンスになります。

〇〇になっている過程の状態。

日本語よりもこの場合は英語の進行形としてのBecomingと捉えた方がわかりやすい。

Will be ではなくて、Becomingです。

意志の有無を確認するように人に負わせると言う責任は責任ではない。

自分で責任を感じる時が責任なのだ、と。

 

責任の原初形態とは

ケガをしている人をみて、応答しなくてはと、「今、何かしなければ」と考えることが責任の原初形態なのではないかと話していました。

この原理から言えば、何かすることによって何かになることが責任に関係することだと述べています。

あなたは先生であるから責任を負うのではなく、先生になるから責任を負う。

その人物になるから、そのものになる応答として責任を負うという概念として、責任を自ら持ち歩けるようになることが責任の生成なのではないかと述べています。

先生になるのだから、勉強をする。

生徒にたいして質問に答えられるようになる責任を負うという感じですね。

私がなったものに対して、個別の責任を自分で持つようになるイメージです。

 

 

そして、今の医療で流行りの「意志決定支援」は治療する側や支援する側の責任回避の論理に近づいてしまっているといいます。

日本語としては〇〇になるといってWill beと becomingの区別がつきにくいけれど、その意思決定支援に対しても、現在進行形から考えていく意志のあり方を見ていくのがいいのではないか、というのが本の主張です。

責任を自らの「努力」(なろうとする力、維持しようとする力)に対して持つという感じですね。

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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