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「世界は贈与でできている」を読んだ感想-「ペイ・フォワード」からみる贈与とは何か。

おはようございます。けうです。

 

「世界は贈与でできている」近内悠太さん著。

第29回山本七平賞奨励賞を受賞している本を読んでいます。

>>世界は贈与でできている

 

私はこれをすすめられて読んだのですが、一章を読み終えた時点で涙がでてきました。

私もとてもおすすめしたい本です。

贈与というものは、こんなに心を動かすものなのだと改めて実感しました。

 

ここでの物語を紹介して、私が感動した理由を話したいと思います。

贈与とは何か。

贈与とは、お金では買えない、気が付いたときに受け取ってしまっているものだと著者の近内さんは語ります。

まず贈与をお金では買えないものと定義したときに、ではなぜ「買えない」という否定形が入り込んでいるのだろうと問いを立てていました。

そこから、否定形ではない贈与そのものを見ていこうとしていきます。

そして、一番身近な例は親子の「無償の愛」というカタチになって贈与が現れてくると言います。

 

では、本から映画ペイ・フォワードの解説によって表わしていた贈与を見ていきます。

贈与を映画「ペイ・フォワード」から見ていく。

ある男性が、車がなくて困っていたところ、高級車を代わりにもらうという贈与を受けました。

男性はその人にお礼をしに行くのですが、その人はすでに他の人から贈与をもらっていて、その人からの贈与を他の人に返してくれと言われていたと言います。

なので、男性はさらに贈与の先をたどっていくことにしました。

高級車をくれた人から、その人に贈与を与えた人、さらさらにその人に贈与を与えた人へと。

たどり着いた先が、トレバー少年でした。

トレバー少年は、社会科教師の授業で「世界を変える方法を考え、それを実行してみよう」という課題に対して、善い行いを受けたら3人にパスをするという「ペイ・フォワード運動」を思いつき、それを実行することにしたというのです。

 

少年が贈与の起源になりました。

少年は誰からも贈与を受けたわけではなく、贈与を振りまいていったのです。

その少年から贈与をもらった人は大勢になりました。

贈与の起源はその少年なのですが、彼は贈与を受け取っているという感覚がありませんでした。

父親からはDVを受けていたし、母親はアルコール依存症。

友だちはいじめにあっていたし、彼はホームレスの待遇の良くない暮らしぶりをみて育ちました。

トレバー少年が社会科教師になぜペイ・フォワード運動を思いついたのかと聞かれたところ、「何もかも最悪だから」と答えたと言います。

トレバー少年は、柔らかな毛布に包まれるような愛を知らずに育ちました。

彼は主観的には贈与を受け取ったという実感を持つことがなかったのです。

それなのに、トレバー少年は自ら贈与運動を開始しました。

その結果、彼はいじめられていた他人を助ける上で、刺されて死んでしまうという自己犠牲的な死を迎えました。

そして、その自己犠牲に関して本にはこう書かれています。

「彼が贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまったから」トレバー少年は殺されてしまったのだ、と。

ここでは、殺されるということを贈与の失敗として表しています。

トレバー少年は、元々の贈与をもらっていると感じていませんでした。

なので、それに対して彼は自分の命(自分の未来)を犠牲にすることで、この世界に良きものを代わりに与えたと本では解釈しています。

期待は「果たすべき責任」になる

トレバー少年は世界に何も期待していませんでした。

期待とは、「果たすべき責任」。

期待していないとは、つまり世界に対して自分には何の責任もない、と宣言したことになると本で述べられていました。

「被贈与という『元手』を持たないトレバーは未来(つまり自分の命)と引き換えに、他者へと善意のパスを渡したのです。」

こうして贈与が失敗したのだ、と。

筆者は結論として、映画「ペイ・フォワード」から得られる教訓は、「贈与は受け取ることなく開始することはできない」ということだと述べていました。

 

贈与ではないものは偽善や自己犠牲という交換

贈与はすでに受け取ってしまっているものだと実感するもの。

だとすれば、それは気づいていなければいけないものになってきます。

自然と気が付いているものが贈与。

筆者は気が付かないでやるものに対しては、それを偽善と呼んだり、見返りとよんだり、自己犠牲と呼んでいました。

 

私はなぜこの話に心を動かされたのか。

このトレバー少年の心持ちに、私の心境が似ていたからかもしれません。

私は恩知らずなので、なかなか意識的に「無償の愛」を実感することがなく育ってきました。

そんな中、大変な子育てに挑むときがきました。

通常ならば、親の愛を受けているからその贈与に返すように贈与を行います。

ある人は自分が贈与を世界からうけているから、その贈与を返そうとして、社会貢献しようとします。

私は自分がそんな貢献をしたり、社会に期待したりすることが出来ていないと気が付かされてしまったから、涙がでてきたのだと思いました。

私は変に責任感を持っている面があると自分で思うのですが、それはきっと自己犠牲というカタチにしかなっていないのではないかと気が付かされました。

 

贈与の例として話しますが、私は最近、世界に対して何かをしたいという人に出会いました。

自分がこのままいなくなって、それでいいのか?と自分に問いをたてている人です。

私はその人から贈与を受けました。

そうした贈与を受け取ったときに、初めて私は自己犠牲ではない贈与をしたいと思うようになりました。

身近なものやことでも、私がしたことが贈与になっていく可能性もあるのだと実感できたのです。

本人が思っていない事でも、それが贈与になるのです。

 

本に戻ります。

本の一章でのまとめになりますが、犠牲や偽善、そのようなものではない贈与は、その贈与を実感したときに初めて成り立つ。

「贈与は必ずプレヒストリーを持つ。」

贈与を説く議論の出発点はここなのだと筆者は語っていました。

贈与とは何か-まとめ

本の中でのどきっとした言葉を紹介します。

偽善をする人の言葉でこのようなものがある、と。

「彼らの合言葉は『お前のことを思って言っているんだよ』という呪いの言葉」

これは等価交換を「贈与」だと言い張るから、そこには「自己欺瞞」があるといいます。

「あなたのためにやるのだ」という事は、本人に贈与を意識させるので交換を促してしまいます。

そこにあるのは金銭的ではない形の「交換」があるだけだ、と筆者は語ります。

贈与は交換ではないのです。

 

人は何に贈与を感じているのか。

もし親から「無償の愛」を受けて育っていて、その親が愛を他に返すように言っていたとしたら、その人はその親に認められるような贈与を他者にしていくのだろうなと私は思いました。

 

贈与を実感したときから、社会との関りがはじまるのかもしれません。

「贈与とは、モノを『モノではないもの』へと変換させる創造的行為に他ならないのです。だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができなのです。」

プレゼントをもらうと、そのプレゼントがただのモノから特別なカッコつきの「モノ」になる。

そうして、大切なモノになっていく。

贈与に答えたいなと思ったときに、初めて世界に期待がもてるのかもしれませんね。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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