おはようございます。けうです。
ソクラテスはどんな人?
ソクラテスは対話を説いた人物です。
産婆術というように、自分の無知を自覚するためにも対話を大切にします。
そんなソクラテスなんですが、文字を書きのこすことをよしとしませんでした。
絶対知っで、絶対的に正しい知識があるとする彼がなぜ文章を書き残すことをよしとしなかったか。
これは彼が死ぬ時にも関連しているのですが、ソクラテスは一人一人にソクラテスの無罪をいっていけば納得されるだろうと述べていました。
けれど、ソクラテスは一対多数に対して言葉として思想を述べます。
その結果、わずか数票の差から死刑になってしまいました。
一対多数だと真実を掴んでもらえないんですよね。
弟子のプラトンは学んでいきます。
哲学者が主張をすると民衆に殺されてしまうかもしれない。
そこから彼は思想について死なないように気をつけるようになったと聞いたことがあります。
この事実を原点に、また「善く生きる」について考えてみたいと思います。
ここで取り上げられるのは正義かもしれません。
裁判は正義によって決められる。
知、徳について考える
ソクラテスは言います。
もし一人一人に対して対話ができていたなら、私は死刑になることはなかっただろう、と。
私としては、どうして混乱してしまうことがソクラテスにはあるんです。
なぜ書き言葉を残すことを良しとしなかったのか、と。
ソクラテスは主知主義で、知をもっとも善いものとしました。
絶対的な善がある。絶対的な知というような徳がある。
ソクラテスはこのように示したのに、文を書くことをよしとしなかった。
さらに、民衆に対して、1人ではなく多くの人に語ることをよしとしなかったんですよ。
もし、絶対的な善いものならば、書き記せるはずですよね。
でも書かなかった。
さらに、ソクラテスは対話を疑問視していたという事実もあります。
ずっと対話を重ねていきますよね。
その対話の最終的に目指すところは沈黙だったそうです。
お互いが納得する。
そのようになったとき、言葉は消失して、さらに目的も果たされるといいます。
だから、その行為と逆の言葉によって記すという言葉を残すことを善しとはしなかったんです。
絶対的というと、個人を考えない、という価値観はありますよね。
これが善だ!と押し付けられると、途端にそれが悪になったりする。
ソクラテスの善というのは、言葉を超えたことでもあったんです。
でも、私はソクラテスの思想を言葉によって伝えるしかできない。
彼は絶対値をよしとしたし、絶対主義的な側面があったということしかできないんです。
でも、言うとソクラテスによればそれは善しとはされない。
なので、絶対的価値観とは書きしるせない物、とソクラテスの態度や言葉からそればそう判断できるんですよね。
今でも、善というものがあるとされているし、それによって裁判制度がなりたっています。
絶対知というと個々人が無視されそうな感じはうけますよね。
善というものがあって、それに従うしかないというような印象です。
けれど、ソクラテスで言えば、その従うしかないものを始めに想定することを否定しています。
決まりきったことを否定している。
知には書きしるせないものが入ってくる。
知徳合一
例えば、ソクラテスは知徳合一を説きました。
何が善で何が悪かをまずは学び、正しい徳の知識を身につけ、それを実行すれば幸福になれるとソクラテスは信じていました。ソクラテスにとっては知識と徳は同じものという考え方です。
もし心の平安が訪れないのなら、その理由は徳が何かを知らないからだと考えました。
だから、ソクラテスは死刑判決を受けた後に、それにあがくことはなかった。
国家によって知が決められている。
その決められた知は個人にはどうすることもできないのだから、それは従おうという態度です。
いまでも裁判は公平をきすために、話し合いが前提となっていますよね。
個々人にとって、明らかに刑が確定するだろう場合も話し合いをする。
今はちょうど月9でイチケイのカラスをやっていますね。
裁判を取り扱っているドラマです。
私は漫画でよんだんですけど、その中で印象的だったのが、そこで裁判の過程が大事だといっていたんですよ、
お互いの証言や考え方を述べていって、最終的にお互いが納得するところを目指せるのがよい裁判なようです。
どんなに証言を言って、裁判官が手間暇をおっても、被告人などその関係者が納得すればそれでいいというように漫画では述べられていました。
この納得するとか、しっくりくるという感覚。
それを重視すると言う態度は、今でもソクラテスの絶対知の考え方が裁判でもとられているのかな、と思いました。
「あぶない法哲学」では正義の原点は裁判だと書かれていました。
絶対的な知がなければ、裁判が行えないんですよね。
相対的な価値ばかりだと、人が根本的にこれは嫌だな、と思うことが正せなくなります。
個人と言う言葉を考える
そして、思った事。
個人主義という言葉がソクラテスの時代にはなかったんです。
個人を意識することがなく、個人と思想がくっついていた。
そう考えた時、私たちはその言葉が生れて区別される以前は、その区別されるものがそのものにくっついていると判断しなくてはいけないのかもしれません。
子どもという概念が18世紀に発見されたものだと言われています。
なぜ発見されたのかと言うと、子どもに対してよくないことが出てきたからですよね。
だから、人間に対して大人と子どもという区別ができた。
それと同じく、ソクラテスは知と徳を一致させていた。
それを私たちは分けて考えてしまうようになっているけれど、昔を考える場合はそれをくっつけて考える。
だから、言葉がなくなった状態を目指すと一番の賢者といわれたソクラテスが一致してもおかしくない状態になるのかな、と考えました。
変に自分の正義ばかりを主張しているとそれは攻撃的になったり、暴力的になったりしてしまいますよね。
そのようなときは絶対知の考え方を、しっくりくるところだとか、感覚にまで落とし込む必要があると、ソクラテスの思想からは言えます。
日本だと偽善だろ、という言葉もありますよね。
そうなった場合に、偽が取り払われるまで議論をすればいいということですね。
では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。