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リーガル・モラリズムとは-「生の権力」との関係

リーガル・モラリズムについて。

 

おはようございます。けうです。

 

今日も法哲学について述べていきます。

リーガル・モラリズムという言葉が印象的だったので、これを解説して私が覚えたいなと思いました。

リーガル・モラリズムとは

リーガル・モラリズムとは、法による道徳の強制を肯定する考え方です。

例えば、1960年代までは同性愛を法律で禁止されていて、それに違反すれば重罰がかせられるようになっていました。

長らく存続していた同性愛禁止法に対して、1950年代からやっと適否が問われれるようになったそうです。

 

法実証主義者ハートと保守派の裁判官デブリン卿との議論の対立がありました。

デブリン卿は「多数派の性道徳から逸脱するものは他の点でも社会に敵対的になり、やがて法を犯し、盗み、詐欺、殺しなどの犯罪に手をそめることになるだろう」

こうして同性愛禁止法を擁護しました。

 

対するハートは「密室で行われる同性愛行為によって異性愛者の誰にも危害が及ぶことはない。にもかかわらず、刑罰という害悪によってそれを禁じることは、人々の自由を委縮させるという害悪をふやすことでしかない。だから偏見を含む道徳を法律で刑罰をもって強制してはいけない。」として批判。

そして、やっと同性愛禁止法が撤廃。

その批判に使われた考え方として、道徳を2つにわけました。

実定道徳と批判道徳

ハートは道徳を二つにわけました。

「実定道徳」

「批判道徳」

 

実定道徳というのは特定の内容、そこには差別や偏見もふくまれる決まった道徳。

批判道徳は人の権利を尊重する、人々の幸福を増大させるとした道徳です。

 

 

これらの原則に基づいて、「人権の尊重」と「決まった法律」というのは対立します。

だから、裁判はなくならないし、話し合いもなくならないんだということです。

生の権力とは

そして、フーコーのパノプティコン、パノプティコンというのは監獄なんですが、それをほうふつとさせる話がありました。

健康増進法です。

国民は自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければいけない。

こんなように健康に気をつかわなければいけない法があります。

なぜこの法律ができたのか。

筆者は高齢社会で公的医療保険の負担がこれ以上増えたら困るからみんな病気にならないようにしよう、ということだと。

国家の社会保障のために健康になるように求められているといいます。

ちなみに、健康診断やがん検診、禁煙運動をはじめて導入したのはナチスのようです。

そして、病などで労働で「役立たなくなった」人間を安楽死させていたのもナチスだといいます。

 

フーコーは生の権力を唱えました。

憲法が制定される以前は、王族など上の身分の人が死刑で人を操っていたんですね。

刑罰とか、怖れで操っていた。

 

それが生の権力で操られるようになってきたとフーコーは言います。

人を健康にして、それによって人を操作しようとする傾向にあるということ。

健康増進法などはこれにあてはまるのかなと考えられます。

憲法順守と思考停止

私は初めて法律を意識してその法の元を読んでいるんですが、普段は意識しないですよね。

法はそのままあって、どうすることもできないと私は思考停止していました。

その内容に深く入っていくことはしていない。

でも、私たちは法を知らないまでも自分で選択しています。

法律があるから守らなきゃいけないことだよ!

といいながら、知らない法に関しては無知であること。

知らないけれど、そうなっているのだから従おうという傾向があるということが自分にあてはまるということ。

 

裁判というのはお金がかかるし、自分とはちょっと縁が遠いんだろうな、と思っていたんですけど、裁判を起こす人も同じような境遇の人でもあるんですよね。

 

このような生の権力や、実定道徳、批判道徳、リーガル・モラリズムという言葉を知ると、さらにその内容を知りたくなると思いました。

哲学と法の関係-罰則ではない法を考える

さらに筆者は特定の法が施行されるということに対して、私たちは罰則されることの恐怖のほうを今は想定しているということ。

でも、もし救済する自由に関する法ができたら?と提案します。

 

例えば、一億総ヒーローのようにはできないし、みんなが命の危険のある人を助ける行為を法律で制定するのはあきらかにそれも強制になります。

けれど、正義としてそれを実行したい人もでてくる。

そうしたときのけがをした、失敗をした、それらに対して支援できるような法を作ったらどうかという提案です。

 

私は法を絶対的なもので、変えるまではかなりの労力を払うんだろうと思うのですが、一つ一つの事に関しては話し合いの余地があるのかな、と思いました。

ソクラテスが裁判に関わってくるとなると、哲学も裁判と密接にかかわるのかな、なんて思いました。

そして、哲学が役立たないとするならば、今の法に対して私たちが悲観している面もあるのかもしれないなとも。

 

 

では、今日もお聞きいただいてありがとうございました。

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