レヴィ=ストロース

レヴィ=ストロースと構造主義|高校倫理1章5節6

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
6.レヴィ=ストロースと構造主義
を扱っていきます。
前回は「理性の働きへの反省」として、フランクフルト学派を見てきました。
今回から「他者へのまなざし」として、レヴィ=ストロースと構造主義を見ていきます。
なぜ他者へのまなざしなのか?
それはレヴィ=ストロースの構造主義が他者の考え方をとても尊重する思想だからです。
構造主義⇒近代ヨーロッパでは人間の主体性を絶対視する考え方が主流だったが、それを批判する見方。
人間の言動は、その人間が属する社会や文化の構造によって規定されていると考える。
構造主義って実存主義者のサルトルを批判してたよね?
サルトル批判って、反人間的なものなんじゃないの?
構造主義はサルトルの実存主義(例えば、「実存は本質に先立つ」などの主体性)への批判として有名です。
「実存は本質に先立つ」とは、人間は本質(役割)をもたずに生まれてくるから、自分自身で本質をつくらなければならない、という考え方。
モノと対比するとわかりやすくなります。
例えば、ハサミの場合は切るという役割(本質)のために作られるというように、本質(切るためにつくる)が先で存在(ハサミは切るためのもの)が後。
この逆が人間で、本質をつくっていこうとする主体性が人間にはあるとサルトルは考えました。
レヴィ=ストロースはこの「自分自身で本質をつくらなければいけない」というような「人間には主体性がある」という部分を疑問視しました。
人間には主体性があるのか?
モノには主体性がないのか?
という部分を考察したのです。
文化によっては主体性を大事にしないことが重要な文化もあるし、「モノの主体性」が重要な文化もあると、人類学者レヴィ=ストロースはフィールドワークの中で発見しました。
例えば、日本の民藝品では、作品の本質を取り出すというようなつくりかたをします。
木の中にいるものが語りかけてきて彫刻が完成したとか。
日本文化のアニミズム(すべてのものに霊魂がある)もモノに主体性があるかのようだよね
サルトルの実存主義は、主体性を重視する文化を特別視するような考え方(西洋文化中心主義)だとレヴィ=ストロースは考えたのです。
主体性をもたない文化(非西洋的)であっても、そこにはそこの文化があって優劣はつけられません。
このように、レヴィ=ストロースの構造主義は文化や地域への優劣をやめるように説く点で、ヒューマニズム(人間性の尊重)的な思想なのです。
またそれぞれの文化を尊重している点で、サルトルの思想を否定しているわけでもない。
「民俗学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である」(寝ながら学べる構造主義p122 レヴィ=ストロースの言葉)
ただサルトルの「歴史は絶対だとか、主体はある」という西洋中心視点に関しては批判をしただけ
では、具体的にレヴィ=ストロースの構造主義を見ていきます。
ブログ内容
  • レヴィ=ストロースと構造主義
  • レヴィ=ストロースと野生の思想

参考文献 「レヴィ=ストロース入門」(小田亮)、「はじめての構造主義」(橋爪大三郎)、「寝ながら学べる構造主義」(内田樹)、社会学用語図鑑(田中正人、香月孝史)

レヴィ=ストロースと構造主義

レヴィ=ストロース(1908-2009)はフランスの人類学者です。

大学で哲学や法学を学んでいたのですが、「人間というものを理解するためには内省に閉じ籠ってばかりいてはだめだ」(入門p10)という気持ちから文化人類学者の道を選びました。

レヴィ=ストロースがめざしていたのは、人間の理性の拡大であったが、それを、自己(西洋)の理性に他者(非西洋)が目覚めることによってではなく、他者の理性に自己を開くことによって実現しようとしたのである。(入門p12)

例えば、植民地支配の正当化は「閉じられた共同体」からの解放というイメージの元に行なわれました。
(「閉じられた共同体」というのは、野蛮であったり、縛りがたくさんあったりといった文明化していないというイメージ)

しかし、これは西洋目線であって、他者(非西洋)がどのような文化にいるのかは実際にフィールドワークしてみなければわからない、とレヴィ=ストロースは感じたのです。

レヴィ=ストロースは発展や解放という物語を批判した。
これは想像にすぎない、と
かつ、大二次世界大戦後に明らかになった西洋の野蛮さは、西洋中心主義的な見方を疑問視させた
レヴィ=ストロースはソシュールの言語学から構造主義のヒントを得ました。

構造主義とソシュール

ソシュール(1857-1913)は言語活動は無意識のうちにある「差異のみからなる体系」によると述べました。

レヴィ=ストロースはこれを言語を習慣や文化といった社会構造に応用します。

構造主義

当初、人間(個人)が社会をつくっていると考えられていました。

しかしそうではなく、社会の構造に個人の言動(思考の構造)が規定されると考えたのです。

あるとき、レヴィ=ストロースが現地に赴いて、見たことの無い草の名前を原住民に聞きました。

すると、原住民は「そんな草に名前があると思うなんておかしい!」と笑い出したのです。

人々の常識はそれぞれの文化に規定されていることをレヴィ=ストロースは発見しました。

他の例

  • 日本では蝶と蛾(蛾は稲につく害虫)を区別するのに対して、フランス人は蝶も蛾もパピヨンと呼ぶ
  • イギリス人はラビット(ペット)とヘアー(食用)を分けるのに対して、日本では飼いウサギだろうと野ウサギだろうとうさぎ。
  • 日本では虹は7色に分けられるのに対して、ドイツでは5色に分けられる

このように、民俗的な価値観に反映して言葉は区切られているのです。

無意識に区切られている

それと同じように、西洋の思考が科学的に世界を区切っている傾向があるのに対して、「未開社会」はそれとは違う区切り方をしていると構造主義では考えます。

例えば、科学的に世界を区切った結果の一つが環境破壊(自然を支配できるものとみなした結果)。

それに対して、未開社会は環境を守ることに要点を置いてきたとも考えられるのです。

それぞれの文化に「良い点や悪い点」がある
そして「良い点や悪い点」という私の思考も、私の文化の影響を受けている

レヴィ=ストロースの構造主義は誤解されやすい、と各参考文献で言われていました。

まずは反人間主義だと取られた点。

次に、ソシュールの言語学の視点にはない変換の概念が構造には含まれているという点です。

誤解されやすい点を明確にしていきます。

レヴィ=ストロースと構造主義の誤解

レヴィ=ストロースは構造主義の〈構造〉をつぎのように定義しています。

『構造』とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形〔変換〕過程を通じて不変の特性を保持する。

‐レヴィ=ストロースの構造主義における〈構造〉概念を理解する鍵は〈構造〉と呼ばれるものと体系と呼ばれるものの違いを理解することにある。
(入門p39-40)

構造主義はよく誤解されやすい。

その誤解を解くには〈構造〉と体系の違いを認識することが重要だと述べられています。

  • 構造⇒他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるもの。
    ある体系が変換をとおして別の体系に変化したときに現れる不変性。
    さまざまな要素が関係しあう体系のこと。
    構造は手が加えられると別の体系になる。
  • 体系(システム)⇒体系は変形が可能ではない。
    体系は手が加えられると、ばらばらに崩壊してしまう。

例えば、じゃんけんのシステムを知っていたとして、グーを石に置き換えてもシステムは変化しません。

しかし、ある手を「無敵」とするとゲームが崩壊します。

僕が出したのは「グーチョキパーを含む型」だから、僕は無敵!

これが体系(システム)による見方。

ルールに変更が加えられることで、じゃんけんとしての体系は消えてしまいました。

一方、構造という見方は体系と体系の〈あいだ〉をみる見方です。

構造はその体系(一つだけ)を見ていても何も見つけ出すことができず、他の体系とを比較することで見えてきます。

チョキ>パー>グー>チョキという体系はこの体系を分析するだけでも見えてきますが、構造は「グー体系」と「石体系」という別々の体系を見ることで初めて見えるものです。

無敵というルールが加わったとしたら、新たなその体系はその体系として何か構造が見つけられるということ。

じゃんけんの説明だとわかりにくいので、レヴィ=ストロースが発見したインセスト・タブーを例に見ていきます。

表面的にはかけはなれているようにみえる徴候同士を、思いがけない造り方で重ね合わせることによって意味を発見するという、…構造主義の一つの基本となった態度」
(入門p52)

インセスト・タブーは近親相姦のタブーのこと。
親とか兄弟、このイトコとは結婚が禁止とかいう各民族の掟

レヴィ=ストロースとインセスト・タブー

インセスト・タブー(近親相姦)には、民俗学者を悩ませていたものが2つありました。

  1. このイトコとは結婚がダメだけど、このイトコとは結婚が推奨されるといった法則の謎
  2. なぜ近親婚の禁止があるのかという謎

レヴィ=ストロースはこの二つの謎の答えを「女性の交換」と見ました。

一つの民族の中でのインセスト・タブー体系だけでは発見できなかった構造を、他の文化と比較することで答えを見つけたのです。

例えば、ソシュールはなぜ「パピヨン」というのかなぜ「ラビット」というのかといった言葉の結びつきを言語の恣意性と呼んだ。
レヴィ=ストロースはこの恣意性に構造を見出していたということ
レヴィ=ストロースのインセスト・タブーの答えは、モースの『贈与論』を参照にしたと言われています。
レヴィ=ストロースは、マルセル・モースの『贈与論』にならって、人間社会の根柢には、互酬性(相互性)の原理による他者との贈与交換があるとし、社会関係を生成するために最も重要な贈与こそ、他集団への女性の贈与であるという。
(入門p76)
世界は贈与でできている」(2021年)という「贈与」を扱った本はその年にいろんな受賞。
「贈与だよ」と言葉で差し出されたものは呪いになり、その呪いを意識していないうちは幸せだと述べていた。
「僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない」

インセスト・タブーは「交換のための交換」を重視し、女性を交換することで社会的連帯を作る構造があると考えたのです。

「贈り物」にはお返しをするという「無意識な人間に固有の気分による行動」を構造化。

そして、その贈与と返礼が往復するので、社会は同一状態にとどまることができないのです。

交換という不変なものはあるけれど、中身は変わっていく。
人類が存在し続ける(変わらない)ためには、変化する(交換する)必要がある

複雑に見え、共通性がないとみられていた民族同士の法則も、同じ構造の異なる表現であることをレヴィ=ストロースは数学的に示すこともしました。

また、なぜ女性の交換なのか?という問いもあります。

一つに、農耕が始まることで土地を引き継ぐ子どもが貴重になる。

その子どもを増やせるのは女性である。

女性が貴重になる。

定住社会への贈りものは貴重なもの。

といったことから、この構造ができていったのではないか、とレヴィ=ストロースは考えました。

また女性の希少性がない地域(遊牧民)でも、インセスト・タブー(女性とは限らない)が社会的結合を生むという命題は当てはまっていたそうです。

でも、例外もあるよね?
不変なものがあったとしても、体系が変わるたびにそれを吟味しなければいけません。

その批判があったので、レヴィ=ストロースは社会生活上の外的制約のより少ない神話研究へと向かいました。

その神話研究からブリコラージュと野生の思考についても説明していきます。

野生の思考

  • 無文字社会で存在する意識されない論理
  • 「未開人」はブリコラージュでものを組み立てる。
  • 野生の思考の対比は、西洋の文明の思考(科学的思考)

レヴィ=ストロースと野生の思考

レヴィ=ストロースは、具体の科学としての神話的思考を「ブリコラージュ」にたとえている。

ブリコラージュは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳されているが、限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。
(入門p128)

レヴィ=ストロースは神話分解によって、構造を発見しようとしました。

例えば、ある神話ではこんな話があります。

「金剛インコとその巣」(神話のだいたいの流れ)

ある一人の若者が、自分の母を森のなかで犯した。

若者の父は妻の変化に気がついて、息子が犯人であることを知る。

父は報復のために、息子に死霊の巣から大きなマラカスを取ってくるように命じる。

父は課題をこなす息子に次々と難題を出す。

その内、金剛インコを取りに行く途中で、息子は大きなコンドルに出会う。

コンドルは若者の尻の肉を食べてしまった。

若者はまだ生きているのだけど、尻がなくなってしまったので食べたものが体の中にとどまらない。

若者は祖母から聞いた話を思い出して、芋をつぶして人口の尻を作った。

村に帰ると、村は捨てられてしまっていた。

息子は父の策略を知り、父に襲い掛かって湖に沈めた。

後にその湖には、骨と、葉の形が肺に似ているといわれる水生生物と化した父の肺だけが残った。

カオス
なぜ尻を食べられる文脈がでてくるのか。
なぜ村が捨てられていたのか、などなど。
一つ一つの意味の連携をたどることはできません。
神話学者はこのような神話が残っていることを謎に思っていました。
けれど、他の神話に似たようなものがあることを発見します。
「水、装身具、葬礼の起源」(神話の流れ)
ある村の村長の妻が、同じ一族の婚約が禁止されているイトコに犯されていた。
それを息子が見ていた。
それを聞いた村長は、イトコを殺して妻も殺した。
母がいなくなったことを知らない息子は、鳥に変身して母を探し回った。
鳥は村長の肩にフンをした。
そのフンから大きな木がはえたので、村長は村を出ることにした。
それ以来、村長が立ちどまるごとに湖や川ができるようになった。
世界に水ができ、水が出現するごとに村長の肩の木は小さくなった。
レヴィ=ストロースはその部族に残っていた神話の全体を見ることで、ある類似性を見つけていったのです。
  • 水の起源の話
  • 近親相姦の報復
  • 息子と父との関係性

などなど。

そして、その分析では「近親相姦のような不当で過剰な接近が、それとは逆に過剰な分離を起こ」すなど、一つの類似性に逆転したものごとを発見しました。(入門p161)

例えば、親族関係のコードについて、近親相姦を犯すほど「近しい」ものが語られると同時に、親族間による争いという「疎遠」なものが語られます。

このようなカオスな神話も、その神話同士を分析することで構造が見えてきたのです。

レヴィ=ストロースの手にかかることで、その分析は数学的な記号として表現されました。

類似性によって構造分析できることをレヴィ=ストロースは発見した。
ただしその批判として、これは彼にしか出来ないのではないか?
というものもあった。
「構造分析にとって、神話とは、神話と神話の〈あいだ〉にある神話変換のことにほかならない」とレヴィ=ストロースは考えます。
なので、息子が鳥になったり、村長が木をはやしたりといったそれ自体には意味を発見することはできないのです。
ただ同じような神話に、穢れだと思われていたものが神聖になったり、高いものを捕まえるのに低いものを使ったりと言った全体を包むような構造が見られます。
恣意性(カオス)に構造を見出した

ブリコラージュ

神話研究からブリコラージュ(日曜大工、器用仕事)を見てみます。

レヴィ=ストロースは神話研究のねらいを「人間が神話のなかでいかに思考するかではなく、神話が人間のなかで、人間に知られることなく、いかに思考するか」にあると述べます。(入門p212)

カオスな物語は、人間が思考してつくったのではなく、神話が人間の中で思考することによってできたと考えたのです。

アニミズム的なものが神話にもあると考える
神話には作者がいない、とレヴィ=ストロースは考えます。
なので、そこに人間の主体を取り出す意味はないと考えるのです。
「私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。
私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです」(『神話と意味』)
「‐私の仲介で、神話がそれ自体で再編成するからであって、私はただ神話群が通りすぎていく場であろうと努めるだけです。」(『構造主義との対話』)
(入門p189)
私は主体ではなく、通り過ぎる場であったり、交叉点であったりするだけ。
つまり、無意識という空虚な場では、主体を捨象してしまうことで、そのものが取り出せると考えます。
また「神話とは、自然から文化への移行を語るもの」だということをレヴィ=ストロースは端的に表現しています。
私たちは考察することで文化人の一面を見せるから、ただ自然なものをそのまま取り出すわけではない、という点はある。
私の場や交叉点でそれが浮かび上がらせることがコミュニケーションや他者理解になっていく
さて、この考え方をブリコラージュに当てはめます。
レヴィ=ストロースは植民地化された人々はブリコラージュという野生の思考をもっていると語りました。
臨機応変の戦術としてのブリコラージュはそもそも首尾一貫した同一性を保持する近代的な主体にはできない」(入門p206)
つまり、レヴィ=ストロースは主体性を解体することによる思考を説きました。
彼は「ブリコラージュとは偶然に与えられた素材との対話」(ここでの場合は神話との対話)だと考えたのです。
例えば、相手の会話を聴く受け身の態度がコミュニケーションになったりするのです。
「他者の理性に自己を開く」と、私は場や交叉点になる
また勘違いされやすいブリコラージュとして、ありあわせの物で私が工夫をして選択して作り上げる、という考え方があります。
ありあわせのものであっても、私が主体となって、しかも一部を捨てるなどすることはブリコラージュではありません。
一方で、神話は環境から与えられたありあわせの材料をブリコラージュして作られていると考えます。
今回はレヴィ=ストロースと構造主義についてやりました。
次回はフーコーについて取り扱います。
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