「現代に生きる人間の倫理」
第1節「人間の尊厳」
6.パスカルと「パンセ」
>>1.ルネサンスと人文主義
>>2.人間中心主義と人間観の移り変わり
>>3.ルターと宗教改革
>>4.カルヴァンとプロテスタンティズム
>>5.モンテーニュとモラリスト
そんな天才が晩年は神学について考えていた
- パスカルがモラリストな理由
- パスカルの「パンセ」
参考文献 「パンセ」パスカル著 前田陽一・由木康訳、天才科学者たちの奇跡(三田誠広)、『パンセ』で極める人間学(鹿島茂)、哲学用語図鑑
パスカルがモラリストな理由
パスカル(1623-1662)は、「人間の理性が万能であるかのような考え」に危機感を抱きました。
西洋が新大陸を植民地支配したり、弱いものが虐げられる現実。
西洋の知性の暴走を予言したのです。
その点でパスカルはモラリストと言われました。
パスカルの「考える葦(あし)」
葦(あし)とは草のことです。
倫理の教科書にある部分を抜粋します。
人間は一茎(ひとくき)の葦にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼を押しつぶすために、宇宙全体が武相するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
‐だから、よく考えることにつとめよう。
ここに道徳の原理がある。「パンセ」
人間の尊厳のすべては、考えのなかにある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんと愚かなものだろう。考えとは、だから、その本性からいえば、すばらしい、比類のないものである。それがさげずまれるには、そこに異常な欠点があるにちがいない。ところで、それは、それ以上おかしなものはないほどの欠点を持っているのである。考えとは、その本性からいって、なんと偉大で、その欠点からいって、なんと卑しいものだろう。
「パンセ」p233
パスカルはその目的は虚栄心にあるのではないか、って思っている。
考えって考えを止めたものしか書き記すことができないから、考えを伝えようとすると偉大さは消えてしまっていたりするよね
人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大であることなのである。
「パンセ」p248
彼が自分をほめ上げたら、私は彼を卑しめる。彼が自分を卑しめたら、私は彼をほめ上げる。そして、いつまでも彼に反対する。彼がわかるようになるまでは、彼が不可解な怪物であるということを。
「パンセ」p257
しかも、怪物とか言われると、もっと落ち込む…
人間は死から目をそらすために気晴らし(娯楽や社交、競争や戦争)をすると述べている
パスカルはキリスト教の良さを語ったけれど、パスカルの「パンセ」は構成の仕方によっていろんな意味に解釈された
パスカルは神を信じていた。しかし神(宇宙)と人間とを対等なものと考え、人間の偉大さを強調した。神の死を宣言した19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェまでは、あと一歩の距離だということもできる。
「天才科学者たちの奇跡」p48
その背景にキリスト教を「奴隷道徳」だと述べている
パスカルと「パンセ」
パスカルが愛読していたのは、モンテーニュの「エセー」。
モンテーニュに対してパスカルは批判します。
パスカルの「繊細の精神」
「モンテーニュは、現象を見たけれど原因を見なかった(パンセp165参照)」と。
パスカルの言う原因とは神です。
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。
それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。「パンセp183」
神を用いた例。
- 「今自分は起きているのだろうか、寝ているのだろうか」ということがわかる観念は、神から与えられたものだとした(デカルトの神の存在証明)
- アリストテレス哲学において、世界の最初の原因は神の一突きにあると説いた(トマス・アクィナスの神の存在証明)
このように、物事の原理をさかのぼっていくと、どうしても神を証明せずにはいられないのです。
パスカルは言います。
われわれが真理を知るのは、推理によるだけでなく、また心情によってである。
‐むしろ反対に、理性などの必要は少しもなく、すべてのことを本能と直感とによって知ることができたら、どんなによかっただろう。
だが、自然はわれわれに、この賜物を拒んだ。
‐他のすべての認識は推理によらなければ獲得できないのである。
「パンセp188」
でも、知ろうとすることは理性による。
混じりあっていて、どっちがどっちとはすぐには切り離せないんだね
- 幾何学の精神⇒合理的な推理の能力
- 繊細の精神⇒直観的な判断の能力
例えば、愛についての一例をみてみます。
幾何学の精神による愛
一人が私を愛するとする。
その人がその美しさのゆえに愛したのであれば、美貌を損なえば愛はなくなる。
一人が私を性質(記憶、判断)ゆえに愛したのであれば、その性質がなくなれば愛はなくなる。
繊細の精神による愛
クレオパトラは絶世の美女と言われ、人を魅了した。
なぜその人がクレオパトラを愛したのか。
その原因は「私にはわからない何か」であり、例えばクレオパトラの鼻。
そのわからない何かが、大地の全表面を変えた。
パスカルの三つの秩序
パスカルは他にもモンテーニュを批判します。
批判から「三つの秩序」という有名なくだりが見えてきます。
モンテーニュは間違っている。
習慣はそれが習慣であるゆえにのみ従われるべきで、それが理にかなうとか正しいとかのゆえにのみ従われるべきでない(とモンテーニュは述べている)。
だが、民衆はそれを正しいと思うというただ一つの理由によってそれに従っているのである。
さもなければ、それがいくら習慣であっても、それに従わないだろう。
なぜなら、人は理性あるいは正義にしか服したがらないからである。
‐理性や正義の支配は快楽の支配と同様に、圧制的ではない。
これらは人間にとって自然な原理である。
「パンセ」p214
その批判の中から、三つの秩序が説かれています。
物事には三つの秩序がある。
肉体(身体)、精神、意志(愛)である。
肉的なのは富者や王者である。
彼らは肉体を対象とする。
探求者と学者、彼らは精神を対象とする。
賢者たち、彼らは正義を対象とする。
‐これは人が財産や知識を誇りえないというのではない。
ただそれらは誇りの場所でないというだけである。
なぜなら、われわれは、ある人が学者であることは許すとしても、彼が尊大であるのはまちがっていると、彼を説得せずにはいられないからである。
誇りの本来の場所は、知恵である。
なぜなら、われわれはある人が知者をもって自任しているのを眺めながら、彼が誇っているのはまちがっているという事は出来ない。
「パンセ」p295
(本によって翻訳が異なっていますので、倫理の教科書にそって解釈を以下続けます。
訳によって意志が愛や正義になったりしています。)
パスカルは「身体」「精神」「愛」という三つの秩序を立てました。
三つの秩序
- 身体の秩序⇒富者、王者
- 精神の秩序⇒学者
- 愛の秩序⇒聖者
例えば、ある人が美貌やお金を持っていることを自慢していたとします。
すると、人々は反感を覚えるのです。
理由は、それが自慢の場所ではないから。
しかし、聖者が誇られているのをみると、人々は反発ができません。
人は愛(正義)を大切なものだとみなしているからです。
‐普通ありがちなことは、対立する二つの真理の関連を理解しえないで、一方を容認することは他方を除外することであると信じ、一方に固執して他方を排斥し、われわれを彼らに反するものであると考えることである。ところで、排他こそ、彼らの異端の原因であり、われわれが他の真理をも保持していることを知らないことこそ、彼らの抗議の原因である。
「パンセ」p579