「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
8.レヴィナスと他者の哲学
>>1.フロイトと無意識の発見
>>2.ソシュールと言語学
>>3.ウィトゲンシュタインと言語哲学
>>4.フランクフルト学派と「啓蒙の弁証法」
>>5.ハーバーマスと対話的理性
>>6.レヴィ=ストロースと構造主義
>>7.フーコーと「人間」の終焉
- レヴィナスを「レヴィナス入門」から読む
- レヴィナスを「他者と死者」から読む
- レヴィナスを「レヴィナス 無起源からの思考」から読む
参考文献 「哲学用語図鑑」田中正人、斎藤哲也、「レヴィナス入門」(熊野純彦)、「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」(内田樹)、「レヴィナス 無期限からの思考」(斎藤慶典)
レヴィナスを「レヴィナス入門」から読む
ひとは現にひとを殺してきた。
今日もなお、ひとを殺しつづけている。
だが、それは「許される」ことなのだろうか。
‐レヴィナスが立ち尽くしたのも、おなじこの問いをまえにしてである。
殺人とは、ある意味で「日常茶飯事」である。
だが、それは「許される」ことなのだろうか。
それは、あるいは「可能なこと」なのであろうか。
(入門p8)
「レヴィナス入門」では、レヴィナスが殺人が果てしなく生起している場所で思考していたと述べます。
その場所から、人間の存在の条件、他者の意味、殺人の(不)可能性を問いた哲学が一つにレヴィナスの哲学だというのです。
「人間の存在の条件」‐レヴィナスと現象学と実存主義
著者は工業地帯のたたずまいに、どこか物悲しさを覚えたことからレヴィナスの一節を発見したと言います。
個別的な〈もの〉は、ある面で工業都市に似ている。
工業都市にあっては、いっさいが生産という目的のために適合されている一方で、工業都市は煙にみち、屑と悲しみとにあふれて孤立しているのだ。
〈もの〉にとっての裸形とは、その〈もの〉の存在が目的にたいして有する余剰のことなのである。
(入門p10 レヴィナス著『全体と無限』の一節)
例えば、サルトルの哲学で言えば、モノは目的のために作られたのでした。
けれど、工業都市はその目的外に外観として存在してしまっています。
目的が何かわからないものは、それを見る私にとっては奇妙なものに見えてしまうのです。
しかし、この奇妙なものというのは、見方を変えれば私のことでもあります。
サルトルは「本当の私」を、目的を持たない木の根っこのような奇妙なものであり、それに「吐き気」を覚えてしまうようなものだとしました。
その考えをレヴィナスも採用します。
レヴィナスにとって、存在することはそれ自体としては世界のうちで一箇の悲惨であり、「この悲惨のうちに、私と他者との間にはレトリックを越えた関係がある」ようになると言うのです。
もう少し、私の悲惨さを追ってみましょう。
存在への倦怠感
「眠れない夜に、イリヤの恐怖が訪れる。」
レヴィナスは意識をうしなって睡眠につくことこそが、むしろ〈私〉の獲得なのかもしれないと考えます。
サルトルの自由の刑とも似ているかもしれません。
私は起きているときに主体性を発揮して何かをしようとします。
例えば、主体性を発揮する私は私に対して「起きろ、仕事をしろ、勉強をしろ」と急き立てます。
私は私の何者かになろうとする命令に動かされ、ベットから抜け出そうとします。
本当は、そのまま寝ていてもいいかもしれないのに。
けれど、それが出来ないのは、気持ちが悪いから、「吐き気」がやってきてしまうからです。
起きないと、何かをしないことによる妄想が膨らんでしまって、それのほうに耐えられなくなるのです。
その妄想の声が聞こえなくなるとき、つまり、私が眠りについたときが「本当の私」とも言えます。
私の主体性に急き立てられない「私」です。
とはいえ、かえってこの疲れがあるから、私は眠りにつけるのだと考えることもできます。
主体性をもった私と、その声に従う私は切り離せない一つの私になります。
私の悲惨さとは、私が〈主体性である私〉でありつづけるという、存在することそのものの悲劇を内含しているからです。
疲れていないと、眠ることができない、という人間特有の同一性の檻に囚われているという悲惨さ
他者の意味
人間の存在の条件は第一に享受としてとらえられます。
人はお腹が空くから食べるように、「欲求の対象」が「欲求」そのものと合致し、それが消失して世界そのものが同化されるのです。
欲求と渇望(欲望)
- 欲求⇒欲求が充足するとき、その対象は消失し、同化する
- 渇望(欲望)⇒無限の渇き、その対象を欲っするが同化できないもの。
渇望されるものは、渇望を満足させるかわりに渇望を引き起こすような〈無限〉の〈渇望〉
渇望の対象が他者なのです。
他者は決して私に取り込むことができません。
渇望するけれど、渇望が渇望を呼ぶ無限なものが他者なのです。
今までの西洋の知における批判としても捉えられる
エロス
欲求や欲望はエロス的な意味にも捉えられます。
愛する他者のからだの一部、身体の表面を口にふくむしぐさは終わらない。
そもそもなにものにたいする飢えでもなかった以上、飢えることそのものはますます増大してゆく。
「到達点」もなく「ほの見える果て」もない。
それは「純粋な時間の蕩尽」である。
(p108)
私は愛撫する他者を求めるけれども、それは決して手に入らない。
つまり、欲望は無限です。
「他者が他者であることそのもの、他者の他性それ自体」を手に入れようと私は欲望しても、それは私から逃れてしまいます。(p110)
そんな手にいられらない他者を、私はどのように欲しいと思う対象としたのでしょうか?
それは、他者が顔となって私に現れたからです。
現象学と顔
例えば、現象学的に顔を考えてみます。
現象学では、私の意識に現れるもの、すなわち「現象」をなぜわれわれは確信しているのかを解明する学問でした。
私の意識だとすれば、「〇〇である」として私が捉えたものの解明です。
しかし、ふいに私が幽霊を見たとしましょう。
「幽霊がいる!!」
私が「幽霊である」と思っているならば、驚かないはずなのに、私は私の意識ではありえないものに対して驚いているのです。
レヴィナスの他者は「〇〇がある」という驚くべき存在としての他者であり、その現れが顔として表現されるのです。
殺人の不可能性
人間の存在の条件、他者の意味から、殺人は可能なのか?を考えてみます。
レヴィナスの顔では、顔が「汝殺すなかれ」と殺人を禁じてくるのでした。
では、このように禁じられるから不可能なのでしょうか?
違います。
そもそも殺人は日常茶飯事でした。
それなのに他者は殺すことができないのです。
他者を殺すとは、他者をもはや他者ではないもの、たんなる〈もの〉とすることである。
殺された他者は、じっさい刻々と〈もの〉へと還元され、事物としての解消過程をたどって、やがて腐敗し解体する。
(p128)
つまり、私が殺人を犯したとたん、それは他者ではなくなるので他者の殺しではないのです。
私が殺人をしても、他者の声が聞こえてきたり、顔が見えてきたりします。
殺人をしたからこそ一層、他者に囚われるということがあるのです。
他者と私の関係
レヴィナス哲学における私の「唯一性」は、他者との関係によってでてきます。
他者との関係を逃れられないことによって、他者に呼応してしまうことによって、私の唯一性、あるいは単独性がでてくると考えます。
そして初めに戻れば、私は私の主体性の声によって動かされていました。
つまり、私の内部にはそもそも他者がいたということになるのです。
主体性は〈同〉における他として構造化されている。
だが、意識のそれとはことなった様相においてである。(p142)
弁証法でいう対象の取り込みとは違った仕方で、すでに〈他〉が私に懐胎されているという矛盾が生じている主体がレヴィナスにおける私になります。
主体性はあらかじめ破綻しており、傷ついている。
「自己とは、〈私〉の同一性のこのような破損あるいは敗北なのである。」(p144)
他者と倫理
主体性に他を取り込んでいるとは、顔を見たときにすでに声を聞いてしまうことだと述べられます。
呼びかけを呼びかけとして、声を叫びとして、無言の声を声ではない声として聞き取ってしまうとき、「無条件の《ウィ》」によってあらかじめ答えてしまっているからだ。
聴き取ってしまうこと自体が、応答の拒否にすら先立ってしまう、無条件の諾なのである。
(p181)
このような私の存在あり方から、私は他者にたいする応答‐可能性、すなわち〈責め〉が私の中で生じてしまうとレヴィナスの哲学では考えます。
また、私の中に他性があることから、私がいた場所は他者の場所でもありえたという論理に展開。
そのいたかもしれない他者にたいしても、私は〈責め〉を負うことがありえます。
レヴィナスは自分が強制所で死ななかったのは、ただの偶然だと考えていて、自分を責めもしている
他者は差異のままに私のうちに食いこんでいる。
だから、私は他者に無関心でいることが出来ない。
そして、このことは〈倫理〉が可能であるための条件ではないか?と本では呼びかけていました。
レヴィナス入門まとめ
「レヴィナス入門」では、人間の存在の条件、他者の意味、殺人の(不)可能性を問いたレヴィナスの哲学を見てきました。
そして、結論では、これが条件ではないか?という問いの仕方で終わります。
レヴィナスの他者哲学では、他者は絶対的差異であり、取り込むことができないからです。
レヴィナスは、じぶんは倫理を「構築」しようとしたのではない、たんにその意味を「探求」しようとしたにすぎない、と語っている。
(p186)
以上が「レヴィナス入門」から私が特に印象に残った個所です。
次に「他者と死者」からレヴィナスを読みとっていきます。
レヴィナスを「他者と死者」から読む
偉大な書物が偉大であるのは、それが私たちに潤沢な学術情報を提供し、私たちを私的に富裕化してくれるからではない。
そうではなくて、
彼らの書物を読む経験はむしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。
しかし、その自失や眩惑を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである。
(他者と死者p12)
「他者と死者」では、難解さには二種類あると述べます。
- 「むずかしいことを言う」ことが知的威信の一部だと思っている人
- 「何が言いたいのか分からないように書く」のは、彼らの側に「言いたいことがある」というよりむしろ、読者に「何かをさせる」ため
レヴィナスは②です。
では、レヴィナスは読者であるわれわれに何をさせたかったのでしょうか?
それはテクストの語義を追う読みから、書き手の欲望を追う読みへのシフトです。
例えば、「私って甘いもの好きなの知ってるよね?それで大好きな〇〇を食べたんだけど、あー私が好きなものの名前なんだっけ?」
というような、発言した側が師匠になり、問いかけられた側が弟子になるという構造。
この弟子に欲望をかき立てさせる読みをさせることが目的なのです。
1足す2は4だよね
1足す3は?
5って答えて欲しいんでしょ?
弟子は探求している師匠の支えをあてにしながら、その問いを成り立つものとして会話をします。
レヴィナスとラカンは読み手に「ことばの意味」ではなく、「書き手への欲望」(「知から欲望へ」)に照準する読みを開始させるために書いているのです。
語り合う意味
師匠と弟子の関係性から、語り合いが開始されます。
師は弟子に向って、「こちらに向かって来なさい」と語りかける。
このとき、弟子はおのれの外部へ身を乗り出していきます。
それが「主体」。
ここで、先ほどの欲望と欲求の違いを出すと、自分の外部にでるような欲望を師は弟子に要求しているのです。
師の教えは、話の内容にあるのではなく、外部が存在することを教えること。
そうして師と弟子として対話をしていくと、相互に軌道修正していくことがわかります。
相手を見つつ、はじめに言おうとしていたことは形を変えている。
真の意味での対話には、私とあなたと「欲望」の三者が居合わせていると考えるのです。
ということは、もっと難しくしてもこの人には伝わるかな
例えば、師が靴を落とす動作を二度します。
一度目とまったく同じように、二度目もそのようにしてから靴を拾えと弟子に言ったとき、弟子はここに「ルールがわからないゲーム」を見ます。
何かが二度繰り返されるとき、一度目は示すために、二度目はそれを取り消すため(一度目に感じさせたものとは違う何か他の意味が含意されていたものとして見せるため)に。
このように対話は「欲望」を生じさせることを意図していると、レヴィナス哲学では読めるのです。
(対話で)重要なのは「誰」と「誰」が対面しているかではなく、対面的事況そのものが成立することである。
そして、私たちがすでに見てきたように、対面的事況とは「私」と「あなた」の「二者」の間に成立するものではない。
対話とは本質的に「三者協議」なのであり、外部から到来する「第三者」を歓待する場のことなのである。
(p93)
こうして、語り手と聴き手、他者と主体は同時的に生起します。
なぜ欲望が大事なのかといえば、聴き取る欲望がなければ、外部から到来する言葉をわれわれは解することができない。
欲望がうまれなければ、ことばが届かないのです。
あなたにことばを届ける哲学がレヴィナスの哲学
人間と機械の差
また、ラカンは人間を「それが何を意味するのか分からない」(弟子の立場)という事実を受け入れることのできる生き物だと語ります。
そして、ほとんどそれだけが人間とそれ以外の動物とを分けるのだと言うのです。
フッサールがとった「現象学的判断中止(エポケー、ものごとをいったんカッコにいれる)」という行為は無意味に耐えるということであり、それができるのが人間だけだという事でもあります。
このような人間の特有性をレヴィナスの哲学は要求している、と「他者と死者」では解釈していました。
他者と倫理
私と他者における欲望が目的となるとき、私の唯一性の意味も他者によって意味づけられるとレヴィナスの哲学では考えます。
例えば、ハイデガーが死への存在として人間に唯一性を見たとすれば、レヴィナスは他者に私の唯一性を見たのです。
他者(神や死者も含む)からの呼びかけに、私は「これはどういう意味なのだろう?」と問うことで、他者に服従します。
そのようにして私は唯一性を持ち、「ここにはもういない〈彼〉の、誰によっても代替され得ない〈身代わり〉であること」によって私は自己同一性を担保されるのです。
主体性や師匠に従うことは、その役割を私にあてはめる〈身代わり〉になることでもある
これは代役?と思われるかもしれません。
けれど、この代役を演じられる俳優は「誰もその代役を代役できない」という自己同一性、唯一性になるのです。(p236)
この在り方が私の唯一性になったとき、ここにレヴィナスにおける独特な倫理がでてきます。
驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。
(p270)
顔を見て「汝殺すなかれ」という声が私に命令するのではなく、そう聴き取ってしまった私が私自身に命令を下しているのです。
私が他者に欲望しなければ、欲望が生じないように、倫理も他者を通じて欲望されるものと考えます。
神は完全ではないと思うから、私は私を「よく」しようとする倫理を志向し、そこに人間の人間性があると見る
最後に「レヴィナス 無起源からの思考」からレヴィナス哲学をみていきます。
レヴィナスを「レヴィナス 無起源からの思考」から読む
本の副題にある「無起源からの思考」をまずは考えてみます。
「無起源=思考しえないもの」です。(p19)
そうなると、思考しえないものを思考するとは、それは不可能な思考ではないか?という問いが立ちます。
その通りだと、著者は述べます。
けれど、「不可能な思考」を思考する余地がなお残されている。
その余地(無意味さ)を考えてしまう人間を考えてみようと言う営みを、私は本から感じました。
また本には「あなたに向かう」ことそのことが本書の「主題」とあります。
本は私に謎を与え、私はそれに欲望しながら、そこに対話を生じさせている。
私がいて欲望がなりたつように、本と私と欲望によって「思考しえないもの」を考えようとしているのです。
意識の「過剰」
例えぱ古代ギリシアの哲学者パルメニデス「あるはあり、ないはない」を考えてみます。
ないものはあるのではないか?
あるものはないのではないか?
われわれはこのように考えてしまって、この命題に答えを出すことはできません。
これを本では、意識の「過剰」と述べていました。
「ないがある」という可能性を示唆するためには、存在の論理が破れたかたちをとるしかない。
「「ないがある」という不可解な事態に直面しうるほどまでに、意識は「過剰」となっていなければならないのである。」(p95)
これは、私が幽霊をみるかのような出来事だと本では語ります。
ドイツ語では精神も幽霊もどちらも同じ言葉「ガイスト」と言う
「〇〇がある」という驚きは、意識の「過剰」と考えていいかもしれません。
そしてこれは人間にのみ可能であり、この意識の「過剰」を人間を規定するものとしよう、と本では述べられています。(p108)
この「覚醒」に、「欲望」あるいは「愛」という言葉を与えたのはレヴィナスである。
そしてそれは、「顔」という仕方で訪れるというのだ。
「顔」の到来とともに、「覚醒」が訪れる。
(p92)
欲求と欲望
ここでも欲求と欲望を分けます。
欲求は私が取り込むことができるものなのですが、欲望は取り込むことができません。
しかし、ここで新たな問いを私たちに提出します。
欲求と欲望は分けることができるのか?と。
例えば、幼子が井戸におちようとしていました。
あなたはとっさにその幼子を助けたとしましょう。
ここでは、「とっさに」ということが、私に私の欲求を生じさせていない点で欲望だと感じられます。
「私は私のためではなく、幼子のために行動を起こしたのだ」と。
しかし、意識の過剰はそれを許しません。
「私の居心地が悪いから私は助けることにしたのだ(欲求ゆえに)、ということを否定できるのだろうか?」と。
一瞬たりとも、私は欲求することがなかったのだろうか、という自問です。
この欲望に基づいた倫理的行動(他者のためになにかをする欲望)が「よい」ものだとすれば、私はただその「よい」ものだけを実行することができるのか?
そのような倫理的問いが私をめぐるのです。
思考は、みずからがそれに対して判断を下すことができないものを前にして、いぶかっているのだ。
思考のこの「いぶかる」能力、それにレヴィナスは「理性」の名をあらためて与え直したように思われる。
この能力なくしては、そもそも「顔」を介して「他者」へと自己がみずからを差し向けるという「逆転・転倒」の運動の起こりようがないのだから、「欲望」とは徹底して理性的なものであり、理性の本質は「愛」なのだ。
「他者」なるものの「幽霊」に取り憑かれてしまう能力、それを受け入れる能力、それが理性だと言うのである。
(p117)
欲求と欲望を分けようとして分けられないのが理性。
そして、その理性が人間に特有の能力だと考えるのです。
他者に服従することで私は主体性を発揮し、他者への徹底的受動性(気が付いたら考えてしまっている)を通して明らかになったのが人間の理性だ、という理性のとらえ直しです。
他者が確定しないことで、わたしは他者に欲望します。
それは、私を思考へと促す。
他者への向きが意味になるのです。
そしてまた私が思わずにはいられないということにも、レヴィナスは責任の最も基礎的な事態をみました。
「レヴィナス入門」では存在の過剰に焦点をあてましたが、「レヴィナス 無起源からの思考」では意識の過剰に焦点を当ててみました。
(もちろん、「レヴィナス 無起源からの思考」でも存在の過剰についても述べています。)
欲求と欲望と「正義」
欲求と欲望の見分けがつかない。
多くの顔が私に服従しろと謎を出してくる。
こうなると、私には困ったことがでてきます。
私が動かせる体は一つなので、そのときどきによって、何に服従するのかを私は何によって決めているのかということです。
私が「顔」を介して「ありえないもの」に服し、その方向へとみずからをさし出すことが「よさ」だったとすれば、「よさ」はその論理の果てに「正しさ」を要求せずにはいなかったことになる。「よさ」があくまで〈私から他者へ〉という一方的で非対称的な関係だったのに対して、「正しさ」はそのような非対称的な関係である「欲望」のすべてを等しく見渡す地点に(擬制的に)立つことによってはじめて可能となる比較・考量に基づく。すなわち平等性としての「公平さ」こそ、「正しさ」が、つまりは「正義」が立脚する地点の徴表(メルクマール)なのである。
(p239)
「正義」は「欲望しえないもの」「よさではもはやないもの」「強いられるもの(暴力的)」「望ましからざるもの」として、「欲望」を裁くことができるものとして現れます。
異なるものでなければ、比較しえない
正義によって人は裁かれます。
判断しえなかったものが、正義という軸によって等しく判断されるようになるのです。
例えば、この等しさは貨幣によっても示されます。
国家では貨幣が「等しさ」の体現者となるからです。
正義の逆説
つまり理性と国家による力の行使は、私を他者へと全面的に差し出すこととしての「よさ」(倫理的望ましさ)を損ない、「望ましくないもの」の次元へと移行する「悪しき」ものなのである。
(p257)
この問いには答えはないのであり、幻とも現実ともつかないものが折り重なり・二重映しにも三重映しにもなる中でひたすら目を凝らし、眠り込まないよう警戒しつづける者、それが思考なのだ。そして思考の本懐は、それがひたすらあなたに向けて差し出される「言葉」たることにある。
(p264)