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言語哲学の歴史-ソシュールからウィトゲンシュタイン前期後期

おはようございます。けうです。

 

昨日はkindle本での評価のことを話しました。

この意見の違いはどうして起こったのか。

言語分析哲学の意見の違いという歴史から分析してみました。

言語哲学の歴史

近代言語哲学の祖といわれているのはソシュールです。

ソシュールは言語を2つの側面にわけました。

シニフィアンとシニフィエという、専門用語だとこうなんですけど、内容を具体例で説明しますね。

 

まず言葉には文化によって捉え方が違うよということを言いました。

チョウと私が文脈も無視して言います。

チョウ

 

このとき、何を思い浮かべましたか?

キレイな蝶を思い浮かべた人もいれば体の中の腸を思い浮かべた人もいますよね。

このようにいったものとみんながイメージしたものって異なるんです。

 

そして、さらに生き物の飛ぶ蝶について詳しく触れます。

 

日本人なら蝶とガ(蛾)をわけますよね。

キレイな蝶にたいして汚いガ(蛾)というようなイメージをもっています。

でも、フランスだとどうかというと、蝶に対しては蝶もガも一緒くたにされています。

 

一つの蝶にたいしての意味内用が文化によって違っていることを指しています。

それが言葉による二面性です。

ある人は蝶ときいたときにキレイなアゲハチョウを思い浮かべ、ある人はチョウと聞いたときに蛾を思い浮かべるんですよね。

だから、蝶という言葉、発音、とそこからイメージされるものは違うよということをソシュールは説いたんです。

 

そして、これはもっと発展していきます。

この時点でソシュールは言葉というのは記号だといっていました。

まだ言葉によって何をいっているのか分析できたんです。

ウィトゲンシュタイン前期後期

でも、ここで登場したのがウィトゲンシュタインです。

彼は前期後期で思想がわけられていますが、大きな思想の流れをつくりました。

まず前期から行くと、彼は言語を分析できるものだとしました。

前期ウィトゲンシュタイン

先ほどの蝶の例でいえば、言語の意味を分析して意識の中のイメージを客観的にできるのは言語だけだ!

だから、言語を分析すればそのイメージは客観的に把握できるものとして取り出せるだろう、と考えたんです。

あなたがチョウといったとして、それは綺麗な飛んでいるチョウをあらわすのか、身体の腸をあらわすのか、はたまたガを表すのか、アゲハチョウを表すか。

分析すればわかる!となったのが、分析哲学です。

そして、これが前期ウィトゲンシュタインの説いたものであって、これはのちのちに科学哲学の系統に及んだりしています。

 

後期ウィトゲンシュタイン

そして、後期ウィトゲンシュタインに行きます。

彼は自分の説いた前期の思想について疑問に思うんです。

前期の疑問

前期の彼は思います。言葉によって、チョウということの分析はできる。

でも、そもそも言語は日常の中でできたのではないか、と。

日本人がチョウとガを分けていて、その理由はガが稲を食べる害虫になるから、という恣意的なイメージがついているんですよね。

それで、蝶は綺麗だけどガは汚いといったようなイメージがついてしまっている。

でも、このイメージというのは言語では分析できないんですよ。

イメージというのは人が個々人で思い描くものなので、分析なんてできない。

このイメージというのはあるのはわかっているけれど、でも、学問にはしないようにしよう、という態度だったんです。

学問には日常のイメージは加えないようにしよう、と。これが前期。

後期ウィトゲンシュタインからクワインの「翻訳の不確定性」

後期にいきます。

例えば翻訳を考えます。

翻訳者が現地に行って、現地の人がガヴァガイっていうんです。

ガヴァガイってなんだ?というように翻訳者は思う訳なんです。

ウサギを指したときにガヴァガイというとうなずく。

でも、太陽を指したときもガヴァガイというとうなずく。

白さでは頷かない。

祈った時にも頷く。

 

この現地の人の行動をみて、翻訳者はこれは神様だ!

と決定づけたんですよ。

で、翻訳するときにガヴァガイというのは神様だと訳する。

 

でも現地民が指していたのはただのウサギで、そのウサギの捉え方が原住民の人と翻訳者とで違っていたんです。

心の中に思い描いていたイメージが違ったので、翻訳が違くなったんです。

両者の意味が混じりあったところだけが浮かび上がって、両者の共通の理解になって、それが書き記されました。

でも、それが正確な意味をもって書き起こされたことになっています。

私はそのように理解している、と。

分析哲学では本人だけが心に描いたイメージ(カワイイとか良い悪いとか)そういうのを無視していたんですけど、すでに本に書かれているものについてその言語の指示する範囲が一致していたと保障するものがない、ということがわかりました。

だから、心のイメージを無視できなくなりました。

 

心のイメージがれっきとした教科書だったりにも適応されていると考えたのです。

 

だから、言葉の意味している範囲は人によってさまざまだ!ということを後期でウィトゲンシュタインは説いたんです。

心のイメージは教科書にも適応されています。

 

そして、この前期と後期の流れは言語哲学においても2つの道にわかれました。

一つは主に科学哲学に、もう一つは主に日常言語派に。

科学哲学と日常言語派

そして、現代のトラブルに戻ると、

科学はあいまいな表現は廃してしっかりと意味が混乱しないようにするべきだ!

というのは分析哲学の系統です。

私が科学的な言葉、例えば「グリア細胞」といった場合には科学的で正式な文言をいわなければいけない、と分析哲学では考えます。

だってそうじゃないと意味が混乱しますよね。

この細胞の意味が枝分かれすると、大事な手術をするときとか、教科書を書くときなんかに、意味が確定しなくて困ります。

手術ができなくなって、死人がでてしまうレベルになってしまう。

こちらは正解を用意しておく派です。

国語のテストなんかでもみんな正解をもらいますよね。

この正解が出来る態度というのがこの分析哲学の系統なんです。

正解、不正解がある。

いわば絶対主義のようになっています。

 

かえって日常言語派には正解不正解がない。

本人がそう思い描いたのならそうなんだ、ということなんです。

相対主義的なんですよね。

正解不正解はないけれども、本人が思い描いているものがある。

私が描いている「グリア細胞」がある。

 

この正解不正解でみると、日常言語派にすると困っちゃいますよね。

絶対的なものがないと丸がつけれないし、教科書が描けない。

 

でも、そこは自由度が高い日常言語なんですよね。

カテゴリー分けするんです。

ルール分けします。

今は学校のテストのルールの中にいるのだから、その中でのルールを決めよう、と。

その中ではグリア細胞はこうだ!というのを詳しく書く。

そして、その中では意味を確定させておいて正解を用意する。

こうやって確定させたルールの中での運用だから、それが正解というルールをつくり上げているんです。

その中では正解がある。

 

でも、一歩そのルールを外れると、そこには日常言語としての「グリア細胞」がでてくる。

私が自由に語っても、それは私のイメージなのだからいいよ、とされる。

私はカテゴリーを考えられなかったので、私のイメージを誰かが共有してくれるには、私の意味を理解してもらわなくてはいけなくなる。

そして、私が言った意味とあなたの想像する意味が重なったものが「グリア細胞」というイメージとして浮かび上がる。

まとめ

分析哲学の経路⇨絶対主義的
日常言語派の経路⇨相対主義的

古来から続いている絶対主義化相対主義かという問題は、こんなところにもでているんですよね。

だから、争いの元になっているんですけど、それは人の心情によるので、相手はこう理解しているんだな、という私の意味の場においてそのような理解になります。

これは批判でもないし、相手のイメージを理解するという一つの話し合いや、解析や分析の結果なだけなんです。

 

そして、こんな分析ができると、自分が否定されたわけではなく、考え方の違いがあるのだな、ということがよく理解できます。

 

今日は言語哲学の歴史について語ってみました。

聞いていただいてありがとうございました。

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